あたしの名前は峰村 季子(みねむら としこ)、通称ドジ子 22歳。
この春、大学を卒業して就職したばかりのピッカピッカの新入社員。
そして今日は、一ヶ月の研修期間を終え、いよいよ各部署に配属される。
「えっと、今日からうちの部に新しい仲間が3名加わることになりました。みなさん、よろしくお願いします」
始業の鐘と同時に40代半ばの若い部長の一声で部員が中央に集められ、配属されたばかりの新人紹介が始まった。
この部には季子の他に男性2名が配属されたが、今年採用された20名のうち女性はたったの1名と非常に狭き門であったことに加えその紅一点がこの部に配属されたことで、みんなの視線は一気に彼女に集まった。
「それでは、峰村さん。ひと言、挨拶をお願いします」
「はい」と返事をして、季子は一歩前に出ると呼吸を整える。
「峰村 季子、通称ドジ子です。いっぱいドジを踏むと思いますが、みなさんにご迷惑を掛けないよう一生懸命頑張りますので、厳しいご指導よろしくお願いしますっ」
ペコリと頭を下げると一瞬呆気に取られたみんなだったが、その後、ドッと笑いの渦に包まれる。
本人が自己申告している通り、季子のあだ名は小学校から今の今までずっとドジ子だった。
季子ちゃんが、いつの間にかドジ子ちゃんに変化していくのである。
外見はしっかりしているように見えるし、大きな目がチャームポイントの本当に可愛らしい女の子なのだが、いかんせんドジばかり。
中学では遠足を1日前に勘違いして、一人トレーニングウエア姿にお菓子がたくさん入ったリュックを背負って学校へ行ったり、定期試験で当日の試験科目を間違って勉強していたなんてことは日常茶飯事。
何もないところで転ぶという誰にも真似できない特技まで持ち合わせていて、若き乙女の手足に生傷が絶えないのを家族はいつも心配していた。
でも、一生懸命で憎めない、素直で可愛い彼女の周りには、いつもたくさんの友人や家族が温かく見守っていたのである。
「噂通り、めちゃめちゃ可愛いな、ドジ子ちゃん。お前の下に来るんだろ、あの子」
「あ?顔が可愛くても、ドジ子じゃなぁ」
同期の池田 寛(いけだ ひろし)に言われて苦笑するのは小野寺 由人(おのでら よしひと)、27歳。
一週間ほど前、急に課長から季子の面倒を見るように言われたものの、可愛いと評判の彼女だから、寛に散々冷やかされていたのだった。
しかし、ドジ子とは…。
どの程度なのか由人には想像つかないことだったが、とんでもないことにならなければいいが…。
そんな不安を抱えつつも新人紹介が終わり、由人は課長に呼ばれた。
「今日から峰村さんの面倒を見てくれるのは、主任の小野寺君。彼は若いけど、有能だし、なんたっていい男だからね。峰村さん、良かったね」
「課長、最後は余計です」
課長は30代後半の仕事はできるが、少々軽いところが難点。
それ以外は仕事もできるし頼りになる存在で、由人も一目置いていた。
「じゃあ、小野寺君。彼女を頼んだよ」
「はい、わかりました」
由人は、季子を自分の席に案内する。
彼女の席は由人の隣、それまで座っていた人に昨日一つずつ席を移動してもらっていた。
「峰村さんの席は、俺の隣だから」
「はい。小野寺さん、よろしくお願いします」
「あぁ、こちらこそよろしく」
季子にニッコリと微笑まれて、目が釘付けになった。
………あぁ、可愛いなぁ。
女性に対してクールな由人でさえも、そう思うくらい。
だけど、本当にこの子はドジ子なんだろうか…。
とてもそんなふうに見えない由人だったが、直後に納得させられることになる。
◇
「峰村っ、お前何やってんだ。中身が真っ白だぞ!」
「すっ、すみませんっ」
普段温厚な由人が、ここまで大声を張り上げるということは相当なこと。
それもそのはず、せっかく作ったばかりのデータが消えて、ファイルの中身が真っ白になっていたのだから。
………ったく、ドジ子のやつ。
中身だけ消すなんて、器用なことしてからに…。
「すみません…すぐ、作り直します」
「当たり前だ」
―――また、怒らせちゃった…。
由人に顔も合わせず低い声でそう言われ、すっかり落ち込む季子だったが、自分が悪いのだからメソメソしてもいられない。
すぐに消してしまったデータの作り直しにかかった。
「峰村さん、残業?」
季子がただ無心に消してしまったデータを入力していると、いつの間にか定時を過ぎていたらしい。
そこへ、「大変だね」と声を掛けてくれたのは寛だった。
彼はグループが違うのに季子がわからないことがあって困っていると、そっと手を貸してくれる。
優しくて、カッコ良くて、憧れの存在でもある。
「いえ。私がドジだから、データを消してしまって…それを作り直してるんです」
「そっか。実は、俺もたまにやるんだよ」
「えっ、池田さんもですか?」
―――うそ、池田さんもそんなことをしたりするの?
季子には、とても信じられない。
「俺の場合は、名前を変えて保存するつもりが上書き保存してたってやつなんだけどさ。あと、たまにファイルごと削除なんてこともやってるし」
「そういう時は、バレないようにこっそり作り直してるんだ」と話す寛にも、失敗談はいくらでもある。
それをわからないようにカバーしているだけのこと。
「そうなんですか?」
「そうだよ。だから、元気出して頑張って。心配なら必ずコピーを作っておくとか、気をつける方法を自分なりに考えておけばいいんだし」
「はい。そうします」
「わからないことがあったり、小野寺に聞きにくかったらいつでも俺に言って」
優しく微笑む寛に季子はドキッとするが…。
「そうか、峰村は俺には聞きにくいのか」
そこへ現れたのは、コーヒーを買いに席を外していた由人だった。
これまた、さっき以上に低い声。
―――やだ、どうしよう…今度こそ、本気で怒らせた?
「え…いえっ。そっ、そんなことはっ…」
「違うぞ。お前があまりにも、峰村さんに冷たいから」
「悪かったな。冷たい男で」
どっかと椅子に腰を埋めた由人は、無言のままでパソコンの画面に向かう。
机の上に置かれたコーヒーの缶はなぜか2つあって、それに気付いた寛はそのまま何も言わずにフっと笑みを浮かべると自分の席に戻って行った。
「小野寺さん…あの…」
「これ」
「え?」
「少し休憩しろよ」と季子の机に由人がコーヒーの缶を置く。
相変わらず目は合わせないが、声は今まで聞いたことがないくらいとても優しかった。
「嫌いか?コーヒー」
「いえ、好きです」
「そっか」
たったそれだけの会話だったけど、季子は由人の優しさを感じて胸がキュンッとなる。
「ほら、早くしろ。それが終わらないと、帰れないんだからな」
「はい…」
―――あたしが小野寺さんの下になったばっかりに…。
ドジなばっかりに迷惑を掛けて、季子は申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
+++
「おい、ドジ子っ!また、お前かっ」
相変わらずの季子のドジぶりに、とうとう由人は名前でなくドジ子と呼ぶようになっていた。
そんな二人のやり取りをみんなが微笑ましく見つめていたのは、彼女の頑張りを知っているからだった。
それに口ではああいう言い方をしている由人が、実はまんざらでもないことを。
「すみませんっ」
「すぐ、直してくれ。次の会議で使うんだ」
「はい。わかりました」
由人だって、彼女が一生懸命やっていることをちゃんとわかっている。
ドジっても、同じ過ちは繰り返さない。
少しずつではあったが、徐々に失敗も減ってきていたのだから。
*
「ねぇ、峰村さん。遅くなって申し訳ないんだけど、来週末に新人歓迎会をやることになったから、予定大丈夫かな?」
「今回は、俺が幹事なんだ」と、寛が季子のところへ予定を聞きにやって来た。
部長が忙しく、延び延びになっていた歓迎会をようやく行うことになったらしいが、彼氏もいない季子には予定などほとんどないに等しいわけで…。
「はい。大丈夫です」
「良かった。盛大にやる予定だから、よろしくね」
―――歓迎会かぁ。
社会人になってから急にお酒の席が増えたことは確かだが、ビール大好きの季子にはたまらない。
ドジばかり踏んでいる毎日だけど、その日が待ち遠しく思えたのだった。
+++
「随分遅くなってしまったけど」 ―――ぶちょーのせいですよっ
「あれ?僕のせい…だっけ?」 ―――とぼけないで下さ〜い
「そうでした。僕が忙しかったことで新人歓迎会が遅くなってしまい、申し訳ありません。その間に新人3名も成長したことと思います。えっと、―――」 ―――話が長いで〜す
「はいはい。周りも我慢できないみたいなので、では乾杯といきましょうか」
「乾杯!」
部長の乾杯の音頭で、みんながそれぞれグラスをカチンカチンとぶつけ合う。
「あ〜美味しい」
「おっ、峰村さん。いい飲みっぷりだねぇ」
「はい。ビール、大好きなんで」
「じゃあ、飲んで飲んで」
一気に飲み干した季子のグラスに、隣に座っていた寛はすぐにビールを注ぎ足す。
それを見ていた由人は『あんなに一気に飲んで、大丈夫なのか?』と思ったが、彼女はそんな心配を他所にガンガン注がれて飲みまくっている。
それに寛と楽しそうだしさ。
っつうか、そんなにくっ付くな!ドジ子は、俺の―――。
………あれ?俺、何言ってんだ…。
「お前、そんなに飲んで大丈夫なのか?」
「あっ、小野寺さん」
「あっ、じゃないだろ。自分ばっかり飲んで、俺にはないのかよ」
「えっ、ごめんなさい。気が付かなくて」
―――小野寺さん、なんか機嫌悪い?
いっつもドジばっかりだから、きっと怒ってるのよね。
季子は近くにあったビールのビンを取ると、由人のグラスに注いだのだが…。
「こらっ、どこ見て注いでんだ。だから、お前はドジ子なんだよ!」
「ごっ、ごめんなさいっ」
季子は考え事をしていたせいで、注いでいたビールがグラスから溢れていたのに気付かなかった。
手を前に出していたことで、由人の服に掛からなかっただけ良かった…。
「…ごめん…な…さい…くっ…ぅ…っ…」
どんなに失敗してもドジを踏んでも絶対泣かなかった季子の大きな瞳からは、いつの間にか大粒の涙が零れ落ちていた。
「ダーっ!泣くなっー、ドジ子!!」
「…だっ…てぇ…」
「小野寺っ。お前、何、峰村さんを泣かせてんだ。ビールがこぼれたくらいでっ」
「そうよ、季子ちゃんがかわいそうじゃない。そんな、みんなの前で大声出さなくても」
寛の他に近くにいた女子社員も見るに見かねて、季子の側にやって来た。
みんな本当にいい人達ばかりで、この部内には由人を除いて誰一人季子のことを“ドジ子”と呼ぶ者はいなかった。
それがかえって、申し訳ないという思いを募らせる。
「あぁ、もうっ来い。ドジ子!」
由人は季子の腕を掴むと、そのまま店の外へ連れ出した。
「…ひっ…く…っ…小野寺…さ…ん…どこ…へ行く…ん…です…か…」
「うるさい。黙って付いて来い」
優しくしようと思っても、つい強い口調で言ってしまう。
………俺が急に優しくなったら、気持ち悪いだろ?
言い訳にしか、聞こえないが…。
暫く歩いて誰もいない路地裏で、由人は足を止めた。
「もう、泣くな。せっかくの可愛い顔が、台無しだろ」
由人はポケットからハンカチを取り出すと、そっと季子の頬に伝う涙の跡を拭う。
「…ごめんな…さい…。あたしが…」
「何も言うな。悪いのは、俺の方だから。あんなこと言って、ごめんな」
―――小野寺さんは、悪くない。
悪いのは、あたしなんだもん…。
季子はそんなことはないのだという思いを込めて、顔を左右に振り続ける。
「迷惑…ですよね。あたしが、いると」
「はぁ?何、言ってんだよ。いつ誰が、そんなこと言った」
「あたしドジ子だから、小野寺さんに迷惑掛けてばっかり…」
「池田の方が、いいのか?」
「え?」
ずっと俯いていた季子は、今の由人の問いに顔を上げた。
『池田の方が、いいのか?』
―――池田さんはとってもいい人、憧れの人だけど…でも、あたしは小野寺さんの下がいい。
ちょっぴり怖いし、口も悪いけど、本当は優しくて…。
「俺より、池田の方がいいのか?」
真っ直ぐに見つめられて、季子は目を逸らすことができない。
「いいえ。小野寺さんの下がいいです」
「仕事だけ?」
「え…」
―――それは、どういうことでしょう…。
キョトンとしている季子を見れば、由人の言っている意味がわかっていないのは明白。
「俺が、ドジ子の全部を引き受けてやる」
「全部?」
「そう、全部」
「だから、池田と仲良くしたりするな」
「…それっ…て…」
こういうことに疎い季子には良くわからなかったが、もしかして…。
「ドジ子は誰にも渡さない。池田にも」
「小野寺さん?…あっ」
体を引き寄せられて、由人のガッシリとした腕で抱きしめられた。
温かくて、大きな胸。
季子の心臓の鼓動が急激に速まって、弾ける寸前。
「こんなドジ子の面倒を見られる男は、俺くらいだからな」
「最後まで、見捨てないで下さいね」
「それはないな。俺、ドジ子に嵌ったみたいだから」
『嵌ってんだ。ドジ子に』
そう心の中で呟くように言うと、由人は季子の唇に羽根が触れたようなキスを一つ。
ただでさえ大きな目を一層大きく見開き、頬を染める彼女に本気のキスをしたら、どうなるんだろう?
………これは、もう少し先に取っておくか。
その頃、いつまでも戻って来ない二人に寛は…。
由人のやつ、後で全部聞かせてもらうからな―――
戻って散々冷やかされた、由人と季子でした。
おしまい
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