ブルブルブルっ―――
デスクの上に置いてあった携帯がブルブルと震え出すとすぐに静かになった。
どうやら、メールのようだが…。
―――えっと、どこにいっちゃったのかしら?
携帯、携帯…。
エリの机の上は分厚いファイルと資料の山で、埋もれた携帯がどこにあるのかわからないくらい。
あっちこっち引っ掻き回してようやく探し物を見つけると、メールを開く。
ん、一士?
送信者は愛する旦那様である一士からのもので、こんなふうに仕事中に送ってくることは珍しいかもしれない。
『今夜は磯崎君と飲みに行く約束をしたから、先に寝てていいよ』
―――何よ、これ。
そのまま視線を隣の席に向けるとずっと磯崎さんはいなくって、そう言えば3時頃に東郷課長のところへ行って来るとかなんとか言ってたわね。
あの二人、いつの間に仲良くなっちゃったんだか。
パソコンの時計を見れば時刻はそろそろ定時を迎える頃だったが、エリのところは最近仕事も落ち着いていたし、何より今日は定時退勤日。
エリもとっとと帰ろうと思っていたところだったけれど、この頃忙しい一士だって今夜くらいは早く帰って来てゆっくり食事ができると思っていたのに…。
―――はぁ…何で、私より磯崎さんなのよぉ。
男の人に嫉妬しても仕方がないが、そうも言いたくなってくる。
週末婚にも終止符を打ち、やっと二人で暮らせるようになったばかりだが、今は取り敢えず社宅に入れてもらい、後回しになっていた結婚式の日取りを決めているところ。
それでも忙しい一士は休日出勤も多く、ただでさえ二人の時間が削られてしまう。
なのにぃ。
まぁ、こっちには知り合いのほとんどいない一士にとって、年齢も近い磯崎さんとは意気投合したのかもしれないが…。
男の人同士で語り合いたいこともあるんでしょうということにして、一人で夕食もつまらないなとエリは席を立つと麻菜美を誘いに彼女の席へ向かった。
◇
「いいんですか?俺と飲んでて」
「大丈夫…じゃないかな。あんまり飲み過ぎないようにとは、メールの返事に書いてあったけど」
一士と磯崎は会社近くの小料理屋に来ていたが、二人は定時過ぎまで打ち合わせをしていたから、磯崎が自分の席に戻った時には既にエリの姿はなく、顔を合わせてはいない。
“飲み過ぎないように”とは、微妙に早く帰って来るようにと言っているように聞こえるのは磯崎の気のせいか…。
「なら、早めに帰った方がいいですね」
「何、言ってんだよ。せっかく来たんだから、今夜は思いっきり飲まないと」
「え…」
「ほら」とビ−ルのジョッキを持ち上げて、磯崎の前に置かれたままのジョッキに近付ける。
…でも、明日が怖いんですけど。
エリと隣同士で仕事をしている磯崎にしてみれば、夫婦仲が悪くなっては困るのだ。
新婚の身で彼女が単身赴任して来て、週末だけを夫婦で過ごす寂しさを磯崎も感じていただけに帰ってあげたらいいのにと思うのは、この期に及んでまだ未練があるからだろうか…。
「まず、乾杯といこうか」
お互いのジョッキをカチンと合わせて、喉に流し込む。
久し振りに味わうピリピリ感に思わず、「カァーっ」と声が出てしまう。
「磯崎君、結婚はしないのか?」
「は?―-―ゲホッゲホッ」
「おいおい、大丈夫かよ」と一士に背中を摩ってもらう磯崎だったが、ちっとも大丈夫じゃない。
というか、いきなりこういう質問をするのは止めて欲しい。
体に悪いから。
「いきなり過ぎですよ」
「ごめんごめん。でもさぁ、君もいい年齢なんだ。そういう相手もいるだろう?」
「生憎ですが、いないですよ」
…いたら、あなたの奥さんを好きになったりしませんって。
思っても絶対に言えないこの言葉を、磯崎はグィッと胸の奥にしまい込んだ。
「そうなのか?もったいないな。君ほどの人が」
「ちっとも、もったいなくないですよ」
「おばちゃん、もつ煮込みとマグロのとろろ和え、2つずつね」と磯崎がカウンターの向こうで忙しく動いている60代と思われる女性に大きな声で言うと「はいよ。もつと、とろろ和え2つね」とおばちゃんが反復する。
一士から見えれば、磯崎はかなりのいい男だと思うし、エリが言っていたように仕事もデキル。
この事業所への異動は、もちろんエリがいるということが前提だったが、彼の存在も少なからず決定事項にあったから。
なのに結婚を考えるような相手がいないとは、この時代結婚だけが幸せとも言えないし、経済的な理由や自由を求めて孤独を選択する者も多い。
彼はそうとも違うように感じるし、それともまだ…。
「俺のことなんかどうでもよくて、どうなんですか?新婚生活は」
「あ?どうって。まぁ、ボチボチと」
「何ですか、ボチボチって」
磯崎としてはここで面と向かってノロケられても困るが、これではあまりに素っ気なさ過ぎる。
だから、今夜のように早く帰れる日は、家でいい旦那さんをしてあげればいいのにと。
「俺は、いいんだよ。今夜は磯崎君と話がしたくて、飲みに誘ったんだから。もちろん、仕事の話は一切抜きで」
『何で俺と…』と磯崎は思ったが、一士のことは仕事をする上でも男としても尊敬していたし、たまにはこんなふうに仕事抜きで飲みながら話をするのも悪くない。
エリの顔が浮かんだが、今夜だけはきっと彼女も許してくれるだろう。
「俺とですか?課長も物好きですね。じゃあ、今夜は飲みますか」
そう言って磯崎がジョッキを持ち上げると、一士は「そうこなくちゃ」と言って、二人はもう一度グラスをカチンと合わせた。
「で?どういう子が、タイプなんだ?」
一士の話はどうしてもそっちに行ってしまうようで、磯崎にはできれば触れて欲しくない話題。
かといって、男同士なんて、いや女同士が集まっても異性のことで花が咲くというのはよくあることだろう。
「課長はどうしても、その話を聞かないと気が済まないって感じですね」
「仕事の話を抜いたら、他にあるか?」
しれっと言いながら、「いやぁ。このもつ煮、ウマイなぁ」とビールを美味しそうに飲んでいる一士。
確かに言う通りであるが、この人が言うとちっともいやらしく感じないのはなぜだろう?
既婚者だからなのか、磯崎以上にモテ男であることには変わりないはずなのに、生まれ持った人徳というやつなんだろうか?
「先に課長の話を聞かせて下さいよ」
「俺の話?」
「奥さんとの馴れ初め」
磯崎も、一士とエリの出逢いから結婚に至るまでの経緯をまだ聞いていなかった。
これを機に是非、聞いておきたいものだ。
「馴れ初め?」
黙って頷く磯崎に一士は、改めてエリとの出逢いを思い返してみる。
本社から事業所に異動を命じられた時は正直、いくら課長昇進を伴っていても出世コースから外れたような気になっていたことは否定しない。
しかし、あの辞令がなければ今の幸せはなかったと言っても過言ではないわけで、これは会社に感謝すべきところだろう。
仕事に関しても、本社でやっていたことは上辺だけだったのかと思うような、物を作り上げる面白さみたいなものも知った気がするし、何より彼女と共に過ごす日々、季節がたまらなく心地良かった。
好きな子には、つい意地悪をしたくなる―――。
そういうつもりは一士本人の中には特別あったわけではないが、結果的にはそうだったのかも…。
素直じゃなくて、憎まれ口ばかり言うエリにいつの間にか引き込まれていた。
30になると20代の頃に憧れた燃えるような恋とか、そういう気持ちも薄れ、大人気ないなんて思ったり。
それがどうだろう、彼女に関わる今まで普通に接していた同僚にまで子供みたいに嫉妬して。
「課長、何一人でニヤニヤしてるんですか」
「あ?いや。馴れ初めを」
「もう、いいですよ。その顔で話されても、俺の方がムズムズします」
磯崎は体をクネクネさせながら残りのビールを飲み干すと、「おばちゃん、ビールお替り」と叫ぶ。
…もし、課長が彼女に出逢う前に自分と出逢っていたら。
人生というドラマのエンディングは、果たして変わっていただろうか。
恐らく、変わらないだろう。
例えどんなに想っていたって、その針は常に一方を向いたまま、決してお互いの針は向き合うことはないのだから。
「女の人はコリゴリって」
「え?」
「エリに聞いたんだ。君が、女の人はコリゴリだって言ってたと」
『彼女がいるのか?』って、いちいち聞かれるのが面倒だから、左手の薬指にリングをしていた時にその本当の理由を“秘密”と前置きして話したことを思い出す。
二人の秘密のはずが、こうして知っている人物がいる時点で、それも意味をなしてはいなかったわけだが…。
「俺、左手の薬指にリングをしてたんで、ダミーですけど、奥さんに聞かれたんですよ『磯崎さんの彼女さんって、どんな人なんですか?』と。だから、『女は、コリゴリなんだよ。何でもかんでも押し付けてくるし、すぐ泣くし。やれ誕生日だ、付き合った日記念日だとかさ。ウザいんだよな』と言ったら、すかさず、『女心が、わかってないですね。磯崎さん、そんなことだからダメなんですよ』って、言い返されましたけどね」
と苦笑しながら話す磯崎に、エリがそんなことを言ったのかと一士は思いつつ、彼女らしいなと妙に納得したりして。
一士はふと、今はそのリングもない磯崎の手に視線を向けると、彼の気持ちの変化を垣間見たような気がした。
それは良かったのか、悪かったのか、ただ、心配なのは彼がそのことによって苦しんでいないかどうかと言うこと。
自分の奥さんに想いを寄せる男を気遣ってどうするんだという人もいるかもしれないが、一士は磯崎を信頼しているし、これからもいい付き合いをしていきたいと思っている。
それだけ彼は、魅力的な男だということだろう。
「それで、惚れたってわけか」
「えっ?」
不意の一士の言葉に磯崎の手が止まる。
…気付いていたのか。
絶対に知られてはいけない想いだったはずなのに、それは相手が一士だからこそ、気付いたことなんじゃないかと磯崎は思った。
もしかして、今夜誘った理由はこの事実をとがめるため…。
知られてしまった以上、これは仕方のないこと。
「課長…あの…」
「いや、俺は別に怒ってるとか君を責めるつもりは全然ないんだ。実は、彼女を一人で赴任させたその夜に掛かって来た電話で、そうなる予感はしていたんだよ」
『なんだかとんでもない人が、上司になちゃったみたい』と話す彼女に『彼がエリを好きになるかもしれないってこと』と言った一士。
見事に的中していたことに、我ながらすごい予知能力があるもんだと感心したり。
「すみません、俺…」
「こればっかりは、どうにもしてあげられない」
「わかってます。俺も神に誓って、そんなつもりはありませんから」
好きという想いはどうにもならないが、だからといってどうこうしようというつもりなど磯崎には全くない。
誰か記憶の中からこの想いを消去できる術を知っている人がいるなら、今すぐ実行して欲しい。
「俺は磯崎君を信じてる。ただ、苦しいんじゃないか?」
「苦しくないと言ったら嘘になるかもしれませんが、恋愛もいいもんだなって再認識させてもらいました。コリゴリのままで終わるところを」
何かを磯崎が感じたのは、好きになった相手が自分ではなくここにいる人を選んだからではないか。
男とか女とか、そんなちっぽけな枠を超えて人として二人を好きになったのだと思った。
それがわかったら、ものすごく心が軽くなったような気がした。
「そっか」
「俺、もう一人好きな人ができました」
「あ?」
女はコリゴリだと言っていた磯崎に、もう一人好きな相手ができたことに一士はその理由がすぐには理解できなかった。
一つだけ浮かんだのは、相手は一体、誰なんだ?
「課長です」
「ちょっと、待て。俺はそんな趣味はないっていうか、磯崎君…」
「勘違いしないで下さいよ。俺だって、そういう趣味はありません。ですが、好きになっちゃったんです、二人を」
言っている意味が、わかるようなわからないような…。
男性に告白されたことは一度もないが、意外に気持ちのいいものだったりも…。
『おっと、俺は何を考えているんだ』と一士は、慌てて誤魔化すようにビールを飲み干し、追加を注文した。
◇
「ちょっと、一士。どうしたの?」
「ただいま。いやぁ、磯崎君が酔っ払っちゃってさぁ」
あれから、二人は飲みまくってどちらが強いかなどという競い合いをしたのだが、年の功というのか、一士の方が勝ったものの、磯崎はこの通り酔いつぶれてしまい、家に連れて来るはめに。
「こんなに飲んでぇ」
「もうっ」とエリは一士に手伝って、磯崎を家の中に入れる。
こんなに遅くまで何時だと思ってるの?という言葉はこの際なしにして、酔った彼の姿を見るのは初めてだったが、よほど楽しかったのだろう。
空いている部屋に布団を敷いて、彼を寝かせた。
「磯崎君に告白されたよ」
「告白って?ええぇぇぇっ、まさかっ」
気持ち良さそうにスースー寝息を立てている磯崎を目を見開いて見つめるエリ。
―――磯崎さんって、そんな趣味があったの?
女の人はコリゴリだって言ってたけど、だからって何も男の人に走らなくても…。
そんな勘違いしているエリを背後から抱きしめながら、一士はクスクスと笑っている。
「ちょっと、一士ったら。笑ってる場合なの?」
「彼は、俺達のことが好きなんだってさ」
「えっ、俺達って、私達?」
「そう。俺達みたいな夫婦になりたいって。早くそういう相手が欲しいってさ」
―――やだ、変な言い方するから勘違いしたじゃない。
だけど、磯崎さんがそんなことを。
結婚とかそういうことは考えていない感じだったけど、こういうふうに言ってもらえるとすごく嬉しいかもしれない。
「磯崎さんなら、素敵な人が現れるわね。きっと」
「そうだな。エリみたいな」
今頃、どんな夢を見ているのだろう。
早くそういう人が現れるよう、心から願う一士とエリだった。
To be continued...
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