『うわぁっ、雨なんて…』
―――あと、もう少しで駅だって言うのにぃ。
茉莉香(まりか)はこんな日に限って残業になったことを少し恨みながら、近くの建物の軒下に急いで身を隠す。
オフィスを出たところから既にゴロゴロと音を立てていたものの、大丈夫だろうと置き傘を持って出なかったのが失敗、駅まではあと500mほどだったから何とかなると思ったのに、突然のバケツをひっくり返したような激しい雨に足止めを余儀なくされた。
恐らく、通り雨だろう。
雨足が弱くなったら走って駅まで行こう、そんなことを考えながら、せっかく買ったばかりのおニューのバッグが台無しねと中からハンカチを取り出すと濡れた髪の毛に軽く当てる。
ゴロゴロっ
ピカっ
ゴロゴロっ
―――やっだぁっ、雷ぃ。
時折、ピカっと光る稲妻にビクッと体を震わせながら、両耳を手で押さえて固く目を瞑った。
私は、地震と雷が大嫌い。
せめて、こんな時に傘を片手に素敵な王子様でも通り掛かってくれれば。
漫画やドラマの見過ぎと言われるだけだとわかっていても、こういうシチュエーションの時は少なからず乙女なら想像するシーンだろう。
しかし、無常にもこの辺りはほとんど人通りがなく、見知った顔さえ通る気配もない。
再び雷が鳴って稲妻が走ると、茉莉香(まりか)は無意識に後ずさりしたが、その時ちょうどドアが開いた。
よく見れば、一面黒ずくめの漆喰の壁に小さく『R's Bar』の文字が。
「あっ、ごめんなさいこんなところで。すぐに行きますから、もう少しだけ雨宿りさせて下さい」
「雷の音に思わず出てきたんですけど、すごい雨ですね。良かったら、どうぞ中に入って下さい」
「いえ」
「そんなところじゃ、また濡れてしまいます。どうぞ、今夜はお客さんもいないので」
「って言いながら、いつもあまりいないんですけどね」とその店のマスターらしき男性は、ドアを開けたまま、茉莉香(まりか)に手招きする。
駅の近くにありながらこの店のある道をほとんど通ることがなかったのは、信号の関係でどうしても繁華街の道を選んでしまうから。
それに加え、この店構えと入社数ヶ月でやっと研修を終えて配属されたばかりの茉莉香(まりか)には気付かなくても不思議はないのかもしれない。
―――それにしても、お客さんのいないバーに一人で入るなんて…。
マスターらしき男性は40代前半くらいの優しそうで、暗がりでもはっきりとわかるくらいのなかなかのイケメン。
だけど、もしボッタクリだったりしたらどうしよう…。
そんな不安も頭に過ぎったが、「タオルをどうぞ」などとあまりに親切にしてくれるものだから、ついお言葉に甘えて中に入ってしまった。
店内はアンティーク調でシックな雰囲気の落ち着けるバーで、80年代に流行ったであろうと思われるクリストファー・クロスのニューヨーク・シティ・セレナーデが耳に心地よく入ってきて、雷雨のことなどすっかり忘れさせてくれた。
「さぁ、どうぞ。コーヒーでも入れますから」
「えぇ、それは…」
「遠慮は無用ですよ」
古びた木製のカウンター席に腰を下ろす。
ニッコリ微笑むマスターらしき男性はやはり思った通りの整った顔立ちをしているが、茉莉香(まりか)が少しだけ彼に気を許したのは、左指に納まったシルバーのリングを見たからだろうか。
「あの、せっかくなのでお酒を頼んでもいいですか?」
「それは、もちろん」
「じゃあ、雨にちなんだカクテルをお願いします」
「雨かぁ、難しいけど素敵なお嬢さんの頼みとあれば、ご希望のものを作りますよ」
おチャらけた言い方をして微笑むと目尻の辺りに皺ができて、それが彼の人柄を表しているように感じた。
外はまだかなりの雨が降っているようだったが、邪魔にならない程度に流れる音楽とシャカシャカっとシャイカーを振る音が心地いい。
ピンヒールを履いて足なんか組んだ大人の女性を思い浮かべながら、ついこの間まで学生だった茉莉香(まりか)は急に大人の仲間入りをしたような気がしてワクワクする。
「えっと、あなたの名前は?」
「私ですか、茉莉香(まりか)って言います」
「じゃあ、雨の日茉莉香(まりか)ちゃんスペシャルってことで」
目の前に置かれたカクテルグラスには無色透明で、炭酸の泡が不規則にプクプクと湧き上がってくる。
雨の日にこれを飲めば、憂鬱なジメジメ気分もどこかに吹っ飛んでしまうだろう。
「わぁい、いただきま〜す」
「あぁ〜シュワシュワするぅ」とお子様な感想しか言えないけれど、とっても大人の味がして、その優越感がたまらない。
「気に入ってくれるといいんだけど」
「はい、気に入りました。このお店の前で、雨宿りして良かったです」
たまたま、このお店の前で雨宿りをしただけなのにそれが新しい発見と出会いを生んでくれた。
―――たまには、こんな時間の過ごし方も悪くないな。
緊張して一人でファーストフード店にも入れなかったけど、これを機に“お一人様”にも挑戦してみようかしら?
話ベタの茉莉香(まりか)も彼の話術にはめられたのか、スラスラと会話が弾み、気が付けば随分と時間が過ぎていた。
「御代はいいですよ。また、雨の日にいらして下されば」
またまた、お言葉に甘えて茉莉香(まりか)が店を出ると、すっかり雨は止んで夜空には星が輝いていた。
+++
気象庁の正式な発表はまだないが、梅雨明けしたかのようにあれからずっと雨は降っていなかったのにそんな久し振りの雨に思い出すのは一週間ほど前に雨宿りしたついでに入った『R's
Bar』のこと。
マスターの名前が亮大(りょうた)さんと言うので、その名が付いたと聞いたけれど、今夜はちょこっと寄ってみようかな。
信号を待って、その道を通ると黒壁のドアを開ける。
「こんばんは」
「いらっしゃいませ。やぁ、茉莉香(まりか)ちゃん。今夜も雨宿りかい?」
「いえ、今日はちゃんと傘を持ってますけど、雨の日に来るって約束していたので」
「嬉しいなぁ、また来てくれるなんて。さぁ、どうぞ」
この前来た時と同じカウンター席に腰を下ろしたものの、店内は茉莉香(まりか)が知っていたはずのバーとは全く違う空間のように思えた。
「随分、込んでますね」
「バイトを一人入れたんで」
そっと店内を見回してみると、若い女性のお客さん達に囲まれていた青年が目に入る。
いわゆる、正真正銘のイケメンというやつだろう。
「そう。僕の甥で聖(ひじり)君と言って、大学の3年生なんだけど。どうしても二十歳になったら、ここでバイトしたいってきかなくてね。こんな道楽でやっているような店にバイトを雇う余裕なんてないし、お客さんいっぱい連れてきたら考えてやるって言ったらこの有様」
「モテ男は違うよな」としみじみ、話すマスター。
―――甥?
聖(ひじり)君って名前まで今時っぽいわね、と思いながらも道理で似ているとは思ったけど、ここでバイトしたかったのは何でかな?
彼ならもっと華やかな場所で働いても、いいはずなのに。
余計なお世話だけどっ。
「大丈夫、私はマスターのファンでここに通いますから」
「ありがとう。そう言ってくれるのは、茉莉香(まりか)ちゃんだけだよ」
「オジさんは嬉しいよ。クゥ」と大げさに泣く真似なんてしながらそんなことを言っているが、マスターはちっともオジさんなんかじゃない。
若々しくてダンディだし、茉莉香(まりか)は同年代の男性にはどうしても抵抗があって、上手く話をすることができないけれど、マスターほど歳が離れていればそれを感じずに済むから。
「また、この前のを頼んでもいいですか?」
「雨の日茉莉香(まりか)ちゃんスペシャルね?了解」
もう一度店内を見回してみると女性特有の甘い香りでいっぱいだったが、見ればみんな自分よりも若く見える。
きっと、聖(ひじり)の同級生なのだろう。
―――道理で、世界が違うと思ったのよ。
はぁ〜と茉莉香(まりか)は心の中で溜め息を吐くと、いいお店を見つけたと思ったんだけど、これじゃあ来にくくなっちゃうわ。
私はマスターがいてくれれば良かったのに…マスターのシェイカーを持つ手をジっと見つめていたが、いつの間にか至近距離に顔があって、思わず仰け反り過ぎて椅子から落ちそうになった。
「いらっしゃいませ。お姉様は、何になさいますか?」
「え?あっあぁ、私はもうマスターに頼んでますから」
「な〜んだ、つまんないの」
―――何よ、つまんないのって。
だいたい、お姉さまってねぇ、そういう言い方嫌味っぽいから止めてくれない?
二十歳になったばかりだからって、たかが3歳くらい…。
とか言いながら、その差は大きいかな。
働き始めてからというもの、ほんの数ヶ月ですっかりクタびれてきた感もあったしね。
しかし、彼はモテ男と言われるだけあって、背は高いし、爽やかで綺麗顔。
それにしても、彼がここでバイトをするだけでこんなにも商売繁盛するなんて…。
顔がいいって、得なのね。
「こらっ、大事なお客様に失礼だろう」
「だって、俺に紹介もしてくれないで亮さんが茉莉香(まりか)ちゃんって、楽しそうに話してるから」
「彼女は僕のお客様なんだから、聖(ひじり)君は自分のお客様の相手をしていなさい」
「ちぇーつまんないの。茉莉香(まりか)さんもこんなオジさんより、俺みたいな若い方がいいでしょ?」
同意を求められても困るが、そういう若さを武器にする辺りはまだまだ子供なのかなと思ったり。
「お生憎様、私は年下好みじゃないのよ」
「ちぇっ、可愛くないな」
「どうせ、可愛くなんかないですから」
他愛のない会話だったが、こんなふうに違和感なく話せたのは初めてだったかもしれない。
―――イケメンなのにね。
その後は、カクテルを味わいながらマスターとの会話を楽しんで店を出た。
カラッと雨も止んでいて、今度こそ梅雨明けだろう。
そうしたら、もうココへは来る口実がなくなってしまうけれど、その時はまた別の手を考えればいいかな。
「茉莉香(まりか)さん、待って」
「えっ、聖(ひじり)君」
「傘、忘れてるよ。まったく、社会人のクセに抜けてんな。一体、今まで何本の傘を置き忘れたんだよ」
「届けてくれたのは感謝するけど、ひと言余計よ」
これも、今季買ったばかりの黒地にピンクのドット柄と縁取ったフリルが可愛い傘を彼から受け取る。
―――そりゃぁ、彼の言う通り、今まで何本の傘を置き忘れたかなんて数え切れないからわからない。
だけど、初対面のあなたに言われたくないわね。
仮にもお客様なんだ・か・ら。
「ねぇ、どこかにおつかい?」
「ん?危なっかしい茉莉香(まりか)さんを駅まで送ろうと思って」
「は?危なっかしいってね。駅はすぐそこでしょ。いいわよ、無理に送ってくれなくたって」
駅まで500mほどなんだから、何もワザワザ送ってくれなくてもいいわよ。
「あのさぁ、大人なんだからそういうのわかってよ。俺は茉莉香(まりか)さんと一緒にいたいから言ってるの。傘を忘れてくれてラッキーとか思ってたのに」
「そっ、そんなこと。大人とか関係ないでしょ?人のこと、抜けてるとかいって馬鹿にしておいて」
―――どういうこと?一緒にいたいなんて。
ちょっとでも、気を持たせるようなこと、言わないでっ!!
社交辞令とはわかってても、ただでさえ、こういうの慣れてないんだから。
「怒った顔も可愛いんだ」
「あのねぇ、本気で怒るわよっ」
「お世辞とかじゃなくて、ほんとに可愛いなって思ったんだ。亮さんに雨の日に素敵な女性が来たって話を聞いててさ、今日は会えるかなって楽しみにしてた」
「初対面で、軽い男とか思うだろうけど」と話す彼の目は真剣そのもので、とても冗談を言っているようには見えなかった。
「そうやって、色んな女性(ひと)に声掛けてるんだ」
「違うよ。必死だって!!どうやったらまたあなたに会えるのか、携帯番号はもちろん、メアドなんて絶対教えてくれなさそうだし」
「よくわかってるじゃない」
無視して歩き始める茉莉香(まりか)の後を追い掛ける聖(ひじり)は、言葉通り必死だった。
―――何で、私?
そう思わずにいられなかったのは、自分が一番よくわかってる。
「俺さ、まだまだカクテル作るの下手だけど、亮さんに習って作るよ。晴れの日茉莉香(まりか)ちゃんスペシャル」
「晴れの日?梅雨が明けたら、毎日行かなきゃならないじゃない」
「そうなったら、毎日あなたの顔が見られる」
「バッカじゃない?」
「私はまだ社会人になったばかりなの。毎日行ったら、お給料をいくらもらっても足りないわよ」、ただでさえ、一人暮らしもしてるから厳しいのに…。
だいたい、そんなことをしたら、お客さんが減って、あなたもバイトをクビになるわよ。
「だったら、今度の日曜日、デートして?俺、バイト休みだから」
「何で、私があなたとデートしなきゃならないの」
「彼氏いるの?」
「え?いっ、いないけど…」
―――どうせ、いなくて悪かったわよ。
こんなんだから彼氏もできないの、そういうの勘の鋭いあなたならわかるでしょ?
「じゃあ、決まり!!」
「勝手に決めないで」
「これ、俺の連絡先。絶対、絶対、電話して。待ってるから」
「約束だよ。おやすみ」ってほっぺにチュウされて、どうしたの?ってくらい真っ赤に頬を染めた茉莉香(まりか)。
―――途中、電車で居眠りこいて、傘忘れるなよ?は、余計なお世話。
何よ、年上女をからかって、おもしろがってるだけなんだから。
「ちょっと、傘忘れてますよ」
眠り込んでた茉莉香(まりか)は慌てて電車を降りようとして、入れ替わりに椅子に座ろうとした中年男性に声を掛けられた。
「すみません、ありがとうございます」
―――聖(ひじり)君の言う通りになっちゃったじゃない。
+++
「遅い!!」
「5分の遅刻くらい許してくれたって」
「私を待たせるなんて10年早いのよ。もう、二度と会ってあげないんだから」
「そりゃ困る。電話もらってすっげぇ嬉しくて」
「ほら見て?目が充血してるでしょ。昨日の夜眠れなくって」と、指をあてながら目をグイっと近付けてくる聖(ひじり)。
―――わかったから、離れてよ。
確かに充血してるけど、それは夜遊びのし過ぎだからなんじゃないの?
「ねぇ、さっき二度と会ってあげないって言ったよね」
「あぁ、言ったわよ。それが?」
「って、ことはまた会ってくれるつもりだったってこと?」
「えっ…だから、それは…言葉の文…今、二度と会わないって言ったでしょっ」
ニヤニヤしながら「恥ずかしがらなくても」って言われても、恥ずかしいのよ。
そんな心の内を悟られないように下を向いたまま、どこに行くわけでもなく、人を避けながらただ前に進んで行く茉莉香(まりか)。
迷いに迷って電話を掛けたのは昨日の夜のことだったけど、まるで私からだってわかったように『茉莉香(まりか)さん?』って第一声には驚いた。
『待ってたけど、諦めてた』という、彼の言葉に困惑しながらも、それが本当ならやっぱり嬉しい自分がいるのも確かだった。
―――同じ携帯会社だったから良かったけど、電話で1時間以上も話していたなんてね。
相手はイケメンなんだし、どうせ暇な休み、一人で過ごすより軽い気持ちでデートくらい受けてもいいのにこういうところが固いと思う。
「聖(ひじり)君は今日だけじゃなく、私と会いたいの?」
「会いたいよ。これを機に正式にお付き合いしたいと思ってるんだけど」
「だったら、ここでキスして。本気を見せて」
―――私ったら、何を言って…。
気付けば、歩行者天国の交差点のど真ん中。
ドラマの撮影じゃないんだから、こんなところでキスはあり得ないだろう。
「俺の本気を受け取って」
茉莉香(まりか)の「うそっ、待って」の言葉など、彼の耳に入っているのか、いないのか。
うっとりとただ、彼のキスを受け入れる。
―――『俺の本気』を受け取ってしまった以上、お付き合いしなければならない…のよね。
「年上の女をフッたりしたら、後が怖いんだから」
「わかってる。でもさぁ、茉莉香(まりか)さんが俺をフッた場合はどうなわけ?」
「え?その時は、その時でしょ。潔く諦めなさい」
「は?きったねぇ。何で、茉莉香(まりか)さんだけ」
腑に落ちない様子の聖(ひじり)だったが、それが年上女と付き合う上での特権ってものなのよ?
「まぁ、私がフルことはなさそうだけど」
「えっ、今何て」
「さぁねぇ」
「こらっ、肝心なことなんだから、ちゃんと言ってくれないと」と焦りまくっている聖(ひじり)を他所に茉莉香(まりか)は、彼の指にしっかり自分の指を絡めて歩く。
いつまでも、離さないように。
To be continued...
お名前提供:茉莉香(Marika)&聖(Hijiri) /亮大(Ryouta)… しろ さま
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