窓から差し込む光で目を覚ました恵が時計を見ると、朝の6時を少し過ぎたところだった。 昨夜はホテルに着いたのが10時前だったから、結構眠ったようだ。 スーツもそのままだったということを思い出してそれをクリーニング用のバックに入れ、シャワーを浴びて新しいベージュのパンツスーツに着替えると軽く朝食をとるためにエレベーターに乗り込んだ。 今日は昨日と同じようにいいお天気で、まだ少し寒いけれど段々と春らしくなってきたなと感じる。 昨日の晩から和食を食べているせいかどうも洋食をとる気にならなくて、和食の店へと自然に足が向いているのにはさすがに自分でも驚いた。 一流店の和朝食は、焼き魚にお味噌汁と卵焼き、どれも日本の一般的な朝食だったけれど、それだけでなぜか感動してしまう。 どんなに外国生活が長くても身体は覚えているのだなと、改めて民俗に染み付いた習慣というものを感じていた。 朝食を終えて一度部屋に戻り、約束の8時にはまだ早いがラウンジでコーヒーでも飲もうとバックを持って部屋を出た。 恵はゆっくりコーヒーを飲みながら新聞を読んでいると、「おはようございます。笹川警視長」と背後から声を掛けられ視線を向けると、昨日とは違って濃紺のスーツに身を包んだ一輝が立っていた。 「おはよう」 新聞を畳んでラウンジを出ると、青いFORESTERの助手席に乗り込んだ。 「昨夜は、よく眠れましたか?」 一輝の問いに「ええ、おかげでぐっすり眠れたわ」と返すと「それはよかったです」とニッコリ笑顔を返された。 「昨日はごめんね、スーツ大丈夫だった?あんなふうに尻餅つかせちゃって」 地面も乾いていたし、さほど汚れるようなことはなかっただろうが、それでも尻餅をつかせてしまったことを恵はやはり申し訳なく思っていた。 「安物のスーツですから、気になさらないでください」 ホテルからは、あっという間に支庁舎に到着した。 国際連邦警察庁東京支庁の庁舎は一見して普通のオフィスビルのように見えるが、内部は厳重なセキュリティによって管理されている。 地下の駐車場に入るにしても、入門証のIDカードを通さないと入ることができない。 そのIDカードも1人ずつ指紋で管理しているため合致しなければ、例えカードを持っていても支庁舎には入ることが許されないのだ。 警備員に敬礼してから、恵と一輝は駐車場に車を止めるとセキュリティチェックを済ませて直通のエレベーターに乗る。 エレベーターのボタンを押すと、先に乗り込んだ一輝が恵が乗ったのを確認してからドアを閉めた。 ランプの付いている階は15F、「笹川警視長の部屋は15階にありますので、ご案内します」という一輝の言葉でなんとなく恵は緊張し始めていた。 警視長室は、一般警察官の執務する部屋の隣に設置されている。 廊下の突き当たりにある部屋の前で立ち止まると、「どうぞ」という言葉と共に一輝は警視長の部屋のドアを開け恵は一歩足を踏み入れた。 東京支庁舎は、ベルリン支庁舎よりもかなり広くて近代的なオフィスだと思った。 中でもすごいのがブラインドで目隠しになっているが、壁の一角がガラス張りになっているため、庁員が執務している姿が見えること。 これでは緊張して仕事なんか手につかない、と恵は思うのだが…。 正面には応接セットと奥に窓を背に向けて大きなデスク、その上にはノートパソコンが置かれている。 背後には警備を考えてかあまり大きくない窓があるが、景色はかなりよさそうだ。 『夜景が綺麗かしら?』、などと不謹慎な考えが頭をよぎる。 そして斜向かいにもう1つ、さっきの机よりはやや小さ目のデスクとやはりその上にはノートパソコンが置かれていた。 隣にも部屋がもう一つあるようだが、扉が開けたままなのでそっと覗いてみると仮眠もできるようなソファーとテーブルがあった。 「警視長のデスクは、こちらです」 一輝は正面奥にある大きなデスクを、そして「私は、こちらのデスクにおりますので」と斜向かいのもう1つのデスクを指差した。 「あと、奥の部屋は警視長の更衣室も兼ねてますので、使う時は念のために中から鍵を掛けてください。制服は、ロッカーに用意してありますので」 一輝は自分も制服に着替えて来ると言い残して一旦、部屋を出て行った。 恵も制服に着替えるために隣にある予備室に入って、さっき一輝に言われたよう念のために鍵を掛ける。 ロッカーには、真新しい制服が入っていた。 ニューヨークやベルリンとは少し違う水色のワイシャツに濃紺のブレザーとパンツ、同じ紺色のネクタイを着用する。 基本的に男性も女性も同じスタイルである。 肩章は警視長の印である中央の星の両端に2本ずつラインが入っていて、胸章はゴールドのプレートに肩章と同じデザインが施されている。 恵は素早く制服に着替え、肩までの髪をクリップで留めると執務室のデスクについた。 ほどなくして制服に着替えた一輝が部屋に戻って来たのを見て思わず見惚れてしまったが、今はそんな場合ではないと恵は一輝を連れて上司の挨拶回りをするために部屋を出た。 初めは、東京支庁のトップである警視総監へ。 一輝が警視総監室のドアをノックし、「高梨警視です。笹川警視長をお連れしました」と言うと、中から低い落ち着いた声で「どうぞ」という言葉でドアを開けて中に入る。 「本日付で、東京支庁勤務を命ぜられました笹川です。よろしくお願いします」 恵がそう挨拶すると、デスクに向かって何やら書類に目を通していた柿本が視線を上げた。 「よう、恵。久しぶりだな、元気だったか?すっかり美人になって、見違えたよ」 「本当にお久しぶりですね、会うのは5年振りでしょうか?警視総監も、お元気そうで何よりです」 恵が、目の前に居る柿本に会うのはあの日以来だった。 そして、柿本のあまりに砕けた挨拶に一輝は一瞬目を見開いた。 ───なんなんだ?一体、この二人は。 「おいおい、その警視総監って呼ぶのはよしてくれよ。いつもの誠小父さんで構わないよ」 ───何?今度は、警視総監を誠小父さんだと? 一輝も驚いたが、警視総監付の加納警視もかなり驚いたようで、呆気にとられた二人は顔を見合わせて恵と柿本を交互に見つめていた。 「さすがにここでは、誠小父さんとは呼べませんよ」 恵が、小さく微笑んだ。 「ちょっと不満だが、まあよしとしよう。それより弟の匡(まさし)君は、元気にしているか?」 「はい、匡はよく勉強しています。私よりも優秀で、来年には大学院を卒業できそうだと言っていましたよ」 「そうか、恵も優秀だったが匡君はそれ以上か。お父さんの意思を継いで研究の道を歩むんだろうな、将来が楽しみだ」 一輝は恵から兄弟のことは聞いていなかったが、弟が居ると聞いて妙に納得していた。 あのお転婆は、男兄弟がいなければ養われないだろうから。 「ところで、守は元気にしてるか?」 「はい。私もベルリンに行っておりまして伯父には暫く会っておりませんが、去年クリスマス休暇にニューヨークへ戻った時は元気にしていましたよ」 「そうか、あいつも本部の長官なんてものになったから、大変だろうけどな」 「そうですね。警視総監には早くニューヨークに戻って来て欲しいと、電話でもよく話しています」 ───長官?長官って誰だよ。まさか、警察庁長官のことじゃないだろうな。でも確か、日本人がなってるとは聞いていたけど…。 一輝と加納は、目の前で繰り広げられているものすごい会話にとてもついていくことができなかった。 「ところで恵、ボスにはもう会ったのか?」 「いえ、警視総監に挨拶を済ませてから伺おうと思っておりましたので」 ───柿本警視総監も、アラン副総監のことをボスって呼ぶのか? 前もって一輝は恵に聞いていたが、加納はなんのことかさっぱりわかっていないようだった。 「あいつ、拗ねるだろうな。自分より先に恵が、俺のところに挨拶に来たってさ」 あははと柿本は、高らかに笑う。 「じゃあ恵はまだどうしてここへ呼ばれたか、まだ聞いていないんだな」 「はい」 恵も補佐官の二人も、さっきとは違う柿本の話し方に少し緊張を覚えていた。 「少し厄介なことになっていてな、どうしても恵の力が必要なんだ。あいつの力になって欲しい」 なんとなく、恵もわかっていた。 自分がなぜ、急に東京に呼ばれたのか…。 言いようのない不安が心に宿っていたが、それとは裏腹に自分が期待されているという誇りを胸に新たな闘志を燃やす恵だった。 「はい。わかりました」 「ところで、もうお母さんには会ったのかい?」 それまで、凛とした態度で臨んでいた恵の顔色が少しだけ曇った。 「恵の気持ちもわかるがせっかく日本に帰って来たんだ、元気な姿を見せに行ったらどうだ?」 その質問にはニッコリ笑って答えるだけで、恵は明確な意思表示は敢えて避ける形を取った。 それが一輝にも薄々感じられたが、柿本もそれ以上は何も言わなかった。 ※ このお話はフィクションです。実在の人物・団体とは、一切関係ありません。作品内容への批判・苦情・意見等は、ご遠慮下さい。
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