心にポッカリと開いた穴。
離れて知った、その存在の大きさを―――。








掛け替えのない。








やだっ、もうこんな時間?

水尾 かんな(ミズオ カンナ)は壁の時計を見るや否や、慌てて目の前の若者に問い掛けた。

「坂口君、営業とは連絡取れたの?」
「主任、遅いっすよ。その件なら、バッチリ。とっくに終わってますって」

既に次の仕事に取り掛かっている彼は、顔の辺りで親指を立てて見せる余裕の表情だ。

「さすがっ、坂口君。抜け目ないわね」
「俺を誰だと思ってるんですか。うちの会社一有能な、坂口 学(サカグチ マナブ)っすよ?」
「こらっ、調子に乗らない」

いつもの二人のやり取りに周りからも笑いが漏れる。
自分のことを会社一有能と言ってしまうところが彼らしいと思うが、それを誰もが認めているからこその反応なのである。
彼は入社3年目の24歳だったが、新人でかんなのグループに配属されてからというもの、ずっと共に仕事をしている気心知れた仲間だった。
機転も利くし、覚えも早い、頭もいい彼は何より世間一般で言うイケメンでありながら、飾らないところがとても魅力的。
つい最近、主任になったばかりのかんなの良きパートナーで、一番信頼している相手でもある。

「ということで主任、今夜一杯どうっすか?」
「はぁ?何よ、坂口君。みんなの前で、あたしを誘ってるわけ?」
「そうっすよ。主任ったら、俺がこんなにモーションかけてるのに全然気付いてくれないんだから」
「嘘ばっかり。誰もそんなこと信じないわよ。それより、さっさと仕事を片付けなさい」

ちっとも本気にしないかんなに「ほんとですって〜」と少し落ち込んだ顔の学だったが、誰にでもこんなことを言っているわけではないことを彼女もわかってる。
ただ、それは好きとか嫌いとか、そういう男女の想いとは若干意味が違う。
28歳になるかんなが年下の彼をそんなふうに想うことは恐らくないと思っていたし、彼もそうだと信じていたから。



「「カンパ〜イ」」

生大ジョッキのグラスをカチンと合わせて豪快に喉に流し込む。
この瞬間が、まさに至福の時。
なんだかんだ言って、結局二人は行きつけの居酒屋に来ているところもお決まりのパターンだった。

「やっぱ、いいっすね。主任の飲みっぷりは」
「ありがと。一応、褒め言葉として受け取っておくわ」

相手が学だからではないが、かんなは男性の前でも変わることはなく、それで可愛くない女と思われても別に気にしないし、これが本来の自分なんだから隠す必要もない。

「主任のそういうところ。俺、めちゃめちゃ好きです」
「ねぇ、どうしたの?今日はヤケにあたしに迫るじゃない。そろそろ、彼女でも欲しくなった?」

今日の学はいつもと少し違うような気がするが、本気でかんなを誘っているわけではないだろう…。
彼女は当分作らないと言って、ここ1年ほど彼女のいなかった学も、やはり彼女が欲しくなったのだろう。

「そんなこともないですけど、俺には仕事が恋人ですから。でも、今言ったのは本当です。そのままの主任がカッコいいって思いますし、俺は尊敬してますから」

冗談で言ってるのかと思ったが、彼の顔は笑ってない。
なぜ彼がこんなことを言ったのか、かんなにはわからなかったが、そういうふうに思われていたなんて…。
上司としても女としても、これ以上嬉しい言葉なんてない。

「ありがとう。そんなふうに思ってもらえて、嬉しい。これからもビシバシしごくけど、ヨロシクね」

心からそう言葉にしたかんなだったが、この後二人の間に起ころうとしていた事件など知るはずもなかった。

+++

ある日、かんなは部長と課長に呼ばれ、少し緊張した面持ちで会議室へと足を運ぶ。

まさか、異動…じゃないわよね?
上司に呼び出されるということは、少なからずそういう意図も含まれているはず。
仕事も順調にいっていたし、仲間とも上手くやっている。
今、ここで異動になるということは、ちょっと辛いかも…。

会議室のドアの前に立つと一呼吸し、数回ノックしてかんなは中へ入る。

「水尾さん。忙しいところを呼び出して、悪かったね」

「どうぞ」と部長に手を差し出され、向かいの席にかんなは腰を下ろす。
目の前の部長は50代前半でダンディな男前、しかし怒ると怖いが普段は温厚でとても部下思いの優しい人である。
そして、隣にはかんなの直属の上司である課長が座っていたが、表情はやや固い。

やっぱり、異動の話かしら?

そう思っていたところへ、部長の発した一言にかんなは思わず声を上げた。

「えっ、坂口君を上海に5年…ですか?」
「今、君のところから彼がいなくなると困ることはわかってる。すぐにとは言わないが、遅くとも半年先には行ってもらおうと思う」

てっきり自分の異動話だと思っていたが、まさか坂口君の上海行きの話だったとは…。

驚きを隠せない、かんな。
部長の話では、うちのような企業は国内でも競争相手が多く、生き残るためには中国に市場を拡大することが必要不可欠だと。
社運を賭けた一大プロジェクトが動き出していることをかんなも知っているが、そのメンバーに学が選ばれるとは思わなかった。

「あの…彼は、坂口君はもうそのことを知っているのでしょうか?」
「それが、まだなんだ。先に君に言っておいた方がいいと思ってね」
「そうですか…」
「君も知っている通り、坂口君は有能な人材だから、どうしてもこのプロジェクトには必要なんだ。彼には今週中には話をして、承諾を得次第、引継ぎの準備をしてもらう。水尾さんも、協力頼んだよ」

「はい」と返事をしたものの、かんなの心境は複雑だった。
企業に勤めていればこういうことは避けて通れないことだとわかっている、わかっていても彼の場合は別。
いつまでも、一緒にいられると思っていたのに…。

+++

部長の言っていた通り、数日後に異動の件は彼本人に伝えられ、噂はすぐに部内にも広まった。

「主任、俺…」
「何よ、そんな顔して。会社一、有能な坂口 学がどうしたの?」

かんなが彼の肩をポンッと叩くと、無理に笑おうとする学がなんだか痛々しかった。
独り身とは言っても異国の地に5年も行かなければならない不安に加え、仕事の重圧もあるかもしれない。
もしかして、ちょっとはかんなと離れることも…。

「俺…」
「あたしも鼻が高いわ。坂口君が、すごいプロジェクトのメンバーに選ばれたんだもの。5年なんてあっという間だし、それに上海って、飛行機で3時間なんでしょ?あっ、あたしはその頃は32歳?うわぁ、お局様とか言われてるわね、きっと」

上司のかんなが寂しい顔を見せれば、彼はより一層不安に思ってしまう。
ここは、背中を押して彼を送り出さなければならない。

「そうですね。ここまで指導して下さった主任のためにも、俺は向こうで頑張ります」
「それでこそ、坂口君。その前に半年間、しっかり今の仕事を次の人に引き継いでね」

「わかりました」と言う彼の顔は、さっきとは別人のように自信に満ちていた。
別れは悲しいけど、彼にとっては新しい旅立ちなんだ。
今の時間を大切に過ごすことだけを考えて、その日を迎えよう。


それからの半年は流れるように過ぎていき、彼は明るく上海へ旅立ったが、かんなは見送りには行かなかった。
なぜなら、年甲斐もなくみんなの前で泣いてしまいそうだったから。

今頃、坂口君の乗った飛行機はどの辺を飛んでいるのかしら。
もう、日本を抜けたところかな。

部屋の窓から空を眺める、かんな。
旅立ちの日に相応しい、雲ひとつない青空だった。

+++

学がいなくなっても、何事もなかったように会社は動いている。
しかし、時がいくら過ぎようとも、かんなの心の中にポッカリと開いてしまった穴を塞ぐことはできなかった。
彼の代わりに入った若者も、もちろん優秀だったし、業務には何の支障もない。
でも、かんなには別の意味で学の存在が大きかったことに今更ながら気付かされた。
どんなに仕事に打ち込んでも、一人になると彼のことが頭に浮かんで離れない。

『主任ったら、俺がこんなにモーションかけてるのに全然気付いてくれないんだから』
『主任のそういうところ。俺、めちゃめちゃ好きです』
『そのままの主任がカッコいいって思いますし、俺は尊敬してますから』

坂口君…。

窓の外の星空を眺め、彼が言った言葉を繰り返し思い出す。
かんなの頬を自然に涙が伝い、止めることがきなかった。


ただ我武者らに、今まで以上に精力的に仕事をこなすかんなだったが、泣き腫らしたような顔を課長が見逃すはずもない。

「水尾さん、ちょっといいかな」
「はい」

呼ばれたかんなは、自席を立つと急いで課長席に向かう。

「急で悪いんだけど、期限は2週間。上海へ行って欲しいんだが、どうかな」
「えぇっ、上海ですか?」

上海と聞いただけで変に反応してしまう、かんな。
それにしても、自分がなぜ上海にいかなければならないのか?その理由がわからない。

「向こうのプロジェクトが行き詰っててね。坂口君も頑張ってくれているんだけど、手伝ってもらえないかと水尾さんご指名で要請があったんだよ。こちらも長い間、君に抜けられると困るから、きっちり2週間だけという期限付きで承諾したんだ」
「はぁ、そういうことでしたら…」

そういうことなら受けるしかないが、本心は嬉しさでいっぱいである。
例え2週間でも、彼に逢うことができるのだから。

「それと、自分の気持ちを確認してくること」
「え…」

課長のひと言に耳を疑うかんな。

知っていたんだ、課長は…。
誰にも言わないし、気付かれないと思っていたのに…。

「これは、上司命令。私としては、こっちの方が重要なんだ。もちろん、君に手伝って欲しいという依頼は本当だから、その辺は誤解のないように」
「課長…」
「私は元気な笑顔で君が帰って来てくれさえすれば、それでいいんだ」

優しく微笑む課長に思わず涙が溢れそうになる。
でも、これは悲しくてじゃない、その反対。
結果はどうあれ、このチャンスを無にしないためにも、彼に逢って自分の気持ちに向き合おう。
そう、決心したのだった。

+++

一週間後、かんなは上海に向かう飛行機に乗っていたが、その頃、学は彼女が日本を立つ前から今か今かと到着するのを待ちわびていた。
前日なんて、ほとんど眠れなかったし…。
彼女が来るとわかった時からそわそわしてしまい、周りの人達にも散々冷やかされたくらい。
学だって、かんなと離れたことで彼女の存在がどれだけ大きかったかということを思い知らされたのである。

「主任、お疲れ様です」
「えっ、坂口君。来てくれたの?」

現地のオフィスには明日から出る予定だったし、ホテルまでは一人で行くものとばかり思っていたかんなは、学の出迎えに驚きと嬉しさが入り混じった表情だ。

「はい。課長に主任を迎えに出るよう、日本から連絡がありましたので」

気を利かせた課長が、かんなを空港まで出迎えるよう、わざわざ学に連絡を入れてくれていたのだった。

「ありがとう。お休みの日にわざわざ、ごめんね」
「そんなことないっすよ。どうせ、暇でしたから」
「そう?こっちで、可愛い彼女を見つけたんじゃないの?」
「全然。今は、仕事が恋人ですから」

相変わらずの彼にホッとしたかんなだったが、ちょっと逢わないうちに随分と男っぽくなったなと思う。
スーツケースを彼の車のトランクに入れると、二人はかんなの宿泊先であるホテルへ直行する。
取り敢えずチェックインを済ませ、荷物を置いてから簡単に街を案内してもらうことにした。

「どう?こっちは、もう慣れた?」
「そうですね。ボチボチってところですか、やっぱり日本がいいですよ」

『主任のいる、日本が…』
以前だったらこんなふうに冗談っぽく言えた筈なのに、どうしてなのか今は言えそうにない。

「まだまだ、先は長いのよ?」
「そうなんですよね」

さっきまでと違い、本音は心細いのか、一人で寂しいのか、いつになく弱気の学。
そんな彼に渇を入れるように言うかんな。

「こらっ、坂口君らしくない。これから2週間は、あたしが今まで以上にビシバシしごくから、そのつもりで覚悟しなさいよ?」
「はい。俺、主任に怒られてないとダメみたいです」
「それって、何か意味が違うんじゃないの?」
「さぁ、どうでしょう?」

笑い声が車内に響き渡り、やっといつもの二人に戻ったような気がした。



上海オフィスでは事務関係を担当する女性以外はほとんどが日本からの転勤者で、あまり外国にいる雰囲気は感じられない。
そのせいか、かんなと学のいつものやり取りにも拍車が掛かり、周りも始めは驚いていたが、というのもこっちに来てからの学は借りてきた猫のようにおとなしかったから。
それも、段々慣れてくると心地良くなってくるから不思議だった。
仕事だけでなく、お互いなくてはならない存在であることを再認識した二人。
課長に言われた言葉を思い出す度にかんなの中でそれが確信に変わっていったが、彼の異動が決まってからの半年などとは比べ物にならないくらいの早さで、時間が過ぎていく。

「本当に明日、日本に帰ってしまうんですか?」
「当たり前でしょ。そういう約束だもの」
「ですが、みんなもう少し手伝って欲しいと言ってます。主任は、すごい人だって」
「そう言ってもらえるのはありがたいけど、課長から言われてるの2週間だけって。それに航空券も予約しちゃったし」

ついさっきまで、オフィスの人達が開いてくれたかんなの送別会をしていたのだが、口々にそう言われ、所長などうちの部長に直訴するとまで言い出す始末。
こればかりは、かんなの一存でどうにかなるものではないが、ここは一旦日本に帰るしかない。

「そうですか、残念です」
「仕方ないわよ」

海を見ながら、二人並んで歩く。
別れが明日に迫っているせいか、口数は少ない。
自分の気持ちを伝えるのは今しかないこともわかっているが、かんなは言ってしまってもいいものかどうか、ここへきて迷ってしまう。

だけど…このまま、引きずっていても何も始まらない。
自分が前に進むためにも、言わなければ。

「あのね、坂口君。あたし、あなたに話したいことがあるの」

立ち止まったかんなに学も歩みを止める。
真剣な彼女の眼差しに何かを感じ取った。

「話したいこと、ですか?」
「うん。あたし、坂口君のことが好き―――」
「あっ、ちょっと待って下さい。それ以上はっ」

学に遮るように言われ、かんなは自分の想いが拒絶されたのだと絶望感の淵に立たされる。
覚悟していたことではあったが、こんな…。

しかし、次の瞬間、強い力で引き寄せられて、気が付けば目の前には彼の大きな胸。

「ちっ、違うんですよ。そういうことは、男の俺に言わせて下さい」
「え?」

顔を上げると至近距離に彼の顔が…。

「俺は主任のことが、かんなさんが好きです。今思えば、ずっと好きだったんだと思います。離れてみて初めてそれに気付いたんです。あなたが、掛け替えのない人だったって」

恐らく、元カノと付き合っている頃から、学の中には既にかんながいたのだ。
別れた理由も、会社でかんなと一緒にいる時間の方が楽しかったから。
あまりにそばにい過ぎて、その存在の大きさに気付かなかっただけ。

「坂口君…それ、ほんと?」
「えぇ、本当です」

彼の目をしっかり見つめながら、背にそっと腕を回すかんな。
そして…。

「あたしも坂口君が、学が好き」

重なる唇から、お互いの想いが伝わってくる気がする。
何度も何度も離れては、また重なって…。

「やぁっ、ちょっ、どうしたの?」

甘い雰囲気もどこへやら、しっかり腰に腕を回したまま、急に歩き出す学に何が起きたのか…。

「早く、ホテルに帰りましょう。時間がないんですから」

「早く早く」と半ば走るようにして歩き出す学。

時間がないって、何の?

「時間がないって、何の?」
「愛を確かめ合う時間ですよ」

「はぁ?ちょっと待ってよ」なんて、かんなの言葉が彼に届くはずもなく…。
呆れつつも、そんな学が好き。

あたしにとっても、あなたは掛け替えのない人だから。





END


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