* Intersection * <23> 常務の家に二人っきりというのがどうにも落ち着かなくて、それが彼にも伝わったのかもしれないが、あの後二人で外に食事に出て家まで送ってもらった梨華。 そして、手には別れ際に渡されたあの部屋の合鍵が…。 ───いつでも来てくれていいからなんて常務は言ってたけど、勝手に行けるはずないじゃない。 いくらなんでも…。 心配で様子を見に行っただけなのにこういう展開になるのだったら、もう少し考えるべきだったのかもしれない。 ただ、巨哉(なおや)との関係がいい方へ向かってくれたことだけは、良かったと思うべきなんだろう。 はぁ…。 梨華は小さく溜め息を吐くと、手の中の小さな鍵をぎゅっと握り締めた。 ◇ 彼女に自分のマンションの鍵を渡したということは、一歩、どころか、十歩くらいの前進じゃないか? ニヤツク顔を抑えられない崇だったが、さて、これからどうしたものだろう…。 あの時の失敗から急ぐつもりはなかったけれど、こんな微妙な関係を続けるのは、そろそろ限界に達している。 わだかまりも消えた蒼井 巨哉(あおい なおや)とも、いい意味で長い付き合いができる間柄になるのは確定的だし、その点について何の障害もないのだから、彼女と将来を見据えた上での恋人になりたい。 それには、まず何をすればいいのか。 …まさか、この俺がこんなに真剣に恋愛について考える日が来るとは。 いつかは所帯を持つだろうと漠然と思うことはあっても、やはり自分にはピンとこなかったのは、そういう相手に出会えなかったからかもしれない。 ニューヨークでの暮らしに満足していたし、父親の声が掛かった時にはかなり渋々だったが、あのタイミングで日本に戻って来て良かったと心から感謝したいと思う。 しかし、『付き合って欲しい』という崇の申し出を一度断られているだけに二度目で失敗したら一生尾を引きそうだ。 「はっ?!まだ、梨華と清い仲なのか?」 「何、やってんだか。俺がせっかく、二人っきりにしてやったのに」と呆れ顔で日本酒を飲みながら「カーッくるぅ」とオヤジのように声を発している巨哉。 なぜか、親友の晴貴ではなく彼を誘っていた崇、それは彼女のことで恥ずかしい姿をさらけだせるのは巨哉しかいないと思ったから。 「そんなに驚かなくてもいいだろう?」 「驚くだろう。高校生じゃあるまいし、さっさとモノにしないでどうする」 「そうなんだけどさ」と同じ日本酒を口にする崇だったが、今夜は珍しく高級なレストランでもなければ割烹でもない、普通の居酒屋なるものに来ていた二人。 こういう店の方が気兼ねなく何でも話せそうな気がしたのと、学生時代の昔を思い出すのも悪くないと崇の方が提案したのだ。 「君なら、わかるだろう?相手は他の女性とは違うんだ」 今まで想い続けて挙句の果てに横から別の男に掻っ攫われた身の巨哉には痛い言葉だったが、確かに崇の言うように、梨華は今まで付き合ってきた女性達のようにはいかない。 だからこそ、慎重になりがちなのもわからないでもないけれど…。 「何か、梨華が右京さんの胸に自ら飛び込んでいくような、きっかけでもあればいいんだけどな」 「例えば?」 身を乗り出して問う崇に対して、「う~ん…」としかめっ面で塩辛を箸でつまみながら考え込んでしまった巨哉。 それがわかれば自分が先に…と思っても、彼女の心は完全に崇に向いていることは間違いない。 ただ、彼女としてもそういう経験がないだけにどう受け止めていいのかわからないだけなのだろう。 「俺を頼るなって。考えろよ、自分のことなんだから」 「そう言わずに協力してくれよ」 「知らないよ」と巨哉にそっぽを向かれてしまった崇だったが、頼れるのはもう彼しかいなかった。 +++ ───常務、どうしたのかしら? 元気がないようだけど…。 気のせいならいいのだが、いつになく常務に元気がないように思うのは梨華だけだろうか。 話し掛けても「あぁ」とか「うん」しか言わないし、どこか上の空。 ここのところ忙しかったから、もしかしたら、どこか体調が悪いのかもしれない。 「常務、お疲れなんじゃないですか?少し休んだ方がいいのでは」 梨華が彼のデスクの上に置いたのは、いつものコーヒーではなく日本茶に。 あれから彼のマンションに行くこともなかったから、お茶を入れることもなかったが、もちろん合鍵はいつもバッグの中に忍ばせてある。 「ありがとう」 「いただきます」と熱いお茶をフーフーしながら飲む崇。 結局、巨哉からは姑息な手段を取るより素直に気持ちを伝えるしかないと言われたものの、そのタイミングを計りかねていた。 上の空になっているのも、この歳で初めてかかった恋わずらいというやつで…。 …そう言えば、もうどれくらい彼女の唇に触れていないだろうか。 「君が、いつ合鍵を使ってくれるのかなって思ったら、夜も眠れなくて」 「えっ?!」 不意を衝かれて、みるみるうちに頬を真っ赤に染める梨華。 ───常務がそんなことで眠れなくなるなんて…。 半信半疑ではあったが、彼の表情からはあながち冗談とも思えないから厄介だ。 「このままだと、仕事も手に付かなくなるかもしれないな」 「常務?」 「俺のことが迷惑なら、はっきりそう言ってくれていいんだ。君のそういうところが好きだから」 「そんなこと…」 ───迷惑なんて…。 あの時、付き合うことをきっぱり断ったけれど、それでもこうして想ってくれる常務に気が付けば引き込まれている自分がいる。 巨哉の気持ちを知っても心が動かなかったのは、あの人の存在がずっとずっと大きかったから。 「迷惑なんて思ってません。私、常務のことが───」 ───私ったら、何を言おうとしたの。 ここは、会社なのに…。 慌てて言葉を止めると、梨華はきびすを返して常務室を出て行こうとする。 「待ってっ、梨華。今、何て言おうとしたんだ」 ドンっとデスクの上に両手をつき、中腰の状態で崇は梨華を引き止める。 予想外の展開だったが、ここで問い質さなければ一生後悔するに決まっている。 「なっ、何でもありません。ここは会社ですし、仕事中です。どうか、それ以上聞かないで下さい」 「そんなわけにはいかないな。会社の中でも、今は君と俺しかいないんだ。答えてくれなければ、今度こそ、仕事どころじゃなくなる」 崇は急いで席を立つと、ドアノブに手を掛けた梨華の腕を掴んで自身の胸に引き寄せた。 脅すつもりも、怖がらせるつもりもなかった。 彼女の自分を見上げる瞳はひどく揺れていたが、今は藁をも掴む思いで突き進むしかないのだ。 「梨華」 優しく響く常務の声。 いつしか、そう呼ばれるのが心地よくて当たり前になっていた。 「常務のことが───」 …あぁ、俺は夢を見ているのかもしれない。 ※ このお話はフィクションです。実在の人物・団体とは、一切関係ありません。作品内容への批判・苦情・意見等は、ご遠慮下さい。
誤字が多く、お見苦しい点お詫び申し上げます。お気付きの際はお手数ですが、左記ボタンよりご報告いただければ幸いです。 Copyright © 2005-2013 Jun Asahina, All rights reserved. |