![]() * 擬似恋愛 * <3> ───言っちゃった。 『好き』って…。 言わないつもりだった、だから彼とのペアも代えてもらった、それなのに…。 今度こそ、もうリュウジさんとは無理。 稟花は小さく溜め息を吐くと、教科書に視線を移した。 榊 凪菜(サカキ ナギナ)、これが稟花の本当の名である。 お嬢様が多く通うことで有名な名門桜花女子大学の3年生で、凪菜もその例外ではない。 父親は官僚で母親は専業主婦、兄が二人いるがいずれも上級公務員試験に合格したキャリア組。 そんな何不自由なく暮らしていたはずの凪菜が、なぜAV業界に足を踏み入れることになったのか。 両親だって一人娘の凪菜が可愛くないはずがなく、溺愛したあまり、彼女を狭い籠の中に閉じ込めてしまう。 普通にみんながしていることが、凪菜にはできない。 四六時中監視されて居場所を失った凪菜は、どうにでもなれという気持ちでこの業界に飛び込んだ。 おとなしいと思っていた自分のどこに、こんな強さを秘めていたのか…。 何だって良かった、自分が自分でなくなれば…。 決して家族に迷惑を掛けるつもりで選んだわけではないが、もしAV女優をやっていることが耳に入れば、ただでは済まないだろうことも。 ◇ ───やっぱり、辞めよう。 市野さんには迷惑掛けて申し訳ないと思うけど、これがいい機会なんだわ。 普段の凪菜は、至って真面目な女子大生。 合コンに誘われても絶対行かないし、年頃の女の子がするようなおしゃれもしない。 はっきり言っておもしろくない子、それが周りの人が思っている凪菜の印象だろう。 だからこそ、演じている時だけは別の自分になれたのだ。 そして、好きな彼にはまるで恋人同士のように抱かれる。 幸せだった。 どんなに世間では冷たい目で見られても、AV女優という仕事が凪菜を強い人間に変えてくれたのだから。 「市野さんにお話があるんです」 今日は、撮影が入っていない。 話したいことがあるからと事務所に訪れた凪菜に市野は一抹の不安を感じたが、それを悟られないように明るく返す。 「どうしたの?稟花ちゃん。そんな真剣な顔して」 「申し訳ないんですけど───」 「まさか、辞めるなんて言わないわよね?」 「えっ…」 凪菜の言葉を遮るように市野が言葉を挟む。 言おうとしていたことを先に言われてしまった彼女は、驚いた表情でその後が続かない。 「ダメよ。最低でも、あと5本は撮ってもらわないと」 「え、5本?そんな…」 簡単に辞めさせてもらえるとは思わなかったが、あと5本はきつい。 その相手がリュウジであっても、なくても…。 「もちろん、リュウジさんと。でなきゃ、あたしは認めないわよ。この前、聞いた時に稟花ちゃん辞めないってはっきり言ったわよね?」 「でも…」 彼に好きという気持ちを告げてしまった今、ペアを組むことは凪菜にはできそうにない。 体を合わせてしまえば、好きという気持ちがどんどん大きくなる。 市野の言い分もわからないでもないが、これ以上は自身が辛いのだ。 「お願い、稟花ちゃん。5本だけ、ね?うちも今、稟花ちゃんに抜けられると困るのよ」 全く経験のない凪菜を受け入れてくれた市野に頼まれれば、嫌とは言えなくなってしまう。 ───あと、5本…。 辛いけど、その間は彼の恋人でいられる。 なら…。 「わかりました。でも、本当にあと5本だけって、約束していただけますか?」 「もちろん。盛大なラストを飾ってもらえるよう、社長に頼んでおくわ」 「いっ、いいですよ。私は、ひっそりと去りたいんです」 「ダメよ、ファンが許さないわ」 「まっ、こっちもそうしてもらうと売り上げが伸びるからなんだけど」と話す市野は、これが本音なのだろう。 しかし、それだけではない。 恐らく、リュウジも稟花が突然辞めたと知ったら悲しむに違いない、だからあと5本などという注文を付けたのだ。 その間にお互いの気持ちが通じたら…。 そう願いたい。 +++ 彼女に『好き』と言われて、正直ものすごく嬉しい自分がいるのは確かだった。 一度だって、演技で抱いた女性を好きになることなどなかったのに…。 気になる存在だった、でも…。 リュウジは自分で言わせておきながら、彼女の告白にひどく動揺していた。 「市野さん、どうしたんですか?いきなり」 「あっ、リュウジさんごめんなさい。忙しいところ、呼び出して。ちょっと話しておきたいことがあって」 突然、市野に呼び出されたリュウジは約束のコーヒーショップに入ると彼女を見つけるなりの第一声。 こんなふうに事務所以外で二人が会うことはなかったが、余程のことがあったのか? 「話とは」 「稟花ちゃんのことなんだけど」 「稟花ちゃん?」 彼女の名を出されて、リュウジは敏感に反応してしまう。 しかし、彼女がどうしたというのだろう? 「辞めたいって言われて」 「えっ?」 前々からそんな話は聞いていたが、今度こそ本当に辞めてしまうのか。 それは、もしかしてリュウジが彼女に言わせてしまったせい。 だとしたら…。 「理由は聞いていないんだけど、なんとかあと5本撮ってもらうことで了承したわ」 「そうですか」 「もちろん、ラストまでの相手はリュウジさんだから。それを話しておきたくて」 「俺ですか?」 リュウジは、市野の瞳を真っ直ぐに見つめる。 彼女は稟花の気持ちを知っているからこそ、こうしてわざわざ言いに来てくれたのだろう。 そして、同時にリュウジの気持ちにも気付いているから。 「好きなんでしょ?稟花ちゃんのこと」 「え?」 「厳密には好きになった、かな?」 「さすが、市野さんですね。俺、彼女のことは気になってはいたんですけど、演技でした相手を好きになるってことはないって思ってました。でもこの前、彼女に好きって言われて。っていうか、それは俺が言わせたんですが」 稟花がリュウジに好きと言ったことを市野も今初めて知ったが、彼女が辞めたいと言った理由がはっきりわかった気がした。 なら、二人が本当に結ばれるのはそう遠くない話かもしれない。 「そうなの?だったら、あたしが焦る心配もなかったわけね」 「いえ。市野さんのおかげで、また彼女と逢えます。そうでなかったら、きっと顔を合わせずに彼女は俺の前からいなくなってしまったでしょうから」 市野が気を利かせてくれなければ、もう彼女には逢えなかったかもしれない。 そうなれば、気持ちを言うことさえできなかった。 「ということは、リュウジさんもあと5本でお別れってことになっちゃうのかしら」 想いが通じ合ったら、この仕事を続けるのは難しくなる。 人気俳優がいっぺんに二人もいなくなると市野の事務所も厳しくなるが、また新しい人材を探すしかないだろう。 「すみません」 「いいのよ?ただし、ラストまでう~んっと稼いでもらうから」 「わかりました」 笑いながら、リュウジは思う。 …さぁ、どうやって彼女に想いの全てを伝えよう。 ※ このお話はフィクションです。実在の人物・団体とは、一切関係ありません。作品内容への批判・苦情・意見等は、ご遠慮下さい。
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