ここが、これから私が働くオフィスビルかぁ。
何階建てなのかわからないが、右手をかざしながら、空までニョキニョキと伸びている高層ビルを仰ぎ見た。
───いや、まだ決まってないんだから、かもしれないよね。
夢の第一歩、期待と不安を半分半分に抱きながら、西宮 文香(にしみや ふみか)は銀色の建物の中に吸い込まれて行った。
「いきなり辞めたいって。君も30だし、とうとう結婚する気にでもなったのかい?」
上司である会長の端山 祥太郎(はしやま しょうたろう)は寝耳に水という表情で椅子の背もたれに深く寄りかかりながら、文香の書いた辞表を表裏と交互にひっくり返しながら、セクハラまがいの発言をしている。
言っておきますが、まだ29歳ですからねっ。
「結婚はしません」
「じゃあ、何で?今、君に辞められたら私はどうすればいいんだね。この年寄りを路頭に迷わせる気かな?」
「大げさな。会長は引退すればいいんです。お年なんですから」
「人を年寄り扱いするんじゃない」と、さっきは自分で年寄りとか言っておきながら、やっぱり認めたくはないのだろう。
「で、本当の理由は何なんだい?」
「東京へ行こうと思いまして」
「東京?」
「はい。私も、も・う・す・ぐ・30歳ですから。一度くらい都会の華やかな生活をしてみたいんです。洗練された大人の女になって。今を逃したら、一生後悔するような気がするんです」
ずっと、内に秘めていた野望とでもいうのだろうか。
一度でいいから、都会の華やかな生活を味わってみたい。
そして、あわゆくば素敵な男性(ひと)と出会って…。
それが、今だから。
「あては、あるのかい?」
「いえ。とにかく行ってから決めます。まず、行動を起こさなければ先には進めないと思うので」
「そういう無謀なところは君らしいと思うが、この歳になっても男に免疫がない君が変な輩に引っ掛かって泣くことにならないか、私は心配だ。都会の男は洗練されているし、口が上手いだろう」
───変な輩って…。
『この歳になっても男に免疫がない』は余計ですぅ。
30になろうとしている大人の女が、簡単にコロッと男に騙されたりするもんですか。
「心配なさらなくても大丈夫です。その辺はきちんと肝に命じてますから」
「なら、いいんだが。もう、これを撤回する意思はないということかな?」
「はい。この土地も会社も、そして会長のことも大好きですが、ずっとここに居たら心地良さに甘えてしまいますから」
「一度こうと決めたら絶対曲げない頑固なところは、都会に行っても変わらんようにな」と会長は辞表をそっと上着の胸ポケットにしまった。
受付の綺麗な女性に名前を告げると、まるで要人扱いを受けるが如く随分と丁寧に5Fにある総務部へ案内された。
名前だけは知っている、代が変わってからというもの近年急成長を遂げた国内でも有数のIT企業、せめてもの餞別にと端山の知り合いがちょうど秘書を募集しているというので紹介してもらったのだが…。
───しかし、偉く立派な会社よねぇ。
田舎の会社で自称秘書?をしていた私に勤まるのかしら…。
今から社長との面接で正式に採用が決まると聞いていたので、ダメならダメで他を探すしかない。
「西宮 文香さんね。はじめまして、総務部長の沢渡(さわたり)です。あなたを首を長くして待ってたんですよ」
総務部長は、50代前半?と思われるとても上品な女性。
なにやら、文香の全身を見回しては『うん、うん』と顔をほころばせながら頷いているのが妙に気になるが…。
「西宮です。どうぞ、よろしくお願いします」と深く頭を下げた。
「あなたなら、社長を任せられるわ。女性が苦手なのよ」
「はい…?」
───採用が決まるのは嬉しいけど、女性が苦手って…。
というより、これから社長秘書として働くことになっている私に向かって…それは、初めから女として見られていないってこと?
確かにおしゃれとは無縁な生活を送っていたし、持っている洋服といえば、紺・黒・ベージュのスーツだけ。
長くてサラサラの髪は、いつも一つに束ねているのがトレードマークだし。
だから、都会で洗練された大人の女になろうとはるばるやって来たのに。
ひどくない?
「誤解しないで。社長はその容姿から相当モテるんだけど、昔、女を武器にするような女性(ひと)にこっぴどくフラれたっていうトラウマね。それでも男だし、上辺だけの付き合いしかしなくなって」
「おっと、これはオフレコにしておいてね」と沢渡部長は口元に人差し指をあてた。
「だから、あなたのようにしっかりしていて社長と対等に渡り合えるお嬢さんなら、世の中にはそういう女性(ひと)ばかりじゃないとわかってくれると思うのよ。それにあなたは、ダイヤの原石、磨けば最高に輝く素材を持ってるもの」
「まぁ、あの人はかなり我が侭だけど、そこはガチンと言ってくれて構わないのよ?私は社長が生まれた時から知ってますからね」と文香は褒められているのか、そうでないのか…。
───要するに、女性の外観に騙された経験が未だに尾を引いている我が侭社長ってことね。
何だか、先が思いやられるような…気のせい?かしら。
「あの、そんな方の秘書が私に勤まるのでしょうか?面接で落とされるのでは」
「あなたなら、絶対大丈夫。端山会長のお墨付きですもの。大事な秘書に何かあったら、すぐに戻って来させるからと念を押されてますけど、それはないと私は信じてます」
「そうそう、面接はする必要がないので、すぐにでも業務開始できるようお願いしますね」と既に採用は決まっていたようだ。
すぐに入社の手続きを済ませ、いよいよ社長の元へ。
ドアを数回ノックして沢渡部長の後に付き、中へ入る。
どれだけの広さがあるのだろうか?それより、背後の窓に広がるビル郡に圧倒されて声が出ない。
「社長、本日より秘書として配属された西宮 文香さんです」
「西宮です。よっ、よろしくお願いしますっ」
勢い余って、声がどもってしまう。
逆光のせいか、社長の顔は良く見えないが、実は想像以上に若い?
「あぁ、君が端山会長が絶賛していたという。社長の片平です。これから、よろしく頼むよ」
「色々な面で」と最後に意味深な言葉を残して、すぐにパソコンの画面に視線を落とす。
文香の顔を見ていたのは、ほんの10秒足らずではあったが、『その容姿から相当モテるんだけど』と言っていた沢渡部長の言葉も頷ける。
片平 佑一(かたひら ゆういち)、歳は30代半ばくらいで、今までに見たことがないほどの男前っぷりだ。
こんな男性(ひと)がトラウマになるほど、一体どんな美女にこっぴどくフラれたというのだろうか?
───まぁ、私には関係ないけどっ。
顔合わせもそこそこに、文香の憧れの都会生活は始まったわけだが…。
「西宮君、これを1時間以内に電子化してくれないか」
手渡された書類はミミズの這ったような、きったない字。
暗号以上に解読不可能な上に言っちゃあ悪いが、大企業を背負って立つ社長の字とは到底思えない。
「このように汚い字では、1時間では無理です」
「あ?」
汚い字と言われた挙句、無理だと?
そこを何とかするのが秘書の役目だろうと片平は思ったが、昔から字の汚さでは散々の言われようだったのだから、それこそ何とかしてこなかった自分も悪い。
が、来たばかりの新米秘書に言われたくない。
ただでさえ、女性というだけで偏見を持っているというのに。
昔から大変世話になっている端山会長の依頼に仕方なく引き受けたが、なぜか沢渡は片平の事情を知っているクセに今回だけは端山会長の肩を持ち断固として引かなかった理由がそこにあったとは露知らず。
「じゃあ、どれくらいならできそう?」
「読み上げていただければ、30分で仕上げます」
「わかったよ」
悔しいが、彼女に従うしかない。
できないことをできると言って後でとばっちりを受けるより、ずっといい。
まだ、数日だったが、彼女の有能さと媚びないところは好感が持てる。
「社長、西宮さんの秘書ぶりはいかがですか?」
「あぁ、さすが端山会長の推薦だけはあるな。僕に向かって汚い字とか、できないと言ってくる人間はそうそういない」
「まぁ、素敵」
嬉しそうに絶賛している沢渡を見て「おもしろがってるだろ」と言う片平は、内心ちぃっともおもしろくない。
「いいじゃないですか。社長もこれを機に字が綺麗に書けるよう練習した方がいいですよ?字はその人を表しますからね」
「わかってる、そんなことは」
父の代から勤めている沢渡は、片平にとっても家族同然の存在。
口では偉そうに言っているが、頭が上がらないのである。
「ところで、彼女がなぜ東京に出て来たか知ってますか?」
「いや、個人のプライベートには関心がない」
「都会での華やかな生活と、洗練された大人の女性になるためだそうですよ?」
「は?」
そんな理由で?
何かこう、仕事をバリバリやってキャリアを積みたいとか、そういうことの為にこの会社に来たと思っていたのに意外過ぎる。
「ですから、社長が彼女を洗練された大人の女性にしてあげて下さいよ」
「何で、僕がっ」
「若い女性が一人で都会に出て来てるんですよ?知り合いだっていないでしょう。社長ならその点、女性が苦手でもそこそこ夜遊びには慣れてますしねぇ」
「最後が気になるな」
「それとも、いいんですか?他の男性にその役を取られても」
「僕は別に」
彼女がどんな男と付き合おうが構わないが、端山会長の手前、万が一何かあっても困る。
とはいっても、どうして自分がその役を引き受けなければならないのか。
だいたい、洗練された大人の女っていうのは無理があり過ぎるんじゃないか?
いや、スカートからさり気なく見える足は男をソソルし、あの艶やかな長い髪をベッドの上に広げ、口の減らない彼女を落としたら…おっと、いかんいかん。
僕は何を考えているんだ。
「ほら、社長だってまんざらじゃないじゃなですか」
「いや、僕はっ。もし彼女に何かあれば、端山会長に申し訳ないなと思っただけで」
「社長には、彼女を守る義務と責任があるわけですね」
「そ、そういうことだ」
その押し殺したような笑いはやめてくれと片平は思ったが、上手く嵌められているような気がしてならない。
「手始めに、招待されていた来週のオペラに彼女を同席させたらいかがですか?」
「オペラ?」
すっかり忘れていたが、片平の会社が大口のスポンサーとして協賛していたオペラに招待されていたのだ。
自分は正直あまり興味はないが、芸術に力を入れていた父を引き継いだ以上、無碍にもできない。
「若くて綺麗な女性と一緒に行けば、少しは社長も楽しい時間を持てますよ」
「あのなぁ」
「大丈夫。彼女は裏切ったりしませんよ。あっ、そろそろお使いから戻って来る頃ですから、オペラの件は社長からちゃんと話して下さいね」
「その後、食事も誘うんですよ。いいですね」と念を押して出て行く沢渡。
大きく溜め息を吐く片平だった。
◇
「来週の土曜日なんだが、予定は空いてるかな」
「来週の土曜日ですか?特には」
「コーヒーをどうぞ」と文香は片平のデスクにカップを置いた。
都会に出てきたばかりの彼女は、週末となればまだまだ散らかっている部屋の片付けと名所散策くらいしかやることがない。
それも、お一人様で寂しく。
「オペラでも、どうかと思って」
「え、オペラですか?」
オペラと聞いてもイマイチピンとこない。
というか、これはデートの誘い?いや、それはアリエナイ。
女性が苦手という社長が文香を誘うなんて。
「うちの会社が芸術に力を入れているのは知っていると思うが、オペラにも協賛していてね。招待されていたんだが、君もどうかと」
「これは仕事ではないし、予定があるのなら無理には誘わないが」と片平は彼女の反応が気になって、視線も合わせずにコーヒーを口にする。
見かけに寄らず、大の甘党である片平がコーヒーに入れる砂糖はスプーン小さじ1杯半までとと文香にきつく決められている。
体を心配してのことらしいが、糖尿病になったらどうするんですか?というあのひと言は結構効いた。
ほろ苦さを感じながら、まともに女性を誘ったことがないだけに恥ずかしくて仕方がない。
「いいんですか?他の女性を…」
───おっと、女性が苦手だったんだっけ。
慌てて口を両手で塞ぐ。
「どうせ、あのお節介おしゃべりオバサンに聞いてるんだろ?僕が女性が苦手だってこと」
「はぁ」
「一応、男だからな。女性は好きに決まってる。もちろん、綺麗な女性(ひと)を見れば心も躍るさ。30も半ばになれば、孫の顔だって見せたいと思うし」
「ただ、恋愛となると別でね。どこか本気になれないんだ」と語る片平の初めて見るような顔。
…なんだって、僕はこんな話を彼女にしているんだろう。
誰にも話したことなんてなかったのに。
「社長、ちょっと待ってて下さい」
そう言い残して文香は部屋を出て行ってしまう。
…なんだよ。
人が真面目に話してるのに。
暫くして戻って来た文香が手にしていたのは、片平の大好物であるGODIVAのチョコレート。
「甘いものは厳禁ですが、今日だけは特別にこれをあげます」
「でも、1つだけですからね」と箱から大事そうに取り出すと片平の口元へ。
「はい、口を開けて下さい」
「いや、それは君が食べるために買ったんじゃ」
「そうですよ。こんな高いチョコレートがあるなんて、都会に出るまで知りませんでした。だから、3つしか買えなかったうちの1つですからね。大事に味わって下さいよ?」
たまたま、今日は片平に頼まれてお使いに出たのだが、出先で彼が好きだと聞いていたGODIVAのチョコレートを見つけ(これも沢渡部長からの情報で)、でも買えたのはたった3個だけ。
いくらお金持ちの片平にも、彼女の気持ちがわかるだけにありがたくいただくことにする。
「ありがたくいただくよ」
口の中に広がる至福の瞬間。
「美味しいですか?」
「美味いね」
「良かった」と自分も1つ。
あっという間に溶けてなくなったが、これがウン百円もするなんて。
美味しさと何より社長の笑顔が見られただけでも、それ以上の価値があっただろう。
「社長」
「何だ」
「今の顔、好きです。惚れました」
「は!?」
『何を言ってるんだ。突然』と思ったが、今の彼女の笑顔の方こそ、惚れない男の方がおかしいだろう。
片平は、久々にときめきのようなものを感じた気がした。
「人をおちょくってないで、オペラには行くのか行かないのか」
「行きます。行きます。あ…」
「どうした?」
───よくわからないけど、オペラってドレスみたいなのを着ていくんじゃないの?
そんな服、持ってない…。
「オペラって、ドレスとか着ていくんじゃ」
「ここは日本だから。気になるなら、用意するよう沢渡さんに言っておくが」
「それはダメです。さっき、仕事じゃないって言いました」
「なら、チョコレートのお礼」
「1個ですよ?比較にならないでしょう」
と言ったのだが、次の日になると待ってましたとばかりに沢渡部長改め、お節介部長があれよあれよという間にドレスを用意してくれた。
+++
せめて自分の城だけはと思ったけれど、都会の家賃はめちゃめちゃ高い。
会社でも独身者のために補助してくれたが、あまり通勤時間がかからず、治安もいい場所と選んで、築10年1LDKの部屋を借りるのが精一杯。
唯一、ほんのちょっぴりだけ東京タワーのてっぺんが見えるのが自慢だった。
「社長、もうそろそろ迎えに来る頃よね」
変じゃないかしら。
鏡に映るのは自分であって、自分じゃないみたい。
沢渡部長が太鼓判を押した黒のドレスに大降りのアクセサリーを合わせ、メイクと髪も教えてもらった美容室でアレンジしてもらった。
そんな時、携帯の着信音が鳴り出した。
「はい。西宮です」
『ちょっと早かったけど、ゆっくり出て来て構わないから』
「今すぐ、行きます」
急いでバッグを手に外に出る。
端山会長でさえも乗っていなかったメルセデスを前に思わず、「わぁおベンツだぁ」と叫んでしまう。
出てきた文香を見ると、片平が車から降りて助手席のドアを開けた。
「社長にドアを開けていただくなんて」
「今日は社長はよして欲しいな。休みの日まで仕事してる気分になる」
「片平さんで、いいですか?あの、しゃじゃなくって、片平さんも私のことを西宮君って呼ぶのはなしにして下さいね」
「あぁ」
文香と呼べれば、どんなにいいか。
今日の彼女は想像以上に美しい、普段とはまるで別人のようだが、沢渡が絶賛していたのも頷ける。
その前に、こんな姿を自分以外の男に見せずに済んだことに感謝しなければ。
───やだ、社長ものすごくカッコ良くない?
男性にドアを開けてもらうこと自体初めてなのに。
いつもなら、ああしろこうしろと我が侭ばかり、それがこんなに紳士な態度を取られると調子狂うじゃない。
ただでさえ、男前の彼がハリウッドスター並に素敵に見えるだけにいつものように話ができそうにないし。
「なんだか、静かだな。その服のせいか?」
「え?社長が悪いんです」
「僕のどこが、っていうか、社長じゃなくて」
「片平さんが素敵過ぎるから、調子狂うんです」
何でも思っていることを口に出して言ってしまう文香。
そこも彼女らしいところではあるが、今の片平にとっては逆効果だったかもしれない。
「素敵と思ってくれて光栄だな」
「私が隣にいるのは場違いですね」
「そんなことはないぞ?僕が今、何を考えているか」
「え?」
信号で停車した。
片平は、同時に視線を文香に向ける。
「オペラなんかやめて、二人っきりになりたいと思ってる」
「じょ、冗談はよして下さい」
「これでも、本気で言ってるつもりなんだが」
「なっ」
───何てことを。
本気だなんて、女性が苦手と言っておきながら欲望だけは隠そうともしないとは。
「体だけが目当てなんですか?」
「あ?あのなぁ」
信号が変わり、ゆっくりとアクセルを踏む。
そんなふうに思われたことは心外だが、そう取られても仕方がない言い方をしたのは事実。
欲望だけで言ったのではないことは確かで、本心から二人っきりになりたいと思った理由は自身にもよくわからない。
「悪かった。誤解されるような言い方をして。決して、体だけの付き合いをしたいとは思わないんだ。ただ、心がそう思ったから」
キマヅイ雰囲気の中で劇場に到着したが、会場の雰囲気に飲まれたせいか、さっきのことはすっかり忘れていた。
何もかもが目新しく、胸の高鳴りを抑えられそうにない。
こんな世界があったなんて。
一番いい席でのオペラ鑑賞は文香の人生に大きな影響を与えることになるだろうし、この素晴らしい芸術に協賛している会社を誇りに思うだろう。
───なのに社長は寝てるのね。
文香が帰っても夜遅くまで残業しているのは知っているし、朝も早い。
きっと疲れているに違いない。
そっと寝顔を覗き見る。
二人っきりになりたいと言った彼の気持ちが、本当は嬉しかったなんて言わないんだから。
「いやぁ、素晴らしかったな」
「ウソばっかり、ずっと寝てたクセに」
「はっきり言わないでくれ、自覚はあるんだから」
心底嫌われていないことに安堵しながらもこれから食事に誘っても断られないか、それだけが片平にとっては心配の種だった。
「あのさ、お腹も空いたことだし、食事でもどうかな」
「え?」
大きな目を見開いて片平を見つめる文香。
思わず、吸い寄せられそうになって視線を逸らす。
「レストランを予約したんだけど。嫌な───」
「いいんですか?」
「もちろん」
ここで、さよならするのは寂しかった。
もっと一緒にいて話をしたかったし、彼のことをもう少し知りたいと思った。
都会に憧れて田舎から出てきた一秘書と大企業の社長がどうこうなるとは思えないが、どうせ夢を見るなら今夜だけでも。
片平が連れて行ってくれたのは文香の想像の世界に出てきたレストラン以上にゴージャスで、それでいて落ち着いた雰囲気の店。
メニューはさっぱり読めなかったけれど、その辺は慣れている彼が全てリードしてくれたが、出てきた深紅のワインはとても美味しくて、今まで味わったことのない複雑な何かが交じり合っている。
これも、相当高級なものに違いない。
「美味しいですっ」
「君のご機嫌を取るには、美味しいものを食べさせるに限るな」
やっと笑顔を返してくれた。
一時はどうなるかと思ったが…。
「そう言えば、都会に憧れて出て来たと聞いたが」
「沢渡部長に聞いたんですか?」
黙って頷く片平。
───おしゃべりなんだから。
「片平さんには、わからないと思います」
───都会育ちのお坊ちゃまには、永遠にわからないわよ。
でも。
「そうだ!!片平さんなら、知ってることもあります。いえ、片平さんでなければわからないことが」
「僕にしかわからないこと?」
「大人の洗練された女性になるには、どうすればいいんですか?」
「は?」
真剣な表情で質問されても答えに困る。
今のままで十分だと思うし、無理に大人の女性にならずとも。
いや、なったらなったで余計に他の男が放っておかないだろうし、その役を他のヤツに奪われるのは…。
『いいんですか?他の男性にその役を取られても』と言った、沢渡の顔が目に浮かぶ。
「どうすればと言われても」
「私では無理だということでしょうか?」
「いや、そういうわけじゃない。服装とか、髪型とか、化粧とか、そういうものでも十分変わるだろうし、今の君が既にそうなんじゃないのか?」
文香は自身を指でさすと片平が『うんうん』と頷いてみせる。
そうなんだろうか?
今の自分でも、洗練された大人の女性になれているのだろうか?
「なりたいというなら、僕が力を貸してあげないでもないが」
「ほっ、本当ですかっ?」
「あ、あぁ」
ヤッタ!!と小さくガッツポーズを取る彼女を見て、しまった…と思ってももう遅い。
…なんていうことを言ってしまったんだ、僕は。
+++
「社長、おはようございます」
「おはよ───」
「社長の言う通りに変えてみました。いかがですか?」とポーズを取ってみせる文香。
今までの地味なスーツとは違い、恐らく沢渡の入れ知恵もあったのだろう、スーツではなくワンピースの丈がやや短くなって綺麗な足が余計に目に飛び込んでくる。
そして、髪型と化粧で女は化けるものだと実感せずにいられない。
「良く似合ってるんじゃないのか?」
最後の疑問符が気になるが、初めにしてはいい反応ということにしておこう。
「ありがとうございます。本日のスケジュールですが───」
「社長、どうだった?」
気になって、業務そっちのけで沢渡部長が文香のところへやって来た。
「似合ってるんじゃないのか?と言ってました」
「そう、いいじゃない。あの社長が感想を言うだけでも進歩よ」
片平が自ら協力すると言っただけでも驚きだったが、これも沢渡の思った通りの展開になりそう。
…この二人は、お似合いだもの。
社長にも早く目を覚まさせてあげないと。
「この調子で頑張って」
「はい」
◇
片平には、大人の洗練された女性がどういうものを指すのかなんてわかるはずがない。
単に自分の好みを言っているだけで、それを彼女が忠実に守っているだけだ。
社内の若い男性社員どもが彼女の変化に気付き、昼休みに誘っているのも知っているが、そこは簡単には乗らないようにと忠告してある。
焦らすのも大人の女だと。
「ごめんなさい。お待たせして」
ヒールなのに走ってきたのだろうか?少し荒い息で店内に入ってきたのは3ヶ月前に田舎から出てきたばかりの娘とは違う。
「走って転んだら危ないぞ?」
「もう慣れましたっ」
膨れっ面は相変わらずだが、妙な色気に片平も穏やかではいられない。
「何にする?」
「えっと」
「ビトウィーン・ザ・シーツ」
「なんか、これって意味深な名前なんですもん」
「言っておくが、他の男の前では頼むんじゃないぞ?」
「社長の前でも頼みたくないです」
「プライベートな時間は、社長じゃないだろ」
「はいはい」と文香は聞き流すようにして、言う通りに“ビトウィーン・ザ・シーツ”を注文した。
大人の女になるのも大変だわとこの頃思うのだが、彼にこうして誘ってもらえるのが嬉しかったりして。
いつまでも続くものではないとわかっていても、それでももう少し甘えていたい。
「僕が言うのもなんだけど、西宮さんは十分洗練された大人の女性になったと思うんだ。だから、もう僕の出番は───」
今夜が最後になるとは思っていなかったが、彼が認める洗練された大人の女性になったとするならば、文香はそれを受け止めなければならないだろう。
「わかりました。無理なお願いを聞いていただいた上に色々とありがとうございました。これで夢が叶いました」
「本当に夢が叶ったのか?」
「え?」
欲を言えば、最後に素敵な男性に巡り会えればそれにこしたことはないが、それはすぐそこまで手が届くところに来ているはず。
「それは、どういう意味」
「いや、その」
「じゃあ、今夜が片平さんと個人的に会う最後になりますね。乾杯しましょう」
“ビトウィーン・ザ・シーツ”
自分のベッド彼女で飲んで欲しかったカクテル。
片平は最後にするつもりなど…毛頭ない。
+++
「社長、彼女に何をしたんですか」
「ずっと元気がなくて」とまるで母親のように心配している沢渡、これまた母親に怒られている息子の気分だった片平。
「何もしていない」
「嘘おっしゃい。かわいそうにあんな良い娘(こ)を」
片平だって毎日見ているのだから、それくらいわかっている。
だけからといって、しょうがないだろう?
あのまま、続けているわけにはいかないのだから。
「ここを辞めて田舎に帰ってしまっても、いいんですか?」
「彼女がそう言っているのか」
まさか…そこまで。
「口には出しませんけど」
「きちんとしようと思ったんだ。いつまでも、彼女の夢の手伝いをしているだけじゃ済まなくなって」
「それだけだよ」と静かに話す片平。
「だったら、早くしないと」
「わかってる」
「頑張って下さいよ。社長」
バチっと力いっぱい背中を叩かれたが、これは沢渡の思いなんだろう。
朝からずっと降りっぱなしだったが、夜になって更に激しくなってきたよう。
「社長、お先に失礼します」
「こんな雨だ、僕も帰るから送って行こう」
「いえ」
「社長の言うことは聞くもんだ」
二人っきりになるのは抵抗があるが、断る理由もないわけで。
雨脚もかなり強いようだし、送ってもらうのはありがたい。
しかし、静かなBGMとワイパーの動く音だけで会話がないのはどうなのか。
先に沈黙を破ったのは片平の方だった。
「沢渡さんに、君が元気がないって怒られたよ」
「社長が?」
「西宮さんの心配はするが、片平さんの心配は誰もしてくれない。これって、おかしくないか?」
「差別だ」と片平には珍しい、おチャらけたような言い方に文香がクスっと笑う。
こんなことで少しでも笑顔を取り戻してくれたことが、片平にとって何よりも嬉しかった。
「黙って田舎に帰ったりしないよな」
「え?」
「そんなことを聞いたから」
これも沢渡部長から聞いたのだろう、文香はまだそこまで言っていなかったのだが、そうすることがいいような気になっていたのは確か。
都会に憧れ洗練された女性になるという夢も叶った今、頑張ったところでどうしても叶うことのない恋してしまった男性(ひと)の側にはいられない。
「都会は合わなかったのか?」
「いえ、社長とオペラに行ったり、色々なところに連れて行ってもらって。短い間でしたが、すごく楽しかったですよ。沢渡さんや他のみんなも、いい人ばかりで大好きです」
都会の人は冷たいとか、そんな偏見を持っている人が多い中、実際はとても良くしてくれる人ばかり。
できることなら、ずっとここにいたい。
「他のみんなの中に僕も入ってるのかな?」
「申し訳ありません。社長は…残念ながら入ってません」
「はぁ、面と向かって言われるとショックだな。そこまで嫌われてたか」
ワイパーの後を流れ落ちる雨水が、片平の心の中を表しているようにも見える。
「違いますよ。その反対です」
「は?」
「沢渡さんや他のみんなは大好きですが、社長は私にとって特別なんです。社長は私に『本当に夢が叶ったのか?』と聞きましたけど、その通りです。絶対、叶うことのない夢です」
片平はハンドルを切るとベンツを道路の左端に寄せて停車した。
「絶対、叶うことのない夢とやらを僕が叶えると言ったら?」
「え?」
「というか、ここで君が「はい」と言ってくれないと僕の夢も叶わないことになって、今度こそ沢渡さんも心配する羽目になると思うんだ」
「社長?意味がわかりません」
「いや、だから」
…クっそ、こういう時は何て言えばいいんだ?
「帰らないで欲しい。ずっとここに…僕の側にいて欲しい。仕事もそうだが、プライベートでも」
ちゃんと伝わっただろうか?
ポカンと口を開けている彼女の表情を見るとかなりビミョウだが…。
「あの、社長の夢って」
「初めに西宮さんのことを文香と呼べるようになって、その次はこんなことも───」
シートベルトを外すと片平は助手席側に身を乗り出して、覆いかぶさるように唇を奪う。
ずっと我慢していたが、一度味わってしまえばヤメラレナイ魔力に取り付かれてしまったようだ。
「その後は?」
「ベッドの中でゆっくり考えようか」
雨の中、走り抜けるベンツの行き先は…。
野暮なことは聞かないことにしておきましょう。
ひとまず、おしまい。
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※ このお話はフィクションです。実在の人物・団体とは、一切関係ありません。作品内容への批判・苦情・意見等は、ご遠慮下さい。
誤字が多く、お見苦しい点お詫び申し上げます。お気付きの際はお手数ですが、下記ボタンよりご報告いただければ幸いです。
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