「河合さん、次の問題を解いてみて下さい」
「え?はっ、はい」
取り敢えず立ち上がったはいいが、答えられずに黙り込んでしまった千春。
―――えっと、えっと…。
こんな難しい問題、あたしに解けるはずないじゃないっ。
数学が苦手なの先生、知ってるくせにぃ。
「わかりませんか?」
「はい…」
「応用問題ですが、先生の話を聞いていれば解ける問題です。もう少し、授業に集中してくださいね」
「はい。すみません…」
キーンコーン―――
カーンコーン―――
そんな時、ちょうど授業終了の鐘が鳴る。
「今日は、ここまでです」
いつもなら、教室を出て行く時にちらっと千春と目を合わせる先生が、今日はそれすらなしで出て行ってしまった。
―――何よ、よりによってみんなの前であんな言い方しなくても…。
一体、あたしが何をしたって言うのよ…。
「ねぇ、千春。先生に何したの?いやに機嫌が悪いみたいだけど」
すぐに千春の元にやって来たのは、親友の遙。
普段なら例えわからなくても丁寧に教えてくれる先生が、あんな態度を取るのは初めて。
二人の関係を知っている遙なら、何かあったと思っても不思議はないのだが…。
「知らない。あたし、何もしてないもん」
「でも、あんな先生見たことないわよ?」
「そうだけど…あたしにも、わかんないわよ」
昨日も電話で話したが、いつものように優しかったし、どうして今日になって先生の機嫌が悪いのか、理由が千春にも全くわからない。
「何か、心当たりでもないの?」
「心当たりって言っても…昨日も電話で話したけど、いつもと同じだったし」
「そっかぁ。校長先生に何か言われたのかな?」
「だからって、あたしに八つ当たりしなくても」
「そうよね。先生、そんな人じゃないもんね」
だったら、あの不機嫌な態度はなんだったのか…。
聞いてみたいところだけど、あんな態度を取られてしまうと聞こうにも聞けないし…。
「まぁ、少なからず千春に関係することには間違いないんだから、変なことになる前に謝っちゃいなさいね」
「思い当たる節がないのに謝るなんて、変じゃない」
先生を怒らせるようなことは、これっぽっちもしていないつもり。
もし何か千春の気付かないところでそういうことをしていたとするなら、きちんと言って欲しい。
何も、あんな言い方をしなくても。
「千春が、気付かないだけかもしれないでしょ?」
「そうだったとしても、あたしは悪くないもん!」
「千春ったらぁ」
机に突っ伏してしまった千春、遙もこれ以上何も言えなくなってしまう。
『あんなに千春のことを想っていた先生なのに…ほんと、どうしちゃったのかしら…』
何事もなければいいが…。
そう願う、遙だった。
+++
あの日以来、先生からの電話もメールも全く来ない。
なんとなく千春からは、しにくくて音信不通のまま…。
「千春、元気ないね。先生と本格的に喧嘩しちゃったの?」
さっきから溜め息ばかり吐いている千春を見て、遙はとうとう二人が喧嘩状態に入ってしまったのだと思った。
「喧嘩も何も…あたしにはそんな覚えはないけど、先生から何も言ってこないし、なのにあたしからっておかしいじゃない」
「千春の気持ちもわからないでもないんだけど、意地張ってないで聞いてみたら?」
「別に意地なんて張ってないけど」
「張ってるでしょ?先生、待ってるかもしれないじゃない」
「そうかなぁ」
「そうだって」
―――先生は、あたしから何か言ってくるのを待ってるの?
「このままずっと、この状態はよくないでしょ。ここは、千春から折れてあげるのがいいんじゃないかな」
遙の言うようにこのままの状態は、よくないのはわかってる。
ただ、身に覚えのない千春からというのが、どうにも納得いかなかったのである。
「うん…わかった」
「早く仲直りできるといいね」
お昼休みの時間に早速メールを送ってみたけれど、結局夜になっても先生からの返事は返って来なかった。
◇
メールを送っても、返事がない。
自分にはそんなつもりがなくても、きっと先生を怒らせちゃったんだ…嫌われたんだ…。
そう思ったら、涙が止めどとなく溢れ出た。
「千春、夕飯の時間だぞ。千春」
階下で兄、誠一の呼ぶ声が聞こえるが、とても食事など喉を通りそうにない。
「千春、いるんだろ?入るぞ」
何度呼んでも返事もなく下りて来ない千春を心配した誠一が、部屋まで呼びに来た。
「どうしたんだ、千春?泣いてるのか?」
ベットにうつ伏せになって寝ている千春は、声を押し殺すようにして泣いていた。
「どうしたんだよ。学校で何かあったのか?」
誠一は、ベットの端に腰掛けると千春の髪をそっと撫でる。
兄は千春が泣いていると決まって、こうして髪を撫でてくれた。
それが心地よくて、いつの間にか涙も止まってしまっていたのだった。
「先生が…ひっ…く…っ…」
「先生が、どうかしたのか?」
「わかんな…い…」
「なんだよ、わかんないって。ちゃんと話してくれよ。先生と何があったんだ」
千春自身もよくわからないけれど、誠一はもっとわけがわからない。
落ち着くまで待つと、体を起こしてゆっくり話を聞くことにする。
「話せるか?」
「うん。わかんないんだけど、先生すごく怒ってて…メールを出しても返事もくれないの」
「怒ってる理由が、わからないのか」
黙って頷く千春。
―――あの先生が、怒る?
温厚で『千春ちゃ〜ん』と千春命!の先生が怒るとなれば、余程のこと。
でも、当の千春には身に覚えがない。
う〜ん…。
ここで、誠一が考えてもわかるはずがないわけで…。
というか、その前に理由もなく大事な妹を泣かせるっていうのが許せないだろう。
「わかった。俺が理由を聞いてきてやるよ。大事な妹を泣かせるなんて、いくら先生でも許せないからな」
―――え…なんだか、話が変な方にいってない!?
「え…ちょっ、待ってよ」
「お前は、心配するな。俺が、きちんと話をつけてくるから」
「やっ、ちょっ」
「兄貴っ」なんて、千春の言葉が届く前に誠一は部屋を飛び出してしまった。
―――あ〜ぁ…兄貴、頭に血が上るとカーッとなっちゃうからね。
先生、大丈夫かな…。
やっぱり先生のことが気になる千春は、ご飯も食べずにひたすら兄の帰りを待ち続けるのだった。
◇
先生が部屋で明日の授業の準備をしていると、玄関のブザーが鳴った。
「はいはい、今出ます」と暢気に言いながら、ドアを開けるとそこにはかなり怖い顔の誠一が…。
「やぁ、誠一君。どうしたんだい?こんな時間―――」
「―――に」と言い終わる前に誠一のこぶしが先生の顔面を直撃し、その場に尻餅をついた。
「痛ったー。誠一君、ひどいよ。いきなり」
「ひどいも何もないだろ。千春を泣かせておいて」
「え?千春ちゃんが、泣いて?」
「そうだよ。先生がわけもなく怒っててメールの返事もくれないって、かわいそうに泣いてたんだよ」
誠一は先生をその場に残して、勝手に部屋の中に入ってしまう。
噂には聞いていたが、相変わらず汚い部屋だ。
ソファーに足を組んでどっかと座っていると、暫くしてイテテと言いながら鼻の頭を押さえた先生が入って来た。
「怒ってる、理由を聞かせてくれよ」
先生も誠一の隣に座ると、まだ痛そうに何度も鼻の頭を押さえている。
幸い、血は出ていないよう。
「千春ちゃんがクラスの男子生徒と楽しそうに話してるのを見て、嫉妬した」
「はぁ?」
何を今更―――。
というのが、誠一の心の中の声。
学校にいれば、クラスの男子と話すのは日常茶飯事。
そんなことをいちいち気にしていたら、付き合うことなんてできないだろうに。
「それで怒って、メールの返事もしないのかよ」
「授業で千春ちゃんに当たったのは事実だけど、メールの返事をしなかったのは怒ったからじゃないんだよ」
「じゃあ、なんなんだよ」
嫉妬して授業中にあんなことを言ってしまったのは事実だが、その後千春からもらったメールの返事をしなかったのは、怒っていたからではなかった。
自分のような年上の教師が、千春の彼氏でいいのか…。
同年代の男の子と付き合った方が、いいのではないか…。
そんな思いが、何度もメールの返事を返そうとしていた手を止めることになってしまったのだ。
「僕が千春ちゃんと付き合っていてもいいのかなって、思ったんだ。同年代の男の子と付き合う方がいいんじゃないかって…」
「それこそ、何を今更言ってんだよ。俺は、先生の想いを信じて千春と付き合うことを応援したんじゃないか。そんなことわかってて、4年間思い続けてきたんじゃないのか?嫌いになったのかよ、千春のこと」
嫌いになんて、なるもんか―――。
千春からのメールを繰り返し何度も何度も読んだ。
授業中も俯いたままの彼女を、抱きしめたいとさえ思ったのに…。
「嫌いになんて、なるはずないよ」
「だったら、わけわなんないこと言ってんじゃねぇよ。あいつは、本気で先生のことが好きなんだ。歳なんて関係ない。お互い想い合っていれば、それでいいんじゃないのかよ。好きなら、大切な人を泣かせたりするなよ」
誠一君の言う通りだね。
――― 千春ちゃん…ごめんね、泣かせたりして。
「なんなら俺が、あいつを連れ出すのに手を貸してやってもいいけど」
「えっ、誠一君。それ…」
「俺は、先生と千春のことをいつまでも応援してるから。殴ったりして、悪かったよ」
「誠一君、ありがとう」
「でも、怒られるだろうな」
「どうしてだい?」
「先生を殴ったこと」
千春は、なんだかんだいって先生のことをかばうに決まってる。
逆に誠一の方が『何で、先生を殴ったりしたの!』と怒鳴られるのが目に浮かぶようだ。
「痛かったけど、大事な千春ちゃんを泣かせた罪はもっと重いよ」
「先生」
「誠一君、手を貸してもらってもいいかい?」
「今度、この借りは倍にて返してもらうから」
やっと、誠一の顔に笑みが浮かぶ。
二人はそれぞれの車に乗り込むと、急いで千春の元へと向かったのだった。
家に着くと誠一は、先生を車に残して千春を部屋に呼びに行く。
幸い父は帰っていなかったから、母親に適当なことを言って連れて出て来ると泣いていた言葉通り千春の目はまだ少し赤かった。
「俺が適当に言っておくから、ゆっくり話すんだな」
「ごめんね、誠一君」
目で頷くと誠一は、家の中に戻って行った。
「千春ちゃん」
「先生…」
「ごめんね。泣いてたって、誠一君に聞いて」
先生は千春を車の助手席に乗せると優しく頬を撫でた後、ぎゅっと抱きしめた。
ずっと、こうしたかった―――。
「先生もどうしたんですか?鼻の頭が、赤いんですけど」
「あぁ、これかい?これは、誠一君にね」
「えっ、兄貴が何か…まさか…」
「なんでもないよ、僕のことはいいんだ」
「でも…」
千春は、そっと先生の鼻の頭に触れる。
きっと、兄貴のことだから先生を…。
「本当にごめんね。怒って千春ちゃんに当たったり、メールの返事を出さなかったりして。千春ちゃんは、悪くないんだ。ただ、同じクラスの男子生徒と楽しそうに話してるのを僕が勝手に嫉妬してしまって」
「先生が?」
「子供っぽいって、自分でもわかってたんだけど」
―――そうだったんだ。
朝、クラスの男の子と話してるところを先生が通りかかったのは知ってたけど、そんなふうに思ったなんて…。
「そうだったんですか…嫌われたんだと思いました」
「それはないよ、絶対に。僕の方こそ、いいのかなって。千春ちゃんと付き合ってても」
「どうして、そんなこと」
「同じ年代の男の子と付き合う方が、いいんじゃないかって思って」
「あたしだって、先生はもっと大人な女の人が似合うんじゃないかって思います。でも、先生が好きだから」
先生は、あたしなんかよりもっと大人な女の人が似合うんじゃないかって。
前にお見合いしたことがあって、あの時そう思ったけど…。
でも、先生のことが好きだから…。
「千春ちゃん、キスしてもいい?」
「いつも、聞かないのに」
「そうだね」
―――キスしていい?なんて聞かないくせに。
「…っ…ぁん…せ…ん…せ…っ…」
「そんな可愛い声を出されると、僕も抑えられないよ」
「…やぁ…っん…っ…」
外は暗いとはいえ、車の中でこんな…。
誰かに見られるかもしれないのに…。
そう思っても、千春には拒むことができなかった。
「千春ちゃん、好きだよ。もう、迷ったりしないから」
「せん…せ…」
―――あたしも、先生が好きです。
+++
「ねぇ、千春。先生、鼻の頭どうしたの?真っ赤だけど」
「さぁ、どうしたのかな」
まさか…兄貴に顔面パンチなんて、言えないわよねぇ。
「なんか、角を付けたらトナカイみたいね」
「赤鼻のトナカイ?」
うふふ、ほんとトナカイみたい。
ってことは、サンタさんは誰なんだろう?
あたしは、真っ赤なお鼻の先生も大好きだから。
To be continued...
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