婚約披露パーティーなんて、想像すらしていなかったあずさ。
一磨の立場を思えば自ら身を引くのが当然だと思っていたし、どんなに彼を愛していてもそうしなければ…。
それは、ただ単に傷つくのを恐れていただけなのかもしれない。
「あずさ」
「疲れた?」と一磨に聞かれて「そんなことないわよ」と答えたあずさだったが、やっぱり疲労は隠せない。
さすが、相手がSEIKEグループともなれば、次男の結婚相手といっても気を使う。
それに心の準備というものもできていなかったし、実際この部分は省かれていて助かったけど。
「なんだか、まだ夢みたいなの。もう、一磨とは…」
パーティーを終えてお互いの家族でゆっくり今後の話をした後、久し振りに一磨のマンションに来ていたが、初めてこの部屋に入った時にあまりに広すぎるからあずさは、『ほんとに一人でこんなすごい家に住んでるの?』と聞いたのを思い出した。
『だったら、お前が早く一緒に住んでくれればいい』と言った一磨の言葉が、近い将来本当になるんだと思うと、なんだか夢みたい。
「夢なんかじゃない。俺は、ずっとあずさの側にいる」
包み込むように抱きしめられて、それが現実なんだと実感させられる。
この温もりが、きっとあずさを守ってくれると。
「一磨」
「俺、今の会社を辞めようと思うんだ」
「え?」
あずさは反射的に顔を上げて、一磨の目を見つめる。
その目は真剣で、ある決意を持って言っているのだということが伝わってくる。
「SEIKEを手伝おうと思ってる。あずさとこれから増えるであろう家族のためにも、その方がいいんじゃないか。兄貴にも、ずっと言われてたんだ。まぁ、親孝行の一つもしておかないとな」
兄を思うあまり、自分を押し殺して生きてきた一磨。
次男なんて、いてもいなくてもという部分もあったけど、今は大切な人と共にこれから増えるであろう家族のため、そしてSEIKEのために尽くしていくのが一番だと考えたから。
こんなふうに素直な気持ちを持てたのも、全てあずさという存在の大きさに他ならない。
「一磨が決めたなら、あたしは何も言わない。でも、野崎君は寂しがるわね、きっと」
確かにあずさの言うように同期で一磨と一番親しくしていた健次は寂しがるに違いないが、それよりも、あずさと親しくしている里穂の方がもっと…。
「健次より、笠沼さんの方が寂しがると思うけど?」
「えっ、どうして?」
里穂は一磨のことが好きとか、ファンとかそんなことはなかったはず。
じゃあ、何で彼女が寂しがるのだろうか?
「ん?あずさも、俺と一緒に辞めるから」
「はい?!あたしも?」
ニッコリ微笑む一磨に素っ頓狂な声を上げたのは、あまりにもあずさの知らないところで色んなことが動いていたから。
「当たり前だ。俺がいないところにあずさ一人、置いていけるか?心配でたまらない」
「そんなこと、勝手に決めないでよ。会社を辞めたら、どうやって生活するの?」
―――心配でってねぇ。
今、会社を辞めたら、どうやって生活するのよ。
婚約したからって、結婚なんていつの話かわからないし、入社5年じゃあ退職金なんて微々たるもの、家賃だって払わなきゃいけないのに貯金が底をつくのも時間の問題よ。
「どうやってって、ここで俺と暮らすのに何か問題がある?」
「え…」
もちろん、一磨はそのつもりで自分も辞める決意をしたのだ。
結婚式はもう少し先になるかもしれないが、一緒に住むんだったら籍を入れてもいいと思っている。
「あずさは、俺と住むのは嫌なわけ?」
「嫌じゃないけど…。さっき、いきなり婚約パーティーなんてものを開かれてよ?次は会社を辞めて、一磨と一緒に住むなんて。あんまりにも急過ぎて、頭が付いていけないのっ」
ほんの数時間の間に人生が180度変わってしまうほどの経験をしたあずさには、すぐに受け入れられるものではなかった。
今の仕事はできれば結婚後も続けたいと思っていたし、辞めることなんてこれっぽちも考えていない。
なのに…。
頭の中がごちゃごちゃになってしまったあずさは、一磨との愛のひと時どころじゃなくなっていた。
+++
「おはよう、あずさ。あら、その顔はもうマリッジブルー?」
休み明け会社に出勤すると女子更衣室内にある各自のロッカーの扉に付いてた鏡を見ながら溜め息を吐いているあずさ。
幸せの絶頂にいるはずの彼女が、なぜか浮かない顔をしているのを見た里穂はわざとそんなふうに言ってみたけれど、どうやら図星だったらしい。
やっと、結ばれる二人の間に一体、何があったのだろう?
「おはよう、里穂。土曜日は来てくれて、ありがとう」
「ううん、それはいいけど。どうしたの?世界中で一番幸せのはずのあずさが、そんな顔して。清家君と、またまた何かあったの?」
『またまた』と言われて、なんだか迷惑ばかり掛けているなとあずさは申し訳ない気持ちになってくるが…。
周りにいる人に気遣いながら、小さな声で里穂に告げる。
「あったっていうか。一磨が会社を辞めて、SEIKEグループを手伝うことになって」
「そう。それは寂しいわね」
仲間が一人減るというのは、やっぱり寂しい。
でも、彼はいつまでもこの会社にいるような人ではないし、それは仕方がないこと。
みんなで快く送り出してあげるのが一番いいと、里穂は思う。
しかし、それとあずさの暗い顔は何の関係が、SEIKEを手伝うことに反対なのだろうか?
「一磨がSEIKEを手伝うっていうのは、あたしも賛成なの。彼自身が決めたことだし、でもね」
「でも?」
パンプスをオフィス用のサンダルに履き替えていた里穂が手を止めた。
「あたしも、一緒に辞めろって言うの」
「あずさも?」
「うん」と頷くあずさに里穂は一瞬驚いたが、よく考えてみれば彼が次男であっても清家に嫁ぐのだから働く必要などない。
毎日楽できると思えば、こんないい話はないのでは。
あずさがいなくなるのはものすごく寂しいけれど、それが里穂だったとしたら悩まず辞めるだろうし。
「いいじゃない。楽できるんだし」
「里穂ったら、他人事だと思って。あたしは、今の仕事を辞めるつもりなんてなかったの。なのに、一磨があたしを一人残すのは心配なんて言い出すから」
…なるほど。
あずさを一人にしておきたくないという気持ちはわかる。
婚約していても、可愛い彼女が心配でたまらないだろうから。
「清家君が、心配するのもわかるわ」
「里穂は、一磨の肩を持つのね」
―――里穂なら、あたしの気持ちをわかってくれると思ったのに…。
一磨のことは好き、だからって、あたしの自由はなくなっちゃうの?
「そんな言い方、してないでしょ?」
「もう、いい」
あずさは一人、更衣室を出て行ってしまう。
その後姿を見送りながら、『やれやれ、どうしたものか』と小さく息を吐く里穂だった。
+++
それからすぐに一磨は課長に退職願いを提出したが、仕事の引き継ぎを考慮して、正式に退職するのは3ヵ月後ということで受理された。
「とうとう、お前も辞めちゃうんだな」
喫煙所に入った一磨の後を追うようにして健次が中へ入ると、他に誰もいないことを確認してポツリと呟くように言う。
真っ先に辞めることを聞かされていた健次だったが、それが3ヵ月後と決まってやはり寂しさは隠せない。
同期で切磋琢磨しながら定年まで過ごすと思っていたけど、清家の人間だと知ってからは薄々そうなる予感はなくもなかったが…。
「健次には、感謝してるよ」
一磨はポケットから取り出した煙草を口に咥え、ライターで自分の分と健次の煙草にも火を点けると煙を大きく上に吐き出す。
「俺は何もしていないけど。平野さん、なんだか元気がないように思うのは気のせいか?」
婚約したと聞かされていたのに、彼女の表情は心なしかすっきりないように思えたのは健次だけだろうか?
「本当は、あずさも一緒に辞めるはずだったんだけど」
「けど?」
あれから、二人の関係に微妙に変化が生じたのは確か。
やっと、ここまで来たというのに…。
「俺としては彼女も辞めてもらって、一緒に住もうと思ってたんだ。式は準備もあるからすぐってわけにもいかないだろうし、籍だけでも入れてさ」
「彼女は、反対なのか?」
「反対っていうか、あずさとしては将来の計画の中で、会社を辞めるつもりがなかったんだ。結婚相手も、普通のサラリーマンだと思ってただろうし」
灰皿にポンッと灰を落とす一磨。
一度は別れを決意していたはず、それを一磨の想いでなんとか婚約、その先の結婚まで繋げたけれど、結果的にはどれもあずさの気持ちを無視するような形になってしまったのでは…。
好きで、一緒にいたいという想いだけで、彼女を縛っていたのかも。
「ここは、彼女の気持ちを尊重した方がいいな。心配なお前の気持ちも、わからないでもないけど」
「でもなぁ」
「大丈夫だ。俺が見張っててやるから」
「それが、一番問題なんじゃ」
「なんだと?」と不満気な顔で睨む健次は、煙草を灰皿に押し付けると新しいものを一本取り出し今度は自分のライターで火を点ける。
ここは健次の言う通り、あずさの意見を尊重しないわけにはいかないだろう。
もう二度と、彼女と離れるようなことにならないように。
◇
―――あぁ〜ぁ…。
あずさは一人自分の部屋でお風呂から上ると、窓を開けた側で火照った体を冷やすように体育座りで星空を眺めながら何度も溜め息を吐いた。
一磨とはあれから、なんだかギクシャクしてる。
それというのも、あたしが彼の気持ちをわかってあげられないから。
でもね、自分はどうしたいんだろうって。
彼のためにいい奥さんになりたいと思うし、将来生まれてくるだろう子供のいいお母さんにもなりたい。
里穂も言ってたように、彼の言う通りにすれば楽できるわよね。
だけど、あたし自身はどうなの?
せっかく仕事もおもしろくなってきたところだし、できればこのまま続けたいって思ったらダメなのかな。
あずさはもう一度溜め息を吐くと暫くの間、星空を見つめていた。
+++
引継ぎで忙しい一磨とは、なかなか時間が取れない。
このまま彼が会社を辞めてしまったら、気持ちまで離れてしまうんじゃないか…。
あずさは居ても立っても居られなくて一磨の家に行くものの、いざとなると中に入るのが躊躇われた。
―――勝手に来て迷惑かも。
エントランスを行ったり来たりしていた、あずさを見つけた人影が…。
「あずさ?」
背後から聞き知った懐かしい声。
名前を呼ばれてわからないけど、涙が溢れてくる。
「一磨」
「どうしたんだよ、こんなところで。それに何で、泣いて」
とにかく家に入ろうとあずさの肩を抱き寄せ、一磨はエレベーターに乗る。
毎日残業続きで帰りが遅かった一磨に比べて、随分先に帰っていたはずの彼女がどうして…。
何かあったのか?
そんな不安が頭を過る。
「あずさ、何かあったのか?」
家の中に入ると肩を抱いたまま、一磨はあずさをソファーに座らせ、寄り添うようにして優しく問い掛ける。
「ううん、ごめんね。こんな時間に」
「俺はすごく嬉しいけど、あずさに何かあったんじゃないか心配だから」
頬に触れる手が、薄っすらと跡を残す涙を拭う。
それが心地良くて、あずさは余計涙が出そうになった。
「あたし、一磨が好き」
「ん?それを言うためにわざわざ来てくれたの?」
…あずさは、それを言うためにわざわざこんな時間に?
「側にいるって言ったわよね?」
「あぁ、ずっと側にいるよ」
この言葉に安堵したのか、あずさは一磨の胸に顔を埋めた。
―――こんなにも好きで…彼の想いも十分わかってるのに…。
「あたしね、今の仕事をもう少し続けたいの。先のことはわからないけど」
「うん。俺も自分の希望を押し付けて、ごめんな。あずさがそうしたいなら、応援するよ」
「ほんと?」
黙って頷く一磨にあずさの顔にも、笑みがこぼれる。
男は好きな彼女の笑顔が見られればそれで幸せなんだと一磨はこの時、再確認させられたような気がした。
「ごめんね、ちゃんと言わなくて。里穂にも八つ当たりしちゃったから、謝らなきゃ」
「どうして、笠沼さんに八つ当たりしたんだ?」
「あたしも会社を辞めるように一磨に言われたって言ったら、里穂が楽できていいじゃないなんて言うから、つい一磨の肩を持つのねって言っちゃった」
…笠沼さんみたいにすんなり受け入れてくれたらなぁ。
と一磨は思ったが、これを今ここで言うとまたややこしくなるから、余計なことは言わないことにする。
「そっか」
「ねぇ」
「ん?」
「一磨が会社を辞めちゃったら、一緒にここに住んでもいい?」
それは願っても叶ってもないことというか、一磨から言おうとしていたこと。
『俺が見張っててやるから』なんて言っていた健次のことなど、信じてなるものかと思っていたし。
「もちろん。その時、籍も入れよう。式は、あずさの好きなように決めていいから」
「うん。でも、なんか変」
「何が?」
「あたし、清家 あずさになっちゃうのね」
「いい名前じゃん」
『いい名前じゃん』と言われて、あずさは思わず吹き出しそうになった。
―――いい名前、かな?
これから、二人の新しい生活が始まる。
きっと幸せになれるわよね?
「キスして」っておねだりしたら、「そんな可愛いこと言うと、今夜は覚悟してね」と彼のハートに火をつけてしまったあずさ。
やっと訪れた甘い時間に酔いしれる二人でした。
To be continued...
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