* Memory * <1> 「美鈴(ミスズ)さん」 聞き覚えのある声、それもこの場所で名を呼ばれて反射的に声の方へ顔を向けると、そこにいたのは美鈴が大学時代に講師のアルバイトをしていた塾の生徒、広瀬 翔(ヒロセ カケル)だった。 「翔(カケル)…君?」 「美鈴さん、僕のこと覚えていてくれたんですね」 嬉しそうに言う翔(カケル)に『忘れることなんて、できるはずがない』と美鈴は心の中で呟くように言う。 「そりゃあ、覚えてるわよ。翔(カケル)君は、私が教えた中でも特に優秀だったから」 「美鈴さんのおかげで、希望の大学にも合格できました。そして会社にも。でも、美鈴さんもこの会社に勤めていたなんて…今、運命かもって思いました」 ───運命…。 そうなんだろうか? ここで再会したことが運命というのだとしたら、それは幸せなことなのか、それとも不幸なことなのか。 「そっかぁ、高校生だった翔(カケル)君も、もう社会人なんだ。道理で、私も歳をとったわけね」 翔(カケル)に出会ったのは、彼が高校3年の時で美鈴が大学3年の時である。 当時17歳と21歳だった二人が、今は22歳と26歳になっているのだから、5年という歳月は長い。 「そんなことないです。美鈴さんはあの時も綺麗だったけど、今はもっと綺麗ですよ」 「あはは。翔(カケル)君ったら社会人になった途端、急にお世辞も言えるようになったの?」 「お世辞じゃないですよ。僕達新人の間で、美鈴さんはすっごい人気なんですから。塾で講師をしてもらってたなんて言ったら、殺されます」 大げさなんだからと美鈴は思ったが、塾の講師をしていただけならまだしも、翔(カケル)の初めての女性だと知ったら周りはどう思うだろうか? 「恥ずかしいから、みんなには内緒にしていてね」 「もちろんです。これは僕だけの大切な思い出ですから、絶対誰にも言いません」 翔(カケル)の言葉に美鈴は胸が詰まる。 僕だけの大切な思い出───。 それは美鈴にとっても同じことだったが、それを今ここで口にするわけにはいかない。 「ところでいいの?こんなところで、新人が油を売ってても」 「あっ、いけないもうこんな時間」 翔(カケル)は慌てて時計を確認すると、休憩時間の10分がもうじき経とうとしている時間だった。 すぐに持っていた手帳の端に自分の携帯番号を書くと、それを破いて美鈴に手渡す。 「美鈴さん、今度ゆっくりお話しましょう。これ、僕の携帯です。いつでもいいんで、連絡くれますか」 彼にまた逢える…。 そう思うと嬉しくないはずはないのだが、どうしてもそれを心から喜べない自分がもどかしい。 「えっ…う、うん」 曖昧に返事を返す美鈴だったが、翔(カケル)は次の講義に遅れる方が心配だったようで、すぐに走って行ってしまった。 暫く美鈴はその場に立ち尽くして、翔(カケル)と知り合った頃のことを思い出していた。 +++ 有名私大に通っていた美鈴は、大学2年生の時に知り合いに頼まれて塾講師のアルバイトを始めた。 小さい頃から勉強はよく出来る子だったが人に教えるのはこれが初めて、そんな自分にできるかどうか。 人前で話したことなどなかったし、家庭教師のように1対1であればまだしも塾となれば少人数制とはいえ、授業中はいくつもの視線を浴びる。 そこへいきなり大学受験を控えた高校生を教えてくれと言われた時には本気で辞退しようと思ったが、取り敢えずやってみて欲しいと言われ、気付けば結局卒業まで続けることになってしまった。 おかげで、この塾講師のアルバイトをした経験が、美鈴の就職活動に大きく影響したことも確か。 大学合格よりも難関と言われた第一希望の会社に内定を取ることができたことは、誘ってくれた知り合いに今も感謝している。 塾では美鈴は得意の英語を教えていたが生徒との年齢が近かったことも幸いしたのか、その年は塾始まって以来の合格実績を叩き出したのは今も語り継がれいてるらしい。 それを聞きつけた生徒達の入学希望者が殺到したがあくまでも少人数制を貫いたため、入塾テストなるものを実施して入塾して来たのが翔(カケル)だった。 彼はこの辺りでもトップクラスの公立高校に通っていて成績優秀、明るく人懐っこい性格で授業も真剣に聞くし、既に一流大学の合格圏内に入っていた彼は塾としても非常に期待している美鈴にとってはとてもいい生徒。 授業の前や後には必ず質問に来て、わからないところを確認するのが日課になっていたある日のこと。 「先生、質問があるんですけど」 「どこかしら?」 「いえ、あの…」 いつもなら『先生、ここがわからないんですけど』と、参考書や問題集を見せるはずの翔(カケル)がその日に限って、何も持っていなかったし歯切れも悪い。 「どうしたの?」 「実は…質問って言うのは、英語のことじゃないんです」 「他の教科?私でわかる範囲なら、教えてあげられるんだけど」 「いえ、そうじゃなくて…」 他の教科でないとなると、一体なんなのか? 学校のこと、友達のこと。 受験以外でも、色々悩み事や心配事が彼らにはあるのかもしれない。 「どうしたのよ、何があったの?私で良ければ、相談に乗るけど?」 「実は、彼女のことで…」 「彼女?喧嘩でもしたの?」 紺色のブレザー姿の彼は美鈴から見てもなかなかの好青年だったから、さぞかし学校でもモテるに違いない。 大学受験を控えて大事な時期でもあるが、同じように恋も大事だと美鈴は思う。 ただ、二人の間に何かあったとなれば、それをきっかけに成績が一気に下がることもあるかもしれない。 そうなるのが、一番の心配事でもあるけれど。 「そういうわけじゃないんですけど…ここでは、ちょっと」 「わかったわ。もう少ししたら私も帰れるから、駅前のコーヒーショップで待っててくれる?」 「はい、わかりました」 彼の後姿を見つめながら、塾以外の場所で個人的に会うのはどうかとも思ったが、この時の美鈴はそれ以上深く考えることをしなかった。 30分くらいしてからだろうか、約束のコーヒーショップに美鈴が足を運ぶと、窓際の席で翔(カケル)が一生懸命問題集を解いている姿が目に入る。 美鈴はカウンターでコーヒーを買ってから、彼の座っていた席の向かいに腰を下ろしたが、集中していたのか、目の前に行くまで全く気付いていなかった。 「ごめんね、遅くなって」 「こちらこそ、すみません。無理言って」 解いていた問題集を閉じると翔(カケル)は、それを学校指定のカバンに仕舞う。 テーブルの上に残ったのは、飲みかけですっかり冷めてしまったコーヒーだけ。 「ううん、気にしないで。それより、彼女と何かあったの?」 コーヒーには砂糖とミルクをたっぷり入れる派の美鈴は、それらが入ったカップを口にしようとしたのだが…。 「先生は、ヴァージンじゃないですよね?」 「え…」 唐突な質問に目を見開いたまま、美鈴は言葉が出ない。 今時の高校生は、こういうことを平気で口にできるのか…。 ※ このお話はフィクションです。実在の人物・団体とは、一切関係ありません。作品内容への批判・苦情・意見等は、ご遠慮下さい。
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