Intersection
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「おはようございます、常務。本日の予定ですが―――」
「あぁ、おはよう。経営会議は、10時からだったね」
「はっ、はい。場所なんですが、第一会議室は―――」

言おうとしていたことを先に言われて、慌てて言葉を続ける梨華だったが…。

「第二会議室に変更、第一会議室は空調の故障で午後に修理に来ると聞いてるけど」

いつもなら経営会議は役員専用の会議室の中で一番大きい第一会議室で行うのだが、数日前から空調の調子が悪く、午後に業者が修理に来るという通達がイントラネットの総務通達欄に載ってはいたけれど、それを常務自身がわざわざ見ているというのには驚きだ。
しかし…。

―――はぁ、知っててもそこまで言わなくたって…。
一応、確認の意味で報告してるんだから、私に言わせてくれもいいじゃない。
そんな毒舌を吐きながら、ちらっとファッションチェックをしてみれば、淡いストライプのネクタイにカラーを合わせたワイシャツは綺麗にプレスされている。
袖には何かの顔なのか、妙に愛らしくデザインされたカフスがさり気なく遊び心を感じさせ、手元はステンレスとは違う輝きの時計がキラリと光っていた。
―――良い物を身に付けてるし、センスがいいのも認めるけど、この細かさはどうなのかしら?
さぞかし彼女も大変よね、こんな隙のない人だと。
将来社長になる人なのだから許婚?今時古いかもしれないが、きっと決まった人がいるに違いない。
そんな梨華の心の声を知ってか知らずか、目の前の若き常務は朝っぱらから最上級の笑みを浮かべながらも、もういいから早く出て行ってくれと言わんばかりにノートパソコンの画面を食い入るように見つめている。

「では、失礼致します」
「ちょっと」

出て行こうとする梨華を、なぜか崇(たかし)が引き止める。
―――さっきのとっとと出て行ってくれオーラは、何だったのかしら?

「はい、何でしょうか」
「コーヒーを入れてくれないかな。とびっきり濃いやつを頼むよ」

「昨晩は遅くて、会議で寝るわけにもいかないからね」と絶対にあり得ないようなことを口にして目頭を指で押さえる崇(たかし)に『嘘ばっかり、家でも仕事してたんじゃないの?』と言葉にならない言葉を投げかけると「わかりました。すぐにお持ちいたします」と梨華は静かに部屋を出て行った。

―――私の仕事は、コーヒーを入れるだけなの?
誰もいない給湯室で、知らず知らずのうちに何度も溜息を吐いていた梨華。
それでも、仕える上司の頼みとあれば手を抜くわけにもいかず、たった一杯のコーヒーのためにコーヒーメーカーを使わずにお湯を沸かしてドリップで入れる。
前常務の時から、これだけは梨華のこだわりだった。
コーヒーにお湯を注ぎ蒸らしている間、思い浮かべる現上司の姿は若くて素敵だし話し方も砕けた感じで距離が近いように感じるが、実際はものすごく遠い存在のように思えるのはなぜだろう。

あの人とは、絶対に交わらない。

いつまでも平行線のまま、梨華には永久に交じり合うことのない道のような気がしてならなかった。



『森永さん、来てくれないかな』
「はい、すぐに伺います」

本日、初めてのコールに梨華はウキウキしながら常務室へ急ぐ。
といっても、すぐ隣の部屋にいるからそんなに急ぐ必要もないのだが、必要とされることがこんなにも嬉しいものなのかと認識を新たにさせられた。

「失礼します」

ドアをノックして中へ入ると崇〈たかし)は、朝と同じようにパソコンの画面に向かったまま。

「この書類を至急社長のところへ持って行って欲しいんだけど。今、電話で伝えておいたから」
「はい、わかりました」

弾んだ気持ちも、一気に萎んでしまう。
時間にしてほんの十数秒、何もかも手筈は整っていて、梨華の出番は持って行くということだけ。
―――これも仕事のうちだとはいえ、たったこれだけなんて…。
これなら、我侭放題言われた方がまだ良かったかも。

前・寺崎常務の時はデータを纏めたり、自社のPR資料を作成したりと日々忙しかった。
それは決して前常務が楽をしていたわけではなく梨華にできることを任せていただけで、彼女が有能な人材だということをちゃんと見抜いていた結果。
梨華が前常務を好きだったのには、そういう理由もあったのだ。

社長のところへ頼まれた書類を持って行くと、急ぎということだけあって待っていたのだろう。
「ありがとう」と梨華に礼を言うや否や内容を一通り確認し、すぐにどこかに電話を掛け始めた。

去り際にちらっとその姿を見て、どこに行っても自分の居場所がないような…誰もそんなふうに思ってなんかいないはずなのに…。
その足で梨華は自分の席には戻らず、再び常務室を訪ねた。

ドアを数回ノックすると中から「どうぞ」という低い声が聞こえ、「失礼します」と梨華は一歩中へ入る。

「さっきの書類、社長には渡してくれたかな?」
「はい。―――あの、常務」

一度視線を落とし掛けた崇(たかし)は、梨華に視線を戻す。
穏やかな表情ではあったが、何か人を受け入れないというようにも思える。

「何かな?」
「私にも、もう少し仕事をさせていただけませんか?今日はコーヒーを入れて、先程社長に書類を届けただけです。ずっとこんな毎日で、私は何をするために会社に来ているのでしょう。常務にお話することではないことは、十分わかっているのですが―――」

こんなことを常務に面と向かって言うことではないとわかっている。
仕事の話なら秘書課長を通すようにという答えが返ってくることも十分承知の上、嫌なら辞めてもらって結構くらいの言葉が出てくるかもしれない。
でも、梨華の性格からそんな回りくどいことを言ってはいられなかった。
自分が納得する答えを得るためには、直接本人に聞くしかないのだから。

暫くの間、二人は見詰め合っていたが、先に視線を外したのは崇(たかし)の方だった。

「君も損な性格だな」
「え?」

それは、どういう…。

「僕は何でも自分でやる性格だから、だったらやらせておけばいいんだ。空いた時間は君の好きにすればいいし、えっと勘違いしないで欲しいのは遊んでいてもいいというのではなく、スキルアップでも何でもあるだろう?だからといって、秘書がいないというのはこちらも困るんでね」

崇(たかし)の意外な言葉に梨華は少々拍子抜け、『やってくれるものはやらせて楽すればいいのよ』と言っていたのは嘉葉(かずは)だが、まさかこんなふうに思っていたなんて…。
相手が梨華だからということではなく、きっとどんなに有能な秘書が就いてもこの人は全部自分でやってしまうのだろう。

「そういう勉強でしたら、勤務時間外にやっていますので。私は、仕事がしたいんです」

―――言われなくても、スキルアップのための勉強なら家でやってるわよ。
そりゃぁ、会社で時間があるならとは思うけど、私は仕事がしたいのに。
父に無理言って勤めさせてもらったのは、仕事のデキル女性になりたかったから。

「なるほどね。だから、あれだけのすごい資格を持ってるんだ」

大きな椅子の背凭れに深く寄り掛かるようにして話す崇(たかし)だったが、本社に異動する前に梨華のことはしっかり聞いていた。
逆にここにいることの方がもったいないのではないかというほどの資格の数々。
なら、どうして…。

「ご存知なら、どうして」
「気に入ったよ」
「え?」

―――この人とは、会話までも噛み合わないのかしら…。
それはこの際、構わないけれど、一体何が気に入ったというのだろう?

「じゃあ、これを1時間以内に英文にしてくれないか?」

いきなり手渡されたのは、A4サイズで10枚ほどのびっしりと書かれた…契約書?!
―――こんな重要なものを1時間以内に英文に?
からかっているのだろうか、それとも…。

デスクに頬杖を付いて、ジッと梨華を見つめる崇(たかし)。
その目は、今までに見たことがないくらい真剣だ。

「やる、やらない。それは、君次第だけど」
「わかりました。やります」

即答した梨華に崇(たかし)は黙って頷くとその書類を手渡す。
それを受け取り部屋を出る時の梨華の表情に崇(たかし)は生まれて一度も感じたことのないそれが何なのかすらわからないような思いに駆られ、そして梨華は体がゾクゾクっとするような感覚に…。

ドアの閉まる音、その内と外では互いに別々の思いを胸に抱いていた。


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