「ねぇ、寿珠(すず)っ。チーフ、地上勤務になるってほんと!!」
鼻息荒い、まるで戦いの前の闘牛のような絵里子。
そんなことは、どうでもよくて。
チーフが地上勤務になる?そんな話は寝耳に水だが、彼の一番近くにいるはずの自分が知らずして、なぜ絵里子が。
「え?」
「聞いてないの?てっきり、寿珠なら知ってると思って」
あんなに鼻息の荒かった絵里子だったが、返ってマズイことを言ってしまったと顔をしかめてバツが悪そうだ。
彼女である寿珠に話していないのは地上勤務になる件が単なる噂話だということかもしれないし、そういう話は出ていても、これから話すつもりだったのかもしれない。
「地上勤務になるんだ」
「ほらっ、まだ決まったわけじゃないし。将来の幹部候補だって。寿珠ったら、重役夫人になれちゃうかも?」
「そんなことまで」
「噂なんて、伝わるうちに大きくなるもんなのよ」
火のないところに煙は立たないということわざもある。
まんざら、噂だけでもなさそうだ。
「寿珠のモノだけどさ、見てる分には目の保養になったのよねぇ。チーフ」
「もう一緒に乗ることもないとなったら、寂しいかな」絵里子の本音。
いつもいつも同じ便で仕事をしているわけではないが、やはり角田がチーフの時は心が躍るのは否定できない。
だからといって、業務が疎かになっているわけではないのだが…。
「例え、チーフが地上に降りたとしても、私達は空の上でいつも通り頑張るだけ」
「そうね。今日は誰か、素敵なお客様乗ってないかしらん」
相変わらずの絵里子だが、こういう彼女に助けられる部分は大きい。
しかし、飛行機が好きだと言っていた遼介が、いくら上から言われたとしても、昇進を理由に受け入れたりするのだろうか?
何も聞かされていない寿珠は、複雑な心境を隠すことはできなかった。
◇
フライトを終えて、一人自宅マンションへと帰路につく寿珠。
電源を切っていた携帯を確認したが、先に到着しているはずのロンドン便に搭乗していた遼介からの着信もメールもない。
あぁ〜あ、もしかして、もう飽きられちゃったとか?早っ。
彼にとっては割り切った付き合いで、ある一定の線を越えないようにしていたのかもしれない。
本気になったのは寿珠だけだったのかも…。
いいんじゃない?
重役でもなんでもなって、お似合いのお嬢様とでも結婚すればいいじゃない。
私だってねぇ、何も好き好んでチーフパーサーなんかとお付き合いなんて。
「何をブツブツ、百面相してるんだ?怪しいやつだな」
「あ…」
なんで、ここに遼介が。
てっきり、忘れられていたとばかり思ったのに…まさか、ここで待っていてくれたとか?
「そんなに驚かなくても。そうか、俺に会えて嬉しいのか」
「一人で言ってて」
寿珠はワザと素っ気ない態度で彼の前を素通りする。
「こら、ただいまのひと言もないのか?」
「ただいま」
それだけ言うと、キャリーバッグを引いて再び歩き出そうとする寿珠の腕を遼介がしっかりと掴む。
何か理由はわからないが、めちゃめちゃ機嫌悪い?
ちゃんと彼女のフライトスケジュールを把握して、一緒に帰ろうとこうして待っていたというのに。
「うちに来るだろう?」
「行かない。疲れてるの」
「何が不満なのかわかんないけどさ、俺が美味いもん作ってやるから。部屋でゆっくり寝れてばいいだろう?」
本当なら遼介だって、いやそれ以上に疲れているはず。
先に着いていたのにも関わらず、寿珠を待っていてくれたというのにこんな態度を取ってしまう。
自分が悪いのもわかっているが、素直に甘えられない自分がいるのも確か。
「私のベッドで寝たいの」
「だったら、俺が寿珠の家に行くよ」
寿珠のキャリーバッグを持って先に行ってしまう遼介。
ちょっと待ってよと追い掛ける寿珠、こういうふうに勝手に決められて彼の言いなりになるのも嫌なのに…。
最後は付いて行ってしまう自分に腹が立ちながらも否定できずにいるのは、なんだかんだいって彼が好きだから。
ビートルが向かう先は寿珠のマンションではなく、遼介のマンション。
最近、車を買った彼女の家には駐車スペースがないからで、どうせ料理を作るんだったら自分の慣れたキッチンの方がいいでしょ?
途中で食材を買うためにスーパーに寄ったが、膨れっ面の寿珠はひと言も言葉を発せず、シートに張り付いたままだった。
部屋に入ると微かに遼介の匂いがする。
いつの間にか、寿珠にとって我が家以上に居心地のいい場所になっていたのだと今更、気付いたりして。
ナチュラルなベージュで統一されていた部屋が、彼女の好みで差し色に水色のクッションを置いたり。
彼は寿珠の選んだものに文句一つ言わないけれど、本当のところはどうなんだろう。
ソファーに深く腰を埋めると、寿珠はお気に入りのクッションを抱いて静かに目を瞑った。
「紅茶、入れるから」
初対面の時は怪訝そうな態度ばかり、それなのに付き合い出したらこの優しさはギャップが激しすぎるじゃない。
それに『俺が一生甘やかしてやる』なんて言うから、つい。
あの頃は、嫌われているとばかり思っていたのに…。
「特製の蜂蜜入り紅茶。これで、少しは機嫌直してくれよ」
ガラス製のカップをテーブルの上に置くと遼介は寿珠の隣に腰を下ろしたが、クッションに顔を埋めたままの彼女はピクリとも動かない。
「ほれ、どうしたんだって」
「ちゃんと言ってくれないとわからないだろ?」クッションを抱いたままの寿珠ごと抱き寄せる遼介。
同じフライトだったら、少しは何があったのかわかったかもしれないと思うと歯がゆいが、まさか…他に男ができたとかっていうんじゃないだとろうな。
「もう、飛行機には乗らないの?」
とんでもない想像とは違ってホッとしたような、しかし、既に寿珠の耳にまで入っているとは思わなかったが、彼女がここまで機嫌を損ねる理由は正直、遼介にもわからない。
「あぁ、知ってたんだ」
「知ってたんだ、じゃないでしょ?そういう話があるなら。そりゃ、私なんかに言ってもしょうがないかもしれないけど」
一瞬、顔を上げた寿珠はまたクッションに顔を埋めてしまう。
「しょうがなくなんてないさ。まだ、正式に辞令が出たわけじゃないし。言われているのは、客室乗務員を纏める統括マネージャーになって欲しいとだけだから。それも、つい数日前の話だぞ?」
遼介が上司に呼ばれてこの件のことについて話をしたのは、ほんの数日前のこと。
フライトも入っていたし、寿珠に話をするとしてももう少し先にした方がいいと思っていたのだ。
「どうするの?」
「さぁ、まだわからないさ。で、寿珠は俺が飛行機を降りるかもしれないってことに怒ってるのか?」
そうじゃなくって。
実際、彼の口から聞いてしまえば、何に腹を立てていたのか自分でもよくわからなくなってくる。
彼の言うように飛行機を降りてしまうこともそうだが、寿珠より先に知っている人がいたことで自分は遼介にとって特別な存在でなくなってしまったように感じたこと。
別れを切り出されるのではないかと。
「私より絵里子の方が先に知ってたなんて。偉くなって、ついでにもっと素直で可愛い子も上司に紹介してもらえばいいでしょ」
こんなことを言うつもりはなかったのに…口から勝手に言葉が飛び出してしまう。
あぁ、嫌な女。
「寿珠より可愛い子なんて、いないだろう?」
「いるでしょ」
「いや、いないね」
だからこそ、空港で彼女が仕事を終えるのを待っていたのだし、料理だって美味しいって言ってくれる笑顔が見たいから。
クッションを剥ぎ取ると寿珠を膝の上に抱き上げる。
「ちょっとっ、何」
こんな格好、大きな体して子供みたいで恥ずかしいじゃない。
すぐにでも離れようとしたのだが、遼介がぎゅうっと抱きしめて身動きが取れなかった。
「いい子は、じっとしてないと」
「悪い子だから、じっとしてられないの」
「はいはい」と言いながら、頭上でクスクス笑ってる遼介。
悔しいけど、好きなんだもん。
「ちょっとっ、今度は何」
いきなり、寿珠を抱かかえたまま立ち上がった遼介。
「ここはゆっくり、愛を確かめ合わないと」
「もう」なんて寿珠の溜め息が届くはずもなく。
二人はバスルームへと消えて行った。
END
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