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Chapter7


「可奈子、おめでとう。幸せになってね」
「うん。ありがとう」

6月のある日、中谷 円(なかたに まどか)は中学時代からの親友である池上 可奈子(いけがみ かなこ)の結婚式に出席するために海の見える丘に立つ小さな教会に来ていた。
既に梅雨入りしていて昨日までずっと雨だったが、今日は嘘のように晴れ渡る青空だった。

「それにしても、あの可奈子がママなんてね」

少々複雑な表情を浮かべながらポツリと口にしたのは、同じく中学時代からの親友である佐伯 和音(さえき かずね)だ。
和音が、こんなふうに言うのには訳があった。
3人は中学から同じ女子校に通っていて、大学までの10年間を共に過ごした親友だった。
和音はとびっきりの美人だが、男勝りでしっかりしたお姉さんタイプ。
そして可奈子はと言うととても可憐で大人しくて、男の人の前に出るだけで顔が赤くなってしまうような初心な女の子だったのだ。
それがどうだろう?できちゃった結婚だと言うのだから、それを聞いた時の和音と円の驚きはすごかった。
何でも会社の同僚に無理矢理に連れて行かれた合コンで相手に気に入られてしまったらしいのだが、どうにも男経験の少ない可奈子である、初めは清い交際を彼は我慢していたようだけど、最後には痺れを切らし行動に出てしまったと言うのだ。
まぁ、彼の方も本気だったから、既成事実を作ることで先に進もうとしたようだけれど…。

「でもいいじゃない。可奈子、幸せそうだもの」

可奈子も円も、一番先に結婚するのは和音だと思っていた。
和音は一見遊んでいるように見えるのだが、実は高校時代からずっと付き合っている彼氏がいる。
同い年で、去年司法試験に合格して今は司法修習生として勉強中とのこと。
彼が一人前の弁護士になったら結婚する予定らしいが、もう少し先になるようだ。

「円は、そういう人いないの?」
「えっ、私?言わなくてもわかってるでしょう?」

そんな円の返事は大方わかっていたが、敢えて和音はこの質問をしたのだった。
円が、ずっと入りたかった商社をたった1年で辞めた理由を和音は知らない。
聞いても自分からは、絶対教えてくれないだろう。
でも、あんなに頑張って入社試験をパスしたというのになぜ簡単に辞めてしまったのか…。
円は絶対に途中で投げ出したりしないことを和音は知っていたし、会社に入って半年を過ぎた頃だろうか?いつもの元気がないことも気付いていた。
心配になってそれとなく聞いてみたりもしたのだが、円が相手に気を使ってあまり自分のことを話したがらない性格だということをわかっていただけにどうすることもできないままただ見守るしかなかったのだ。
商社を辞めて出版社に入ってからも元気のない状態は続いていたが、ようやく最近になって今までの円らしい笑顔が戻ってきたように思う。
本人は否定してるが、本当に可愛いし明るくて元気で、自分のことをそっちのけで相手のことばかり心配して、こんないい子はいないと可奈子も和音も口にこそ出さないけれど心の中ではいつもそう思っていた。
その可愛さゆえに外見だけで近寄ってくる男に性格とのギャップからか随分酷いことを言われたりもしたようだが、常に明るく振舞う円に可奈子も和音も気付いてあげることができなかった。
自分は深く傷ついているはずなのに…それを隠してまで、どうして他人にあんなに一生懸命になれるのか?
和音は、頭が下がる思いでいっぱいだった。
だからこそ幸せになって欲しいと願わずにいられない。
円のことを心から想って、大切にしてくれる相手が現れることを。

式が一通り終わって、少し離れた所にあるホテル、と言ってもオーベルジュという感じだろうか?あまり大きくないそれでいて料理にも定評があるというパーティー会場へと場を移した。
最近の傾向である仲人を立てない形式で、会社の上司の挨拶であるとかそういうものが滞りなく行われていたその時。

「それでは、新郎の高校時代の友人である副島 悠里(そえじま ゆうり)様のお言葉を頂戴したいと思います」

司会者の言った名前に円は、ハっとした。
―――まさか…聞き間違いだろうか?

副島 悠里―――。

いや、聞き間違えるはずがない。
だったら、同姓同名?
円は会場の中を見回したが、それらしき人物は見当たらない。

「副島様、いらっしゃいませんか?」

会場の中が、ザワザワとし始めた。
どうやら副島 悠里は、会場には来ていないようだった。
司会者が、誰かに耳打ちされるとマイクを持った。

「副島様は都合により、まだ会場には来ていらっしゃらないようですので、先に進めたいと―――」

バタンッ―――。

司会者が先に進めようとした矢先に会場の扉が勢いよく開いた。
会場内にいた全員の視線がその一点に注がれたが、その先にいたのは間違いなく円の知っている副島 悠里だった。
走って来たのか少し前髪が乱れてはいたが、優しい眼差しはあの時と変わらない。

「すみませんっ、遅くなりました」

副島さん―――。

まさか、こんな所で再会するとは思ってもみなかった。


円には、ずっと入りたいと思っていた憧れの会社があった。
それは、名前を聞けば誰もが知っているであろう有名商社。
大学に入るとすぐに会社にアプローチをして資料を集め、この就職難の中、何のコネもなく努力で内定を勝ち取ったのだ。
貿易関係の仕事をしたかったこともあって、学部もそういうところを選び高校時代に短期留学をして英語も会話程度であったがマスターしていた。
希望を胸に膨らませ、1ヵ月ほどの研修を経て配属された部署で一緒に仕事をすることになったのが3年先輩の副島 悠里だった。
悠里は円に対してというよりは誰に対してもとても優しくて、わからないことを細かく丁寧に教えてくれる頼りになる存在だった。
ずっと憧れていた仕事に就けたことと悠里のような先輩と仕事ができることが、円にとっては何よりも楽しくて充実した日々を送っていたのだが…。
段々と歯車が狂い始めたのは、そんな頃からだった―――。
ある朝、円が出社すると部内は騒然とした雰囲気に包まれていた。
何かあったのかと近くの人に尋ねると、どうも大事な輸出関連のデータが消えているという話だった。
そのデータは前日の円が帰るまで更新していたものだったから、当事者として真っ先に円が疑われたのは言うまでもない。
円にはまったくもって身に覚えのない話ではあったが、他に思い当たる節がないことと円が新人で不慣れだったということで片付けられてしまったのだ。
最後まで悠里は円を弁解してくれたが、証拠がないためにどうにもならなかった。
データ自体はその少し前までのバックアップが保存されていたため、追加分のデータを補足することで大事には至らなかったが、どうにも理不尽な結果に円の心は深く傷ついた。
そして、事はそれだけでは治まらなかった。
次から次から出てくる事実無根の出来事にさすがの円も耐えられなくなってきていたが、それでも悠里は円のことを信じて庇い決して疑うことはしなかった。
円の方もこれだけ自分に対して不可解な事が起こるのはおかしいとは思っていたが、決定的な証拠が何一つ見つからない。
何の恨みがあるのかは知らないが、このままでは自分は耐えられても会社に迷惑がかかることと何より悠里に対して申し訳ない気持ちの方が強かった。
それが、悠里絡みの嫌がらせであるとわかったのは暫くして後のことだった。
帰ろうと女子更衣室のドアを開けようとした時に中から聞こえてきた会話に耳を疑った。

『しかし、米田さんも少しやりすぎじゃない?いくら何でもあそこまで中谷さんをイジメなくても』
『副島さんとあそこまで仲良くされたら、米田さんも我慢できなかったんじゃないの?』
『そうだけど、でも中谷さんも案外しぶといのね。てっきり音を上げて辞めると思ったのに』
『あら、あなたも言うわね』

二人の笑い声が、聞こえてくる。
円は怒りを通り越して呆れるしかなかったが、ぶつけようのない憤りを堪えて拳を強く握り締めた。
米田と言うのは、同じ部に所属する悠里と同期だという女性のことだ。
スレンダーな美人で頭も切れる、かなり有能な人材だとは聞いている。
はっきりしたことはわからないが、同期で仲のいい子の話によるとどうやら米田は悠里のことが好きでアプローチしていたようだけれど、まったく相手にされなかったらしい。
新人の円を悠里が指導するのは当たり前だと思うのだが、どこでどう間違ったか悠里が円に対して特別な感情を抱いていると思ったようなのだ。
実際その時はそういうことはなかったし、そんなふうに誤解される方が迷惑な話である。
しかし、どれも想像の域を越えていない話であって真相は闇の中だった。
円もやられるばかりでは黙っていられないと色々手を尽くしてはみたが、相手は頭もいい、2枚も3枚も上手なのである。
結局不本意ではあったが、これ以上会社にも悠里にも迷惑をかけられないと思った円は会社を去る決意をしたのだった。
今になってみれば、そんな理由は口実であって自分自身が楽になりたいという気持ちの方が強かったのかもしれない。
課長には迷惑をかけた旨、誰にも言わないで辞めたいと告げると最後の最後まで引き止めてくれたけれど、円の意思の固さを知って了承した形になった。
何も言わずに悠里の前を去るのは本当に辛かったが、言えば絶対に引き止められるのことがわかっていた。
離れることになって、初めて円の中で悠里の存在がとても大きくなっていたことに気付かされた。
普段からあまり自分のことを表に出さないタイプだった円には隠すことは容易なことで、最後まで誰にも悟られることなくあっけなく去ることができた。
両親も和音や可奈子にも再就職先が決まるまで辞めたことを言わなかったけれど、皆それを聞いても特に何も言うことはなかった。
円が安易に投げ出したりしないことを知っているからか、そんな配慮がすごく嬉しかった。
再就職した先は小さな出版社だったけれど、洋書を扱っている会社だったので少なからず円の英語も役に立ったようだった。
あれから半年以上経つが、未だに悠里のことが頭から離れないでいる。
もう少し頑張れなかったのかと後悔したことも度々だったけれど、あの時はああするしかないと思ったのだ。
それなのに―――。
どうして、こんなふうにまた会ってしまったのだろうか?


悠里は、荒い息を押えて髪を手グシで整えるとマイクの前に立った。
新郎とは高校時代からの付き合いだということで、本当は式にも参列する予定だったが、昨日から徹夜で気が付けばこんな時間になってしまったらしい。
可奈子が彼と付き合い始めたのはつい半年ほど前の話なので、その彼と悠里が親友だったとは知らなかった。
円はただ悠里のことを見つめていたが、ふと目が合ったような気がして急いで視線を別なところへ移動した。

―――まずい、目が合っちゃったかな。

席は離れていたのと円は背を向けて座っている形だったので、今気が付かれなければ恐らく最後まで知られることもないだろう。
あの時黙って去ってしまったことを謝りたい気持ちはあるが、まだ顔を合わせて普通に話すことななどできそうにない。

その後も友人などの挨拶やパフォーマンスで宴は進んでいき、最後の両親への花束贈呈の時には予想通り加奈子は大泣きしていたが、それよりも新郎の方が大泣きしていたのが印象的だった。

「ごめん、私ちょっと用事を思い出して二次会はパスするね」

和音も円も二次会には参加予定だったが、そこへは悠里も来るだろうことを思って円は二次会への参加をやめることにした。

「何?そんな急用なの?」
「うん、ほんとごめんね」

和音は急に二次会をキャンセルした円を怪訝そうに見つめていたが、そんな和音を置いて円は足早にホテルの正面玄関へと向かったその時。

「円ちゃんっ!」

―――この声は…。
反射的に円は、足を早めていた。
今、会うわけにはいかない。

「円ちゃん、待ってっ!お願いだから、逃げないで!」

逃げないで…。
―――そうだ、私はいつだってこうやって逃げてきたのかもしれない。

悠里の呼びかけに自然に足が止まっていた。
それがなぜなのかは、円にもわからなかった。

悠里は、円の前に回り込んで肩に手を掛けると自分の胸に抱き寄せた。
予期せぬ行動に円自身の思考回路もついていけない。

「やっと、見つけた」

悠里の声が、円の耳元で囁くように聞こえてくる。
―――どうして…副島さんは、そんなことを言うのだろうか?

「あの日、突然俺の前からいなくなって…」

探したんだ…ずっと。

円がひとり会社を去った次の日、悠里が会社に出社すると隣の席だった円の机は綺麗に整理されて何もなくなっていた。
不信に思っていると課長から急な理由で突然会社を辞めたことを知らされた。
思わず悠里は課長に向かって「どうして、言ってくれなかったのか!」と詰め寄ってしまったが、誰にも言わないで欲しいという円の希望だったことを聞いてそれをぐっと押えた。
課長もせめて悠里にだけは言った方がいいのではないかと一言告げたそうだが、円は終始首を横に振るだけだったと言う。
理由は、わかっていた。
円のことだから、会社や悠里にこれ以上迷惑を掛けられないと思ったのだろう。
どうして、円の気持ちをわかってやることができなかったのか…助けてあげることができなかったのか…。
少しの間だったが、円がどんなにこの会社に入りたかったのかということと絶対に最後まで投げ出さないということはわかっていた。
だからこそ、絶対に辞めたりしないとも…。
誤算だった。
あんなふうに突然自分の前から消えるとは、正直思ってもみなかった。
その後、悠里は八方手を尽くして円を探したのだが、どうしても見つけられなかった。
唯一、聞いていた携帯の番号もすぐに変えられた後だった。
悠里自身もどうしてここまでして円のことを探しているのかわからなかったのだが、目の前からいなくなって初めて大切な存在だったことに気付かされた。
知らぬ間に引き込まれていた、好きになっていたのだ。
とても可愛らしい顔をしているのだが、元気で明るくてそれでいて絶対に弱音は吐かない。
相手のことばかり考えて自分を押えてしまう、そんなところが円の良さだった。
会社に行くといつも先に来ていて、笑顔で挨拶をしてくれる。
それが、どんなに疲れていても悠里の心を癒してくれた。
その笑顔がなくなった時、初めて失ったものの大きさを思い知った気がした。
それから程なくして円が起こしたとされる一連の問題は、米田が仕組んだことだということも円の同期の証言によって知った。
円が輸出関連のデータを消したと騒いだ時はあの注意深くてしっかりしている彼女がまさかと思ったのだが、本人が申し出たので何も言わなかったのを信じてしまったことを深く反省した。
後になってみれば、あれは事を荒立てずに対処しようとした円の配慮だったのに…。
まったく、円にしてみれば不本意なことだったに違いない。
悠里は、自分の不甲斐なさに甚だ呆れ果てるしかなかった。
人を疑ったり責めたりすることを嫌う人間であったがためにそこまで考えつかなかったのだ。
暫くの間、悠里は自分自身を責め続ける日々が続き、ただひたすら何も考えずに仕事に没頭した。
そんなある日のことだった。
高校時代からの親友である塚本 一樹(つかもと かずき)が、合コンで知り合った彼女を何とかモノにできないかと悠里に相談してきたのは。
一樹は悠里が言うのもなんだが、相当女癖の悪いやつだった。
仕事もできるし性格もいいけれど、いかんせん女にだけはどうもルーズなところがあって…。
それがどうしたことか、女性のことで悠里に相談してくるとは…。
聞くと相手の彼女は、今時珍しいくらい純な子らしい。
だから、今までの経験が通用しないと言う。
本気なのだろう…一樹の目を見て思った。
悠里が一樹に言ったことは、関係のある全ての女性とは手を切ることと、そしてすぐに手を出さないこと。
どうも軽い印象の一樹をどうにか信用させるために悠里は、その彼女に会ってみることにした。
実際は、一樹を本気にさせた子というのを見てみたかっただけなのだが…。
彼女の名は池上 可奈子と言って見るからに大人しく清純さが漂う子で、一樹が惚れるのもわかるような気がした。
守ってあげたい、そんな感じの子だった。
誰が見ても誠実で真面目に見える悠里が一樹の親友とわかった可奈子は、終始和やかな表情で会話をしていたのだが、そんな時に彼女の携帯が鳴った。
気にせず出るように促すと申し訳なさそうに電話に出たのだが、その時に可奈子の口から飛び出した言葉に耳を疑った。
電話の相手のことを確かに円と呼んだのだ。
まさかと思った。
偶然ではないかと。
電話が終わると大切な親友からだったと可奈子は言った。
その子を呼ぶ時のように円と言いかけた後、知らない悠里達のことを思ったのか、中谷さんと言い直したのだ。

中谷 円―――。

間違いない。
やっと見つけた。

それとなく彼女の情報を可奈子から聞き出して、逢う機会を待った。
それが今日だった。


「副島さん…」
「もう、絶対に離さない。好きなんだ。だから…だから、円ちゃんも約束して、俺の前から二度と消えたりしないって」

―――私も副島さんが、好き。
もう逃げたりしない。

「私も副島さんが、好きです。もう逃げません」

たった今、可奈子と一樹が神の前で誓ったように円と悠里は、お互い絶対離れないと心の中で誓いながら、くちづけを交わした。


To be continued...


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