「若菜、ちょっといいか?」
いつものように夕食を済ませて若菜が洗い物をしていると、ソファーでお茶を飲んでいた祐樹に呼ばれた。
彼は最近、”若菜ちゃん”ではなく、”若菜”と呼ぶようになった。
少し恥ずかしいが、なんとなく特別な気がして嬉しかったりもする。
でも、若菜の方は、まだ彼のことを”祐樹”とは呼び捨てにできなかったけれど…。
「はい、祐樹さん」
「あのね。来週の月曜日から金曜日までの5日間、山形に出張になったんだ。細かく言うと日曜日の夜から移動なんだけどね」
「山形?」
「うん。セミナーに出ることになって、今年は開催場所が山形なんだよ」
毎年開催されるセミナーに部内の人間が順番に参加することになっていたのだが、今年は入社2年目の祐樹と貴史が選ばれた。
場所は毎年違うのだが、今年は山形になった。
祐樹の実家のある宮城県とはお隣でも、実はまだ行ったことがない。
「そうですか。出張、初めてですね」
「あまり出張とか、そういうのはない部署なんでね。でも、大丈夫かな」
「何か心配事でも?」
祐樹の部署ではほとんど出張というものがなく今回初めてになるのだが、それが5日間となると心配事が…。
「若菜を一人にすることがね」
「え?」
夏休みに祐樹が実家に帰ったりと若菜が一人家で過ごすのは初めてではないけれど、あってもせいぜい1〜2日ほど。
それが、5日間となると祐樹も心配でならなかったのだ。
「大丈夫ですよ、心配しなくても」
「若菜が大丈夫でも、俺が大丈夫じゃないんだよ」
若菜は隣に抱き寄せられて、その存在を確かめるように祐樹の大きな手が頬を行き来する。
それがとても心地よくて、そっと目を瞑ると柔らかいものが唇に触れた。
「祐樹さんは、心配性ですね。私はもう、子供じゃないんですから」
「そうだけど、もしものこともあるし」
今もほんの少しだけど離れて暮らしているわけだし、若菜はもう大学生。
大学生ともなれば地方から出てきてひとり暮らししている者もたくさんいる、それほど心配することでもないとわかっていても、やっぱり祐樹には心配でならなかったのだ。
「毎日、電話しますから」
「俺からもするよ。1日若菜の声を聞かないなんて、無理だし」
一緒にいるのが当たり前になっているだけに少しでも離れるということが、祐樹には考えられなかった。
それくらい、祐樹の中で彼女の存在は大きくなっていたということなのかもしれない。
+++
セミナーは月曜日の朝からということで日曜日の夕方、後ろ髪を引かれる思いで祐樹は移動のために山形へと出発して行った。
大丈夫だとは言ったものの、若菜だって5日間離れるとなると寂しいという気持ちは拭えない。
―――祐樹さん、今頃新幹線に乗ったかな?
時計を見ながら、そんなことばかり考えてしまう。
少し早い夕食を取っていたので、お風呂に入ってしまったらすることもない。
明日からは、食事も自分の分だけになる。
世の奥様方は旦那様が出張だと楽できるなどと言ったりするが、若菜には到底当てはまらないことだった。
起きていても祐樹のことばかり考えてしまうから、いつもよりだいぶ早いがベットに入ることにして、若菜は自分の部屋のある2階に上がって行った。
暫くしてウトウトし掛けた時、携帯が鳴っているのに気付いて慌てて出ると、さっきまでずっと考えていた愛しい人の声。
『若菜。ごめん、寝てた?』
―――祐樹さん…。
祐樹の声を聞いて、思わず涙が出そうになった。
でも、『子供じゃないんですから』と言った手前、それを悟られないように元気に返事を返す。
「いえ、ちょっとウトウトしてしまって」
『ごめんな。あのさ、言うのを忘れたんだけど』
―――言い忘れたこと?
一瞬なんだろうと若菜は思ったが、すぐにそれがわかってしまう。
「朝、起こして欲しいってことですか?」
『えっ、どうしてわかったんだ?』
「わかりますよ。祐樹さんのことだったら、なんでも」
そのひと言で、祐樹の顔は一気に緩んでしまう。
『じゃあ。俺が今何を考えているか、わかる?』
「え?」
少し意地悪な質問だったか―――。
祐樹は思ったが、彼女はなんと答えるだろうか?
「ごめんなさい。わからないです」
『ほんとに?』
「はい」
―――本当は、多分…。
わかっていても、自分から言うのは恥ずかしい…。
『だったら、先に若菜が今何を考えているか、当ててもいい?』
「えっ、はい」
『俺の声が聞きたかった。違う?』
「…違わないです」
また、涙が出そうになってしまう。
声はすぐ近くから聞こえてくるのに、彼は側にいなくて…。
『俺も若菜の声が聞きたかった。ずっと、若菜のことばかり考えていたよ。1人で何してるのかな?って』
「私も、祐樹さんのことを考えてました」
『ついさっきまで、一緒にいたのにな』
「そうですね。まだ、祐樹さんが帰って来るまで、あと5日もあるのに」
『俺の方が、もたないかも』
5歳も年上なのに…そう思っても、これは本当のことだから。
たった数時間しか経っていないのに、こんなにも寂しいと思ってしまう。
「私の方こそ」
『え?』
「私の方こそ、さっきは大丈夫なんて言っておきながら、祐樹さんのことばかり考えていて…。声を聞いた時、涙が出そうになったんです」
『若菜―――』
「ごめんなさい。祐樹さんのこと、困らせてますね」
『そんなことないよ。逆に嬉しい』
両親がシンガポールに赴任している時も寂しいなんて素振りを少しも見せなかったのに、夏休みに会いに行った時、空港で母親の顔を見て思わず泣いてしまった。
我慢することなんて、ないのに―――。
『若菜は、我慢し過ぎ。っていうか、俺がもっと大人にならないといけないんだけど。でも、寂しいなら寂しい。会いたいって、言って欲しいんだ。お願いだから、1人で泣かないで』
「祐樹…さん…」
張り詰めていたものが一気に切れて、若菜はとうとう泣き出してしまった。
その場で抱きしめてあげられないもどかしさ、祐樹は電話機を強く握り締め彼女が泣き止むまでずっとそのまま名前を呼び続けていた。
+++
気持ちを吐き出してしまったからか、若菜は祐樹の声が聞きたくなると躊躇わずに電話を掛けた。
それはお昼休みの時間だったり、夜遅くだったり。
唯一同じ大学に通っている美咲は、そんな若菜を見て微笑ましく思っていた。
「若菜、祐樹さん明日帰ってくるんだっけ?」
「そうなの、やっと。長かったなぁ」
長かった出張も、明日になれば祐樹は帰って来る。
若菜はそれが、待ち遠しくて仕方がなかった。
「祐樹さんの出張って、貴史さんも一緒なんでしょ?ってことは、幸も寂しがってるのかな?」
別の大学に通っている幸とはメールでのやり取りしかしていなかったけれど、彼女はそういうことを決して口には出さないタイプ。
思っているのは、美咲と若菜だけかもしれないが…。
「きっと、寂しいと思う」
「あの、幸がねぇ。だったら、今夜、聞いてみようか」
美咲の提案で、幸はどうなのか?聞いてみようということになった。
◇
弁護士を目指している幸は勉強が忙しいというのもあって、3人で会うのもかなり久し振りのことだった。
「幸、元気だった?」
「美咲。うん、元気だったよ。あれ、若菜は?」
「祐樹さんに電話中」
美咲が指差す方を見ると、嬉しそうな顔で若菜が電話しているのが見えた。
待ち合わせた店で、先に来ていた幸のところにやって来たのは美咲だけだったからおかしいと思ったが、そういうことだったとは…。
しかし、あんな若菜の表情は幸も見たことがない。
「若菜のあんな顔、見るの初めて」
「祐樹さんが出張に行っている間、ずっとああなんだから」
「へぇ、あの若菜がね」
もう一度、幸は若菜の方へ視線を向けるとさっきよりも顔が緩んでいるように思えた。
「ねぇ。で、どうなの?」
「どうって?」
「決まってるじゃない、幸の方よ。貴史さんも、祐樹さんと一緒に出張なんでしょう?幸だって、寂しいんじゃないかって」
「何よ、それを聞くために呼び出したわけ?」
ご飯を食べようという誘いを受けたので、久し振りだったからと何を差し置いても来たというのに、こういうことを聞きだすためだったとは…。
「若菜ね。寂しいのにそう言えなくて、祐樹さんに電話をもらって泣いちゃったんだって」
「えっ、若菜が?」
若菜は変に意地を張ってしまうところがあって、我慢してしまう時があるのを幸も知っていた。
そんな若菜が電話で、泣いてしまうとは…。
「幸は、どうなの?」
「私は…若菜みたいに一緒に住んでいたわけじゃないから、お互い忙しいし、週に1回会えればいい方だもん」
幸は若菜と違って家族と一緒に住んでいるし、貴史と付き合い始めた頃から会うのはだいたい週末と決まっていた。
電話やメールはするが、それが普通だと思っていたし、出張に出ていたとしても寂しいとは思わなかった。
「そっかぁ、そうよね。若菜とは、違うもんね」
「一人ぼっちなんだもん、祐樹さんがいないと若菜は」
1年一緒に住んでいて、今も頼れるのは彼だけなのだ。
「ごめんね、話が長くなっちゃって」
若菜が電話を終えて戻って来た頃には、すっかり注文した品がテーブルの上に並んでいた。
「祐樹さん、どうだった?」
聞かなくてもわかるが、つい美咲は聞いてしまう。
「うん、貴史さんと最後に飲んでるって言ってた。後ろで、幸の声が聞きたいって言ってたわよ」
「え…」
「幸、電話してあげなさいよ。貴史さん、待ってるわよ」
『声が聞きたいなら、自分から電話してきなさいよ』と幸は思ったが、驚かせるのも悪くないかなとトイレに行くと言って席を立った。
その後姿をニッコリ笑いながら、美咲と若菜は見送ったのだった。
+++
金曜日の夜、若菜は家の近くの駅で祐樹が帰って来るのを今か今かと待ちわびていた。
もちろん、彼には内緒。
びっくりさせたいからというのもあるが、一刻も早く会いたかったから。
「ねぇ。彼女、可愛いね」
いきなり目の前に男の人が現れて、若菜は一歩後ずさる。
薄いブラウンのサングラスを掛けた、ツンツン頭の少し軽そうなお兄さん。
「彼氏、待ってるの?」
「えっ…あっ、はい」
「そっか。じゃあ、これ」
「はい」と手の上に載せられたのは、ポケットティッシュだった。
「これは?」
「すぐそこに新しく出来た美容室の宣伝。俺、これでも美容師なんだ」
なるほど、彼が指差す先には花輪がたくさん飾られた開店したばかりのお店が見える。
有名美容室の支店ができるという噂を耳にしていたが、あそこにできたのを若菜は知らなかった。
「そうなんですか」
「良かったら、来て。彼氏のために、うんと可愛くしてあげるから」
「はい。是非」
「あのさ。あれって、もしかして彼氏」
「え?」
美容師の彼がちらっと目を向けた先には、すっとずっと会いたかった愛しい人が。
「すっげぇ、怖い顔してるから俺、行くね。でも、店には来てよ。君の顔、ちゃんと覚えたからね」
手を振って、彼は近くを通りかかった女性にティッシュを配る。
「祐樹さっ―――」
いつの間にか、すぐ近くにいた祐樹に若菜は強く抱きしめられる。
そこが、家に帰る人達でいっぱいなんてことは、もう目に入らないよう。
「若菜、誰?あいつ」
「えっと、これ」
「ん?!」
若菜は、さっきもらったポケットティッシュを祐樹に見せる。
「ティッシュ?」
「そこにできた美容室の人からもらったんです。宣伝ですって」
「そっか」
安心した祐樹は、いつもの優しい表情に変わる。
「お帰りなさい。祐樹さん」
「あっ、ただいま。でも若菜、こんなところでどうしたんだ?」
「祐樹さんが、帰って来るのを待ってたんです」
「俺が?」
「はい。早く、会いたかったから」
帰る時間は言ってあったけど、駅まで迎えに来てくれるとは思わなかった。
それに『早く、会いたかったから』なんて―――。
家まではたった5分の道のり、それなのに迎えに来てくれたことが嬉しくて。
「俺も会いたかった」
祐樹は若菜の手をしっかり握って、ゆっくりと家に向かって歩き出した。
To be continued...
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