「森永君、来月から右京常務が赴任するからよろしく頼むよ」
朝、会社に出社するなり秘書課の高木課長に呼ばれた梨華は、来月から就任予定の常務の名を初めて聞かされた。
右京というのは、この会社、右京コーポレーション社長の息子、右京 崇(うきょう たかし)のこと。
現常務の任期満了に伴い、ニューヨーク支社から呼び戻されてここ東京本社に来るらしい。
今回の臨時取締役会で、正式に決まったいうことだ。
噂では、崇(たかし)はまだ若いという理由から谷口本部長が昇格するのではと囁かれていたのだが、会社の若返りを図りたいと常々言っていた社長が息子を押したのだろう。
崇(たかし)は29歳、同僚の話によるとまだ独身とのこと。
まぁ、梨華にはどうでもいいことなのだけど…。
崇(たかし)の常務就任という話はあっという間に社内に広まり、梨華は秘書仲間から羨望の眼差しで見られるのだが、当の本人は至って関係ないという様子だった。
と言うのも、梨華は銀縁眼鏡に今時珍しい黒髪を1つに束ねて化粧も最小限しかしない。
とにかく、女っ気というものがまるでないのだ。
だから、男に対しても特に興味がなかったし、相手がどんな人であっても梨華にはどうでもよかった。
それから数日後のある日、梨華が会社から帰ると珍しく父が先に帰宅していた。
「ただ今、帰りました。お父様、今日は早いんですね」
父はソファーに座って夕刊に目を通しているところだったが、梨華が声を掛けると眼鏡を少しずらして微笑んだ。
「あぁ、梨華。お帰り。午後から取引先で打ち合わせがあったんだが、早く終わったのでそのまま帰って来たんだよ」
いつも帰りがそんなに遅いわけではないが、梨華が帰宅するより以前に帰って来ることはごくまれなことだった。
「そう言えば、今度常務は崇(たかし)君になるそうだな」
「お父様は、常務のことを知っているの?」
「そりゃあ、知っているよ。まぁ、父さんが会ったのは彼が小さい時だけどな。右京のやつ、やっと息子を呼び戻す口実ができたって嬉しそうに電話を掛けてきたよ」
父と右京コーポレーションの右京社長とは大学時代からの親友で、その縁もあって梨華は秘書として雇ってもらっていたのだ。
「お父様、右京社長は私のことを常務には言っていないでしょうね」
「大丈夫。それは、言わない約束だからな」
梨華はホっと胸を撫で下ろすと、着替えるために2階の自室へと足を向けた。
+++
「ねえ、今度の常務すごくいい男なんでしょう?梨華はいいな」
同じ秘書課に所属している一年先輩の羽山 嘉葉(はやま かずは)が、お昼に社員食堂で一緒にご飯を食べている時に羨ましそうに梨華を見て言う。
「そうかな?私は、寺崎常務が好きだったのに」
「梨華って面白いわよね。若い男よりも、おじいちゃんの方がいいなんて」
「そこが梨華らしいところだけどね」と嘉葉(かずは)は、ふっと笑みを浮かべてお茶を飲んた。
嘉葉(かずは)は専務秘書をしているが、綺麗でしっかりしていて社内のお嫁さん候補No.1に選ばれているくらい素敵な人なのだ。
なのに特定の彼氏はいないというのが、摩訶不思議な話である。
秘書なんて憧れの職業っぽい感じがするけれど、実際は我侭なお偉いさんの相手をしなければならないし、若い男性との出会いなんてほとんどないわけで、梨華を含めて寂しい日々を過ごしている人が実際は多いのかもしれない。
「そういうわけじゃないけど、社長の息子なんて何か気が引けるんだもの」
単に若いだけならまだ許せるが、なにせ相手は社長の息子、一筋縄ではいかないような気がするのは梨華だけだろうか?
「そうよね。我侭言い放題とかだったら、最悪よね」
どうしてもイメージ的に社長の息子と言えば、お高く留まっていて何でも自分の思い通りになると思ってる。
そんなふうに考えてしまう。
梨華は、人知れず溜め息を吐いていた。
それから慌しく寺崎常務は去って行ったが、やはり最後の別れで梨華は感極まって涙してしまった。
しかし、悲しみに浸っている時間もなく明日からは新常務がやって来る。
梨華は気持ちを切り替えて、右京常務が寺崎常務のような人であればいいと願わずにはいられなかった。
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梨華は、いつもより早く出社して新常務を迎える準備をしていた。
アメリカ暮らしが長いと聞いているので日本のやり方が通用するのかどうかという不安もあったが、今更どう足掻いても遅いわけで、梨華は敢えて今までのスタイルを変えないことにした。
ほどなくして、秘書課長の高木の案内で新常務である右京 崇(うきょう たかし)が常務室に現れた。
「本日から常務の秘書を務めます。森永君です」
「森永と申します。よろしくお願いします」
高木課長の紹介の後、梨華が挨拶をすると崇(たかし)は「こちらこそ、よろしく頼むよ」とニッコリと微笑んだ。
崇(たかし)は長身で男っぽいというよりは甘いマスクで評判通りのいい男、何より持って生まれた育ちの良さというようなものが滲み出ているように思う。
どんな男性に対しても絶対に怯まない梨華でさえもクラっといってしまいそうだったから、一般的な女性なら悩殺ものだろう。
そして予想に反して崇(たかし)はお高く留まっていることもなく我侭でもない、逆にそれは梨華の仕事だというものまでも自分でやろうとしてしまい、困惑するばかり。
梨華がこれは秘書の仕事だからと言っても、アメリカでは自分でやっていたからつい癖でとこれまたニッコリと返されてしまう。
―――これじゃあ、私はいらないんじゃないの?って思ってしまう。
何か、調子狂うわ…。
「右京常務は、どう?」
崇(たかし)が来てちょうど一週間が過ぎたが、久し振りに定時後に嘉葉(かずは)と新しくできたフレンチのお店に夕飯を食べに来ていた。
ワインを堪能する間もなく、話題といえば、まずこの件以外にはないだろう。
「うん、それがね。私なんかいらないんじゃないかってくらい、何でも自分でやっちゃうのよ」
「そうなの?まぁ、でも良かったじゃない。我侭、息子じゃなくて」
確かに我侭息子じゃなくて良かったとは思うけれど、何かが違う…。
秘書には秘書の役割というものがあるわけで、単なる腰掛OL扱いされるのは嫌なのだ。
彼の場合、今まで自分でやっていたからついという気持ちもわからないでもないが、もう少し梨華に任せて欲しいし、頼って欲しい。
それをどうしたら、理解してもらえるのだろう?
「でも、このままだったら私の仕事がなくなりそう」
「梨華は頑張り過ぎなの。調子に乗って、何でもかんでも押し付けてくるよりは、やってくれるものはやらせて楽すればいいのよ」
レモンを絞ったプリップリの生牡蠣をフォークで殻から取り出して口にする嘉葉(かずは)の幸せそうな表情を見ていると、『はい』って言ってしまいそうになる自分がいる。
だけど…。
やっぱり、思ってることをちゃんと言ってみよう。
このままじゃ、働く意味もなくなってしまうから。
梨華はワインを一口含むと、そう心に決めたのだった。
※ このお話はフィクションです。実在の人物・団体とは、一切関係ありません。作品内容への批判・苦情・意見等は、ご遠慮下さい。
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