女心。
逢いたい時にあなたは来ない
2


「千瑛(ちあき)さん、どうかされたんですか?」

「さっきから、溜め息ばかり」と心配そうに声を掛けた秘書の円(まどか)、働き詰めの千瑛(ちあき)がここのところずっと帰宅は午前様で愛する彼女にもなかなか会えないでいること知っている。
今日だって、本来なら休みなのにこうやって出勤して仕事をしなければならない。
それでも、暇を見つけてはメールや電話で連絡を取っていたはずなのに今日の様子では何かあったのだろうか?

返事をする代わりに大きく溜め息を吐いた千瑛(ちあき)だったが、その理由はというと深夜に帰宅して室内に入ってみるとテーブルの上に可愛らしい文字で書かれたメモが一枚と夕食の用意までしてあった。
合鍵を渡してからいつ彼女が家に来てくれるのか、何度もエプロン姿で出迎えてくれる凛々(りり)を想像し、心待ちにしていたというのに…。

「昨夜、彼女がせっかく家に来て待っていてくれたのに僕が帰ったのが遅くて…」

「ほんの一足違いでね」と話す千瑛(ちあき)は、本当に残念そうだ。
すぐに電話を掛けたが、ちょうど電車に乗ってしまったとかで話ができたのはまた少し後のことで、『勝手に行ったのは自分の方だから、気にしないで下さいね』と。
あと30分早く着いていたら、彼女の笑顔を見ることが、そしてこの腕に抱きしめることができたはず。
…今の僕は、間違っているんじゃないか。
世界中の女性達が、より魅力的に輝いて欲しい。
そのための手伝いをするのが自分の役目だと思っていたのに、大切な彼女との時間を削ってまで本業から逸れた活動をしてもいいのかどうか…。

「そうでしたか。千瑛(ちあき)さんが彼女と会えなかったのは、私のせいでもありますね」

円(まどか)は秘書としてよくやってくれているし、休日出勤までさせてしまったのは千瑛(ちあき)の方。
彼氏がいるのかどうかというプライベートに関してはノータッチだったが、恐らくそういう相手もいるはずだろう。
千瑛(ちあき)だけが会えないのではなく、言葉には出さずとも円(まどか)もまた、同じような思いをしているのかもしれない。

「君は悪くないよ。こうして、休みの日まで付き合わせてしまった僕の方こそ、申し訳ないと思うのに」
「いえ。千瑛(ちあき)さんのスケジュールを管理するのは、私の仕事です。雑誌の取材やテレビの出演依頼を受け過ぎたばかりに彼女にも寂しい思いをさせてしまいましたね」

最終的に決めるのは千瑛(ちあき)だったけれど、円(まどか)の受けた雑誌の取材やテレビ出演の依頼について彼はひと言も口を挟んだりはしなかった。
結果的にそのシワ寄せが千瑛(ちあき)自身と、愛する彼女にいってしまっていたことに気付かなかった。

「君のせいじゃないよ。もの珍しさもあったと思うし、忙しいのも今だけさ」
「これからはファッションに関する取材以外、受けないようにします。千瑛(ちあき)さんも自身のことを優先に、彼女に会いたい時は遠慮せずに言って下さいね」
「それは、君もね」

「え?」と驚きの表情で、円(まどか)は千瑛(ちあき)を見つめている。
こういう話は特にしたことはなかったけれど、円(まどか)には五つ年上の彼氏がいて、30を過ぎているからかこうして休日出勤しても特に何も言ってきたりはしない。
付き合いも5年になれば四六時中一緒にいなくてもどこかで繋がっていると信じているのはもしかすると円(まどか)だけで、それは単に弱いところを見せたくなくて本当は会いたいのにそういうところを悟られたくなかったからかもしれなかった。
男性でありながら女性として生きる道を選んできた千瑛(ちあき)にとっての彼女との関係とは比べられないだろう。
ファッションに対する情熱やデザインは一見して変わらないように思えるが、ずっと側で見ていた円(まどか)には一目瞭然。
今、二人の間に何かあれば、デザイナー生命も絶たれてしまうどころか彼までも…。

…だけど、千瑛(ちあき)さんったら。
私も我慢しないで会いたいって、言ってみようかしら?
あいつったらどんな顔するのか、ちょっと楽しみ。

+++

『どうだったの?千瑛(ちあき)ったら、凛々(りり)のエプロン姿を見て鼻血出してなかった?』

―――鼻血って…。
休み明け、知衣(ちえ)からのメールに思わず苦笑しつつ、会えなかったことに凛々(りり)もまた大きな溜め息を吐いた。
ほんの少し、あのまま彼の家にいたら…。
合鍵をもらったからといって内緒で行ったのは自分だし、でも言えば千瑛(ちあき)さんのこと、仕事を放り出して帰って来るに違いない。
そのことが返って重荷になってしまっては困る、だけど会いたい気持ちは日に日に募っていくだけ。
何度も行くわけにもいかないのと、かといって連絡すれば余計な気を使わせるかもしれない。
もう一度溜め息を吐いて、知衣(ちえ)にメールを返すとすぐに携帯が震え出す。
『あっ、千瑛(ちあき)さん』
急いで席を立つと、人目につかないところで電話に出る。

「もしもし、千瑛(ちあき)さん?」
『凛々(りり)さん?ごめんなさい。急に電話を掛けたりして』

―――女の人?誰…。
確かにディスプレイには“千瑛(ちあき)さん”と表示されていたが、電話に出たのは知らない女性の声だった。
どうして、彼の携帯から女の人が…。

「あの…」
『私、千瑛(ちあき)さんの秘書をしている―――』

―――秘書?あっ、もしかして円(まどか)さん?
凛々(りり)は何度か彼のオフィスに顔を出してはいたが、秘書の彼女とはなぜか一度も会うことはなくて、それでも話だけは聞いていたのですぐにわかった。

「円(まどか)さんですか?」
『知ってたんですね、私のこと』
「はい。千瑛(ちあき)さんから、聞いていましたから」

でも、その彼女が千瑛(ちあき)の携帯から凛々(りり)に電話とは…。
やっぱり何か、あったのだろうか?

「千瑛(ちあき)さんに―――」
『ううん、そうじゃなくってね。千瑛(ちあき)さん、今夜は早く帰れそう。っていうか、絶対早く帰すつもりだから、凛々(りり)さんには彼の家で待っていて欲しいの』

『この前、会えなかったことをひどく残念がっていたので』と続ける円(まどか)は、千瑛(ちあき)が打ち合わせで席を外している間を見計らってこっそり彼の携帯から凛々(りり)に電話を掛けてきたのだ。
人の携帯から黙って電話をするのは悪いと思いつつ、また彼女にも余計なお世話かもしれない、それでも何とかしてあげたいという円(まどか)が出た行動だった。

「待ってても、いいんですか?」
『えぇ、私が無理にでも帰すから。あと、エプロン姿で迎えてあげてね。すっごい楽しみにしてるのよ?』
「えぇ…」

――― 千瑛(ちあき)さん、そんなことまで円(まどか)さんに話してたの?
何だか、ものすごく恥ずかしいかも…。
あぁ、でも今夜は千瑛(ちあき)さんに会える。
そう思っただけで、凛々(りり)の心は浮き浮きと弾むのだった。



今度こそ―――。
凛々(りり)は大量の食材を買い込むと両腕一杯にそれを抱えて、彼のマンションへ。
会社でも電車の中でも顔が緩みっぱなしの彼女を、周りのみんなは絶対変な人だと思っただろう。
それでも、嬉しいものは嬉しいんだから、どうしようもない。
――― 千瑛(ちあき)さん、早く帰って来ないかな。
今夜のメニューは前回よりも少し手の込んだものにしてみたが、妙にソワソワして落ち着かないのは、彼がどんな反応をするのか気になったから。

そうはいってもカリスマデザイナーの千瑛(ちあき)、簡単に仕事の量を減らせないのが人気者の辛いところ。
凛々(りり)とも夢の中では何度も会ってこの腕に抱きしめていたが、実際に会ったのは随分と遠い昔のことのように思える。
『待っていて欲しい』
言ってしまえば簡単なことなのかもしれない、でも言えば優しい彼女のことだから、いつまでも千瑛(ちあき)の帰りを待っているだろう。
だからこそ、言えなかった。
…凛々(りり)ちゃん、今頃何をしているのかな。
円(まどか)の努力も虚しく、イタズラに時間だけが過ぎていく。
愛しい彼女が、家で待っていてくれていることも知らずに…。



遅いな、千瑛(ちあき)さん―――。

早く帰れるという話だったが、玄関の扉は一向に開く気配がない。
この分だとまたタイム-アップ、時間切れで家に帰らなくてはならなくなってしまう。

千瑛(ちあき)さん、早く帰って来て…。

そう願った瞬間、ガチャっとドアの鍵が開く音が聞こえた。

「お帰りなさいっ、千瑛(ちあき)さん」

廊下をスリッパのパタパタっという音を立てながら急いで走って来た凛々(りり)は、ハーハーと上がった息で千瑛(ちあき)を出迎えた。
まさか、彼女が来ていると思わなかった千瑛(ちあき)は、まるで幻想でも見ているかのような呆気にとられた表情で、その後ジワジワと嬉しさがこみ上げてくるのがわかる。

「凛々(りり)ちゃんっ、来てくれたんだね」

「ただいま」と疲れているはずなのにニッコリと微笑む千瑛(ちあき)の頬に柔らかくて温かいものが触れた。
それが、お帰りなさいのキスだと気付くまで随分時間が掛かったかもしれない。
ほんのり頬を染めている凛々(りり)はというと、千瑛(ちあき)が楽しみにしていたエプロン姿。
ただでさえ、ボーっとしているというのに白いレースの付いた想像通りの姿の彼女に思わず見惚れてしまう。

「千瑛(ちあき)さん、お食事は?」
「まだだよ」
「なら、すぐに準備しますね。それとも、お風呂にしますか?」

まるで新婚さんの会話だなと、どちらからともなくクスクスと笑いが漏れた。

「でも、まずその前に」

千瑛(ちあき)は、存在を確かめるように凛々(りり)を自分のこの腕にしっかりと抱きしめた。
確かに感じる彼女の感触、あぁ夢とは違うのだと…。

「ずっと待ってたの。千瑛(ちあき)さんのこと」

耳元で囁くように言う彼女の言葉に胸が詰まる思いだった。
この前の夜も、こうして一人で自分の帰りを待っていてくれたのだろう。
いつでも来られるようにと渡したはずの合鍵だったのにこれじゃあ全然意味がない、どころか寂しい思いをさせてしまって…。

「ごめんね。遅くなって」

何度も何度も首を横に振る凛々(りり)の頬に手を添えて、千瑛(ちあき)唇を挟むようにして何度もくちづけた。
できるだけ優しく、想いを込めて。
本当はこんなキスじゃ済まないことを彼自身が一番よくわかっていたけれど、今は欲望を満たすためだけに彼女を欲してはいけないような気がした。

「可愛いよ、そのエプロン姿」
「本当ですか?」

長い睫毛を俯かせながらはにかむように言う凛々(りり)は、なんて可愛いのだろう。
可愛いだけじゃない、彼女がいるからこそ、今までの自分をさらけ出すことができた。
千瑛(ちあき)にとって何が一番大切なのか、それはもちろんデザイナーという仕事でもあるけれど、それよりもっともっと大切なのは凛々(りり)なのだ。
例え何があっても、絶対に失ってはいけない存在。

「今夜は、泊まっていってくれるよね?」
「えっ、は…い」

ほんの短い時間でも、一緒にいられる幸せをかみ締めながら。
そして、洗面所には2本の歯ブラシが仲良く並んでいたのでした。


To be continued...


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福助


※ このお話はフィクションです。実在の人物・団体とは、一切関係ありません。作品内容への批判・苦情・意見等は、ご遠慮下さい。


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