Night wind |
年度末が近いため、決算報告書作成で連日のように夜遅くまで残業が続いていた。
藍原 美弥(あいはら みや)、23歳 大手商社経理部勤務。
この会社に入社してようやく1年が経とうとしているが、年度末を経験するのは今回が初めてのこと正直こんなに大変だとは思わなかった。
これを毎年繰り返さなければならないとは…。
―――はぁ…疲れた…。
また、溜め息が自然とこぼれてしまう。
最近洋服を買う暇もないし、髪も手入れできずボサボサのまま、これでは男も声を掛けないのは当然だろう。
ここのところずっと週末も休日出勤が続いていたため、明日は久し振りの休み。
ようやくゆっくり休むことができそうだ。
時刻は夜の9時を少しまわったところ、今日はいつもより幾分早い帰宅だった。
そう言えば、家に帰っても食べるものは何もないなあ―――。
近くに24時間OPENのスーパーがあるけれど、一秒でも早くベットに入りたくてずっとコンビニにお世話になりっぱなしだった。
―――今日は、帰りにちょっと寄ってみようかな。
そんなことを考えながら、人気のないオフィスのロビーを出ようとしたところを誰かに呼び止められた。
「藍原さん、こんな時間まで残業?大変だな」
振り返って見た声の主は、天野 聖也(あまの せいや)、去年一緒に入社した同期である。
確か、エネルギー資源事業部とかいうお堅い部署に配属になったはずだった。
実は、あたしはこの人がちょっと苦手。
まだ入社1年だけど、彼はかなり仕事ができて同期の中でも一番出世は間違いないと言われている。
人当たりがよくて、おまけにものすごくいい男なのだ。
あたしは、特に可愛いいわけでもスタイルがいいわけでもない。
自分に自信がないからこの人の傍にいるとなんか虚しくて、できるだけ関わらないようにしていたのだが…。
「天野君のところに比べたら、うちなんて忙しいのは特定の時期だけだし、大したことないわよ」
一刻も早く彼から離れたかったから、そっけない態度で通り過ぎようとした。
「待てよ」
あたしは、彼に腕を掴まれた。
心なしか声のトーンがさっきと違うように感じるのは、気のせいだろうか?
「何?」
「藍原さん、俺のこと嫌い?」
―――はぁ?何、言い出すのこの人?
不意のことで、なんと返していいかわからない。
「何で?」
「いつも、俺を避けてるだろ?」
「べっ、別に避けてなんかいないわよ」
図星だっただけに思わずどもってしまったが、この男が何を考えているのかさっぱりわからない。
「だったら、もう少し一緒に居てもいいだろ」
―――ちょっと待ってよ。
言ってる意味が、全然わからないんだけど…。
「ごめん、バスがなくなっちゃうから急いで帰らないと」
この時間ならまだ十分余裕はあるが、咄嗟のことでこんなことしか思いつかなかった。
「俺、車だから送っていくよ」
「いいわよ、悪いから」
「そうやってまた、俺のこと避けるの?」
―――何で、そういうこと言うかなぁ。
あたしはなんとかして帰る口実を言ってみるも、あっけなく返された。
?まれた右腕が痛い。
「あたしが、いつ避けたって言うのよ。言い掛かりもいいところだわ」
あたしは、彼を睨みつける。
―――何で、こんなことを言われなきゃなんないのよ。
別にあたしに避けられてたって、この人には関係ないことじゃない。
「離して」
彼の手を振り解こうとするが、余計力が強まって振り解くことができない。
「嫌だ」
―――嫌ってねえ、駄々をこねている子供じゃないんだから…。
「ふざけないでよ」
「俺は、至って真面目だよ。藍原さんが、俺の話をきちんと聞いてくれるまで離さない」
なんて強情なのかしら?
大体、あたしになんの話があるっていうのよ。
「わかったから、その手を離してくれる?」
彼は、ゆっくりと手を緩めてくれた。
あたしは小さく溜め息を吐くと、彼の後について駐車場に向かう。
助手席のドアを開けられて、仕方なく乗り込むとどこへ行くともわからないまま彼は車を走らせた。
「あの…」
「天野君?」と声を掛けるが、彼は正面を向いたままで返事がない。
――― 一体、どこへ行くと言うの?
あたしは、段々不安になってきた。
だって、天野君が何を考えているのか、さっぱりわからないんだもの。
ずっと俯いたままでいると、どれくらい走ったのか不意に車が停まった。
そっと顔を上げて前を見ると暗くてよくわからないけど、海が見える場所に来たみたいだ。
「ちょっと出ないか?」
ずっと黙ったままの彼がやっと口を開き、あたしは首を縦に振ると車を降りた。
冷たい風が頬を抜ける。
ようやく春らしくなったとはいえ、3月の夜はまだ寒い。
あたしはスプリングコートの襟を立てるとポケットに手を入れて、彼と並んで海沿いの遊歩道を歩いていた。
遠くにライトアップされた大きな橋が見える。
「ごめん、急にこんなところに連れて来て。でもこうでもしないと藍原さん、俺と話をしてくれそうになかったからな」
彼は立ち止まると苦笑しながら、前髪を掻きあげた。
「藍原さん、正直に言って欲しいんだけど、俺のことどう思ってる?」
「やっぱり嫌い?」って。
「どうって…」
何で、急にそんなこと言うのよ。
「俺、ずっと藍原さんのこと好きだった。だから好きな子に避けられるのってすごく堪えるんだ」
彼は、そう言うと視線を海の方へ移動させた。
―――え?今、なんて言ったの?
好きって、あたしのことが好きなの?
「嘘でしょ?」
「嘘じゃないよ。藍原さん覚えてないかもしれないけど、まぁ覚えていないのも無理ないか…。入社試験の面接で一緒だったんだ、その時からかな好きになったのは」
入社試験?面接?よく覚えていないけど…でもおかしいな、こんなにカッコいい人だったら絶対覚えているはずなのに…。
だけど、そんな前から?
「面接の順番を待ってる時、藍原さん『一緒に入社できるといいね』って俺に声を掛けてくれたんだ。笑顔に釘付けになった。あの時、俺ガチガチに緊張してたから、おかげでものすごく気が楽になったんだ」
―――もしかして…隣に座ってたのあれ天野君だったの?
そう言えば隣の人がすごく緊張してるなあって思って、声を掛けたんだった。
でも別人みたい、今と全然違ってたわよ?
「天野君でも緊張することあるの?なんか、想像できないわね」
「それって、血の通ってない人間みたいだな。俺だって緊張もするし、不安にもなるよ」
「いつも、自信満々なのに?」
いつだって天野君は自信を持ってて、緊張したり不安になったりそんなことないんだと思ってた。
「だから、いつも藍原さんのこと思い出して頑張ってきたんだ。この会社に採用が決まった時、すごく嬉しかった。藍原さんがここに入社するって保障はなかったけど、俺信じてた絶対逢えるって。だから入社式の日に逢えた時は、大げさかもしれないけど運命だって思ったよ。俺、会社に入る前はこんなじゃなかったから、学生時代の友達なんてあまりの変貌振りにすごく驚いてたし」
あたしのことはいいとしても、確かにあたしが記憶している天野君は今と全然違ってた。
覚えてないくらいだもの、すごく影が薄かった気がするし…。
「天野君、あたしのこと美化しすぎだよ。あたしは、そんなんじゃない」
あたしは手すりに捕まって遠くを見つめると、夜景がきれいだ。
「俺さ、自分に全然自信がなかったんだ。何をやってもダメだって思ってた。だからこの会社だって、絶対採用されないって決め付けてたよ。でも面接の時、藍原さんに声を掛けられて、一緒にここで頑張りたいって思ったんだ。それからかな俺が変わったのは、内面だけでなくて外見も、藍原さんにふさわしい男になりたいってね。なのに入社したら藍原さん、俺が話し掛けても無視なだもんな」
そうだったんだ…。
「ごめん。あたし天野君がそんな努力をしてたなんて知らなくて、初めからそうなんだと思ってたから女の子に好かれるのも当たり前みたいに思ってるんだろうなって、そういうのが嫌だったの。本当は天野君と話がしたかったよ、だけど天野君の周りにはいつも可愛い子がたくさんいて、あたしなんかが… 」
「それ、本気で言ってる?」
「え?」
「藍原さん自分のこと、そんなふうに思ってたの?藍原さんは誰よりも可愛いし、輝いているのに。もしかして、同期の奴らがみんな君のこと狙ってるのも知らなかった?」
―――は?
何それ、知らないも何もそんなことあり得ないわよ。
「そんなわけないわよ。誰もあたしのことなんて眼中にないって」
「現に最近、野原の奴、やたら君に声掛けてただろ?食堂でたまに見掛けたんだけど気が気じゃなかったんだからな。藍原さん、無防備すぎるって」
そう言えば、野原君最近よく話し掛けて来てたけど、だからってそんなことないと思うんだけど。
「それで、さっき俺と話がしたかったってのは本当?」
「え?あぁ…うん」
「それって…俺のことちょっとは、好きだったってこと?」
そうかな、でも…。
「―――わかんない」
そんなのわかんないわよ。
だって、今まで天野君のことそんなふうに意識したことないもの。
「だけど、嫌いじゃないわよ。好きとかそういうことはやっぱりわからないんだけど、ただ天野君に嫌われるんじゃないかってそれが怖かったんだと思う。だから、話しかけられなかった」
「本当?俺、すごく期待しちゃうよ?」
ものすごく嬉しそうな笑顔を向けてくる彼が、やたらに眩しく感じられる。
「何で、あたしなの?」
ただ、入社試験の時に声を掛けたぐらいで好きになるなんて…。
それにあたしなんかより、もっと可愛い子いっぱいいるじゃない。
「君でなきゃ、ダメなんだ」
彼は、ふわっとあたしを抱きしめた。
「好きだよ。ずっとずっと君をこうやって、抱きしめたかった」
彼の手が、あたしの背中を上下する。
心地よい暖かさがあたしを包み込む、あたしはそっと彼の背中に腕をまわしていた。
「藍原さん」
暫く抱き合ったままだったが、彼があたしの名前を耳元で囁くように言う。
その声だけでも、ゾクゾクッとするくらいなのに…。
「うん?」
「キスしてもいい?」
そんなこと、真顔でいちいち聞かないでっ!って思ったけれど、さっきの話を聞いてなんだか彼らしいなと思ったりして…。
返事をする代わりにそっと目を瞑ると、少ししてちょっとカサカサした彼の唇が触れる。
彼のキスは、外見と違ってなんだかぎこちない。
でも、こんな彼が好きだなって思う。
あたしの前では自信満々じゃない、今の彼でいて欲しい。
大胆だとは思ったけど彼の首に腕を回して自分から唇を求めると、驚いたのか一瞬唇が離れたが、それでもあたしはやめなかった。
「藍原さん」
「黙って」
夜風は冷たかったけれど、二人はいつまでも抱き合ったままだった。
To be continued...
続きが読みた〜い、良かったよ!と思われた方、よろしければポチっとお願いします。
NEXT
BACK
INDEX
PERANENT ROOM
TOP