「春乃、春乃ったらぁ。ご飯食べ行こうよぉ。もうっ、お昼よ?春乃っ」
呼ばれた春乃はというと、課長から頼まれた見積り計算の真っ最中でお昼どころではない。
ズラッと並んだ数字が軽い眩暈をおこしそうなくらいだったが、あと少し。
ここで目を離そうものなら、今までの苦労が水の泡。
『ちょっと待って』と言葉も出せないほど、その表情は真剣そのもの。
しかし、待ちきれなかった友達が側で急き立てるものだから、隣の男が我慢できずに声を発した。
「春野春野って、うっせぇんだよ」
「あら、ごめんなさいね。春野君のことじゃなくて、春乃を呼んだんだけど」
「わかってるけど、耳障りなんだ」とブツブツ言いながら、春乃の左隣の席に座っている春野はコンビニで買って来たであろうおにぎりを頬張り始めた。
春乃に春野。
ややこしい名前だが、ややこしいのはこれだけではない。
春乃のフルネームは出水 春乃(いずみ はるの)。
そして、隣の男のフルネームは春野 泉(はるの いずみ)。
春という字以外は全然違うのに声に出すと全く同じ、姓と名が逆転しているのだ。
初めて会った時にはこんな偶然あるものか?と思ったが、世の中それだけ広いようで狭いということ。
「終わったぁ〜」
大きな声を上げた春乃は、まるで今日一日の仕事を終えたかのような爽快感に包まれる。
それと同時に急にお腹が空いてきたのか、友達と一緒に席を立った。
「しっかし、春野君と隣の席ってのもなんかすごい縁って感じね」
「まぁね。別に苗字で呼べば、何でもないんだけど」
出遅れてしまったせいで食堂はかなり込んでいたが、二人は列の最後に並ぶ。
今日の定食は、チキンソテーかサーモンフライ。
「もし、結婚とかすることになったら、春野 春乃になっちゃうわね?」
「それだけは、勘弁して欲しいわ」
笑い声が、雑踏に飲み込まれる。
誰もがまず思うのは、春乃と春野が結婚することになったら名前がということ。
飲み会の席でからかわれるのはいつものことで、もう慣れっこになってしまったけど。
まだ、そういう関係にもなっていないのに余計なお世話だが…。
「でも、春野君カッコいいし、どうなわけ?」
「え?どうなわけって。あたしが、春野君のことを好きかって聞いてる?」
やっと自分達の番が来てトレーを受け取ると、空いている席を探して並んで座る。
彼女の言うこともわからないでもなく、春野は口は少々悪いのとあまり愛想がよくないのを除けばかなりいい男だと思う。
モテるのも知っているが、春乃がこれといって意識しなかったのは、自分には不釣合いな人間だとわかっていたから。
「そうそう」
「そうそうってねぇ、そんなわけないでしょ?あたしは、初めから勝ち目のない恋はしない主義なんです」
「どうしてよ。春野君、春乃のこと意識してると思うんだけどな」
「あはは。ないない、絶対ないって」
春野が春乃のことを意識しているなんてことは、まずないだろう。
特に誘われたこともないし、日常も彼から話し掛けられることは稀で、ほとんど会話すらしていないというのに。
「じゃあ。試しに今度、飲みに誘ってみて?」
「飲みに?」
「うん。あたしが誘っても、さらっと流されちゃうのよ。だから、春乃が誘ってみたらどう出るか」
「あんた、誘ったことあるの?」
「バレた」とペロッと舌を出す彼女は、おちゃめでとっても可愛いと思うのだが、春野はその誘いにも乗らなかったとは…。
なら、春乃の誘いになど乗るはずがない。
逆にもしも乗ってきたらどうすればいいのか…今は、そんな心配をする必要もないか…。
「わかった。おもしろそうだから、やってみる」
軽く言ってしまったが、春野の意外な反応にちょっと困ったことになるのはこのすぐ後のことだった。
◇
「出水(いずみ)ちょうどいいところへ。悪いけどこれ、A3のは折って、紐綴じするの手伝ってくれないか?3時から会議で使う資料なんだけど、こっちもあってさ」
春乃がコーヒーを入れようと給湯室に行く途中、コピーをしていた春野に呼び止められた。
近くに大量にコピーされた資料が山済みされていたが、それとは別にまだコピーをしなければならないものがあるらしい。
「いいわよ」と気軽に引き受けた春乃はこんな時にと思ったが、ついでにさらっとさっきの件を聞いてしまおうと。
「ねぇ、春野君」
「ん?」
お互い手を動かしながらで、目を合わせてはいない。
「今度、飲みに行かない?」
どうせ、さらっと流されるだろうと思っていたから、春乃は自分の手を休めることなく平然としていたが、春野の方はそうでは済まなかった。
「なっ、何だよ。急に」
「あたし達、同期でしょ?それに隣に座ってるのに飲みにも行ったことなかったし、どうかなぁなんてね」
「他のやつらも一緒とか、言わないだろうな」
「え?」
―――それは、どういう意味?
やっと顔を上げた春乃だったが、彼は何を言いたいのだろう…。
「二人なら、行ってもいいけど」
「二人ならって…やだぁ、春野君ったら冗談言って」
春乃は、笑って誤魔化したが…。
―――話が違うじゃない。
さらっと流してくれないなんて…。
どうせ、冗談なんだろうけどっ。
「冗談なんかじゃないけど」
「ほんとにほんと?」
「あぁ」
とても、冗談を言っているようには見えない。
―――げっ。
ってことは、二人っきりで飲みに行かなきゃならないってこと?
うわぁ、どうしよう。
そんなこと、これっぽっちも考えてなかったのにぃ。
あっさりOKされて、逆に困っている春乃とは裏腹に嬉しそうな春野だった。
+++
「出水(いずみ)、いつ飲みに行くんだ?」
「え…いっ、いつでも」
自分で誘っておきながら、あれからその話には一切触れず曖昧に時間を延ばしてきたのは、きっとなかったこととして記憶から消え去ると思っていたから。
なのに…。
「じゃあ、明日は?金曜日だしさ。飲みに行くの久し振りだから、思いっきり飲みたい」
「明日?いいけど」
―――あぁ、いいって言っちゃった。
男の人と二人で飲みに行くの自体、あたしには久し振りなんだけど…。
このことを友達に話したら、『やっぱりね』って納得してた。
そして、『上手くやるんだよ』って…。
あたしには、そんな気全然ないのになぁ…。
なんだか、気が重くなってきたわ。
◇
週末、誰が見ているかわからないし、春野とは時間差で会社を出ると数駅離れた場所で待ち合わせ。
こんなふうに誘ってしまって、本当のところ何を話していいかさえも…。
余計、春乃の足取りを重くしていた。
「ごめんね、遅くなって」
先に待っていてくれた春野は、遠目に見てもやはりいい男。
今の二人を見て、ただの同僚?それとも、恋人同士?周りはどう思うだろう。
「ううん」と答えた春野と共に並んで歩く。
なんだか緊張して、次の言葉が出てこない。
「誘ってくれて、ありがと」
「え?」
反射的に春野を見上げると、彼は照れくさそうに視線を空に向けた。
春乃としては、友達に言われて面白半分で誘っただけ。
真実を知ったら、今言った言葉はきっと後悔するに違いない。
「出水(いずみ)から誘われると思わなかったから、嬉しかった」
「春野君」
「なんか、隣同士だと変に意識すんだよな。あんまり話もできなかったし、誘おうかなって機会を伺ってたけど、春乃は俺のこと全然そんなふうに思ってない様子だったからさ」
「違うの」
やっと目が合った。
―――春野君は、あたしのこと…。
気付かなかったのは、あたしだけなの?
「あたし、春野君のこと…そんなつもりで誘ったんじゃないの」
「え?」
「ごめんなさい。友達から、試しに誘ってみてって言われたの。他の人だとさらっと流されちゃうけど、あたしの誘いには乗るかもしれないからって」
―――どうしよう…。
こんなことになるなら、軽い気持ちで誘ったりするんじゃなかった。
「そっか」
「春野君?」
「そうだよな。出水(いずみ)が俺のこと、誘うわけないよな」
ゆっくりと歩き出す春野。
その後姿からは怒っているのか、そうじゃないのかはわからないが…。
春乃は急いで春野の前に回ると、もう一度謝る。
「ごめんなさい。春野君には、あたしなんか不釣合いだし、あなたは絶対選ばないって思ってたの。だから…」
初めから諦めてた。
叶わない恋だって…。
「どうする?せっかくだから、飯食って帰る?」
「えっ」
その柔らかい微笑みに涙が出そうになった。
「いいの?怒ってない?」
「怒るより、なんか聞いてると俺達想い合ってるみたいだし」
…不釣合いってのは、こっちの台詞。
口は悪いし、他のやつらみたいに愛想よくおもしろい話もできない。
だいたいな、出水(いずみ)は明るくて優しくて何より可愛いから、みんな狙ってんだぞ?
「でもさ、出水(いずみ)と付き合うと、自分の名前を呼んでるみたいで変だな」
「みんなに結婚したらって、言われるもん」
「春野 春乃になるからな。っつうか、そこまで考えてくれてんだ」
「あっ、そんなこと」
「顔、赤くなってる」
グーッと顔を近付けられて、余計真っ赤になる春乃。
「春野君が、変なこと言うからっ!」
思いっきり春野の背中を叩いたら、「痛ってぇ」って大げさに顔を歪めた。
出水 春乃(いずみ はるの)と春野 泉(はるの いずみ)ってのも、何かの縁。
結婚のことまでは考えてないけど、そうなったらそうなったよね?
To be continued...
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