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Chapter12-1


杏奈の心はまだ今の状況に付いていけていなかったが、身体は正直だった。
あのまま彼の家に行き、玄関に入った途端、彼の貪るようなくちづけが杏奈に降り注いだ。

「ちょ、ちょっと待って」
「いや、待たない」

すぐに剣士の手がブラウスの間から入ってきて、ブラの上から胸を揉んでくる。

「藤崎君、ここじゃ嫌っ」
「剣士って呼んで、そうしたらベットまで運んであげるから」
「うぅ…」

―――そんな急に名前でなんて呼べるはずないじゃない。
それにねぇ、ベットまで運ぶって…。

「ほら、杏奈」

―――うわぁ、こんな時に名前で呼ばないでよ。
杏奈の心臓の鼓動は、一気に跳ね上がった。
それにしても剣士は、すっごく意地悪だと思う。
なんか冷めている感じの印象だったが、大違い。

「わっ、わかったから。呼べばいいんでしょ、呼べば」

杏奈は一呼吸おくと心の中で一度練習してから、小さい声で彼の名を口にした。

「剣士」
「もう一回言って」
「言ったじゃない」
「ダメ、今のは小さくて聞こえなかった」

こうなったら、やけくそだわ。
剣士の首に腕を回して、今度はさっきより大きな声で彼の名を呼ぶと唇にチュッとくちづける。
不意打ちを食らった剣士は、一瞬放心状態だったが、すぐに喜びを露にすると杏奈を勢いよく抱き上げた。

「うわっ、ちょっと下ろしてったら」
「ダメ、杏奈が可愛いことするからいけないんだろう」

彼のハートに火を点けてしまった杏奈は、一気に奥の部屋にあるベットまで運ばれると二人でダイブするようにスプリングの中に埋まった。
すぐ目の前に剣士の顔があって、ドキドキがより一層高まり、杏奈の心臓はパンク寸前だ。

「杏奈、愛してる」

今まで聞いたことがないような優しい声だった。



剣士は思っていたのと全然違って、とても優しくて面食らってしまうくらいだった。
そして短い時を埋めるかのように毎週末、身体を合わせていた。
あと一週間で、彼はニューヨークへ旅立ってしまうのだから。

「おはよう、杏奈」

目覚めの悪い杏奈に、剣士はいつも深いくちづけで彼女を目覚めさせる。

「おはよぅ。剣士はいつも早いのね」
「杏奈が遅いだけだろう?もう11時だよ」

それは剣士が離してくれないから寝不足なのにと杏奈は思ったが、来週末はもう一緒にはいられないと思うと寂しさでいっぱいだった。

「まだ、出発の準備ができていないんでしょう?私とこうしてる場合じゃないのに」
「そんなことないさ、どうせ持っていく物なんてないし。杏奈との時間の方が大切だから」

剣士はとにかく一から始めるつもりで、ニューヨークへ行く。
だから、必要最小限の物しか持っていかない。
それよりも、今は杏奈との時間を優先したかった。
彼女は絶対待っていてくれると信じていても、やはり離れるのは辛いから。

「剣士って、そういうこと平気で言うけど恥ずかしくないの?」
「全然。だって、本当のことだし、杏奈には俺の思っていることを全部知っていて欲しいからさ」

杏奈のことをどれだけ想っているか、とにかくそれを伝えたかった。

「剣士」
「今日は、どうする?」
「ずっと、こうしていたい。剣士に包まれていると安心するから」
「いいよ、今日1日こうしていよう」


+++


「杏奈、今日食事でもどう?フレンチのいいお店を教えてもらったから」
「うん、いいわよ」
「じゃあ、後で予約入れておくわね」
「うん」

剣士がニューヨークに旅立って一週間が過ぎ、少し落ち着いた杏奈だったが、こんふうに誘ってもらえると正直嬉しかった。
なんだか心の中にぽっかり穴が開いてしまったようで、自分が自分でないような錯覚に陥ってしまう。
そんな杏奈と違い、美菜はあの合コン以来、佐々木さんとうまくいって付き合い始めていた。
今が一番いい時期なんだろうなと、自分に重ね合わせて思う。

1日何事もなく終わって、会社を出るとすっかり季節は夏に変わっていた。

「美菜と出かけるの、なんか久しぶり」
「そうね。杏奈、誘っても理由つけて付き合ってくれないし」
「それは、美菜が佐々木さんとラブラブだからでしょ?」

剣士が会社を辞める2ヶ月の間は、ほとんど毎日のように逢っていたから、会社以外で女の子と話をするのも久しぶりだったのだなと思った。
美菜が連れて行ってくれたのは、若いイケメンシェフがやっているということで噂になっていたお店。
堅苦しいコース料理ではなく、単品をいくつか頼んでみんなでワイワイやるような、そんな気軽な雰囲気も杏奈には好印象だった。
適当にお薦めを数品と赤ワインをフルボトルで頼む。
『今日は週末だし、佐々木さんとデートじゃないの?』って美菜に聞いたら、出張で今日は戻れないのだと言っていた。
お互いグラスにワインを注ぐと、カチンと合わせて口に含む。
仄かな酸味と甘さが口の中に広がって、とてもいい気分になってくる。

「美味しい」
「ほんと」

こういうのも幸せなのだなと杏奈はしみじみと感じていた。
何に対しても冷めたような感情しか見せなかった杏奈が、こんなにも変わったことに自分も驚いてはいたが、目の前にいる美菜もそれは同じだった。

「ねぇ、杏奈」
「うん?」
「すっごく、いい顔してる」
「どうしたの?急に」

いきなりの誉め言葉に、杏奈は照れを誤魔化すようにワインのグラスに手を掛けた。

「すっごく綺麗だっていうのに変わりはないんだけど、可愛くなった気がする。いい恋してるんでしょ?」
「もう、何言ってるのよ。そんなことないって」

綺麗だとか可愛いだとか面と向かって言われたことなどなかったから、どう返していいかわからない。
いい恋をしているかという質問には、そうと答えるかもしれないが…。

「藤崎君でしょ」
「え?」
「隠してもだめよ。知ってるんだからね」

「水臭いわね」と、ちょっと口を尖らせながら言う美菜。
故意に隠すつもりはなかったのだが、なんとなく言い出せなかった。
相手が剣士だったというのもあるし、どちらかと言うとそういうことに興味のないように見えた杏奈に付き合っている男性がいると話すこと自体、恥ずかしかったから。

「美菜には、敵わないわね」
「そっか、杏奈をこんなにも可愛くて魅力的な女性に変えたのは、藤崎君だったかぁ。なのにどうして、彼はニューヨークになんか行っちゃったわけ?」

剣士は部が違うから杏奈と一緒にいるところを美菜が社内で見たわけではなかったが、この前突然剣士が会社を辞めることになって送別会を開いた時に二人を見てピンときたのだ。
でも、すぐに二人が別れるような選択をどうして剣士はしたのだろうという疑問が美菜に沸き起こった。

「ずっと迷ってたみたい。だけど、私に告白した途端、似合う男になって帰って来るから待っててくれって、いきなり決めちゃった」
「そっか。彼、杏奈のこと本気なんだ。そうよね、なんたって亀井物産の社長令嬢と付き合うには並みの男じゃ無理だものね」

相手が杏奈ではとても対等には付き合えないことを剣士はわかっていたからこそ、ニューヨークに行ったのだろう。
告白してすぐにそれを決めてしまう剣士が、あまりに彼らしくて妙に納得してしまう。

「で、何年で帰って来るって?」
「わからない、2年とか3年とか言ってたけど」
「そんなに?で、連絡はよこしてるんでしょ?」
「ううん。向こうに行ってからまだ一度も連絡してこない」
「うそ…。杏奈からは?」
「連絡先、聞いてないから」

美菜は杏奈の言葉が信じられなかった。
待っててくれとだけ言い残して、剣士は行ってしまったというのか…。
そして、杏奈も何も聞かなかったなんて…。
そこまでお互い信頼していたということなのかもしれないが、美菜にはずっと連絡できないままなというのは、まず無理だろう。

「聞かなかったって、杏奈はそれでいいの?」
「剣士のことだもの、きっと聞いたって教えてくれないわよ。まぁ、向こうは私の連絡先は知ってるんだから、何かあれば来るんじゃない?」
「やっぱり、亀井 杏奈は違うわね」

単なるお嬢様ではないと思っていたが、ここまで腰が据わっているとは天晴れとしか言いようがない。
だからこそ、美菜も彼女のことを慕っていたのだから。

「でも、寂しくない?」
「寂しくないかって言われれば、それは寂しいけど、待つしかないもん。こっちからいくら言っても、聞くような人じゃないし」

確かに杏奈の言うように剣士は、自分の意志を貫くタイプのように見えるが、ニューヨーク行きを迷っていたという話を考えるとどうなんだろうか?
意外に向こうから連絡してくるようにも思えるのは、美菜だけではないだろう。
逆に杏奈の方がそういうところは、ぐっと耐えてしまうように思えてならない。

「きっと、そのうち藤崎君の方が我慢できなくて連絡してくるわよ」
「そうかなぁ」
「そうよ。だって、藤崎君の目には杏奈しか映ってないって感じだったわよ」

普段、クールな剣士が最後に出社した日に杏奈を見る目は、今まで見たことがない優しい表情だったのを今も鮮明に覚えている。
二人でいる時は相当な甘々ぶりなのではないか、と美菜は思った。
そんな剣士が何年もの間、いくら杏奈に似合う男になると誓っても無理だろう。
絶対、メールなり電話なりを掛けてくるに決まっている。
そして一度繋がってしまったら、歯止めが利かないことも。

「杏奈も素直になった方がいいわよ。でないと、彼いい男だから金髪美女に持ってかれるかもしれないし」
「それは、それよ」
「もう、どうして杏奈はそうなの?もっと貧欲にならないと幸せは逃げちゃうわよ」

相手の気持ちばかり考えて、いつも自分のことは二の次の杏奈。
せっかくお互いいいパートナーに巡り合えたのだから、なんとかうまくいってくれればと美菜は願わずにはいられなかった。

+++

それから暫くして、美菜の読みは当たり、剣士は杏奈に電話を掛けてきた。
本当はもっと早くするつもりだったが、向こうに着いて身の回りのことも落ち着かないままに仕事が忙しくなったからだと言っていた。
杏奈は剣士の声を聞いた時には思わず涙が溢れそうになったけれど、心配させてはいけないとぐっと堪えた。
剣士にはそれがわかっていたようだが、杏奈らしいと胸の詰まる思いで受け止めたのだった。
一度声を聞いてしまうと抑えがきかなくて、彼は毎日のように彼は電話を掛けてきた。
国際電話は高いからとメールに変えたけど、それでも数日に一度は我慢できないのか電話を掛けてくる。

『もしもし、杏奈?』
「剣士、もう電話はいいって言ってるのに」

本当は声が聞けてすごく嬉しいはずなのに、なぜか思いとは裏腹に言葉は別のことを言ってしまう。

『なんだよ。杏奈はもう、俺の声なんて聞きたくないのか?』
「違う。そんなことあるはずないじゃない。私は剣士のことを考えて…」
『杏奈は、どうなんだよ』
「どうって?」
『俺の声が聞きたい、逢いたいって思わないのか?』
「それは…」

―――思うわよ?思うけど…。
しょうがないでしょ、性格なんだから。

『杏奈のそういうとこ、すごく好きだけど。俺の前では弱いところ、見せてくれよ』
「剣士…わかったわ。じゃあ、明日は私が掛けるから。それならいいでしょ?」
『あぁ、いいよ』

明日はないな…と思いながら、剣士は答える。

「ねぇ、明日は何の日か覚えてる?」
『明日?何の日だっけ』

わざと、とぼけた返事をする剣士。

「もうっ、忘れちゃったの?剣士がニューヨークに行って、ちょうど1年でしょ?」
『そうか。もう1年か』

時が経つのは早い。
毎日自分を磨くために仕事に明け暮れていた剣士にはあっという間に過ぎてしまったこの1年だったが、それは杏奈の隣にいて恥ずかしくない自分になりたい、その思いだけだった。
しかし、それももうすぐ終わりを告げる。

「あと、どれくらい掛かりそうなの?」
『そうだな。どれくらいだろうな』
「早く…帰って来てね」

杏奈の言葉に胸が痛む剣士だったが、それを堪えて電話を切った。


…◇…



いつものように仕事を終えて自宅近くの最寄駅に杏奈が降り立つと、ずっと逢いたくて逢いたくてたまらなかった人物が杏奈を見つけて歩み寄って来た。

「ただいま」

あまりの驚きに、まるでその場に瞬間接着剤でくっ付いてしまったかのように動かない杏奈に剣士は軽く声を掛ける。
それは、どこかその辺にでも行って帰って来た時のようだ。

「剣士…どうしたの?」

剣士が旅立ってから今日でちょうど1年、彼は2〜3年は戻らないと言っていたのにどうして今ここにいるのだろうか?
もしかして、仕事か何かで日本に戻って来ただけだとか。
でも、昨日だって電話で話したばかり…帰るなんて、ひと言も言ってなかったのに。

「お帰りって、言ってくれないのか?」
「だって…」
「もう向こうでやることは、全てやり尽くして来たから」
「え?それって」
「帰って来たんだよ」

『早く…帰って来てね』
昨日の電話で杏奈から最後に言われ、思わず『明日帰るよ』と言いそうになった。
それを寸でのところで抑えたのは、どうしても彼女を驚かせたかったから。

「剣士」

杏奈は剣士の腕の中にすっぽりと包まれていた。
懐かしい彼の匂い。
少し痩せたのか、前に比べれば体が細くなったような気はするが、それでもがっしりとした身体つきは変わらない。

「お帰りなさい」
「ただいま」

あまりに急な帰国に杏奈もどう対応していいかわからなかったが、強く抱きしめられている腕に段々と嬉しさが込み上げてくる。

「どうして、言ってくれなかったの?」
「杏奈を驚かせたかったんだ」
「もうっ、心臓が止まるかと思ったわ」

怒った顔もまた綺麗だな、なんて思うのは剣士も相当彼女に惚れている証拠。
いや、溺れてる…だな。
1年逢わないうちに一段と美しくになった彼女。
こんな俺を待っていてくれたなんて…。

「待たせて、ごめん」
「もう、どこにも行かないで」
「あぁ、どこにも行かない。そういうことがあったとしても、今度は杏奈も一緒だから」

剣士は杏奈の左手を取ると薬指の根本にそっとくちづけた。
それは1年前、剣士が彼女に自分の気持ちを伝えた時にしたことと同じ、唯一違うのはそこに本物のダイヤのリングがあること。

「絶対離さない。覚悟しろよ」

もう一度剣士が薬指にくちづけると、杏奈の頬を光るものが伝っていた。


To be continued...


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