タイムリミットは、1時間―――。
とにかく、これで梨華の行く末は決まってしまう。
適当な雑用とコーヒーを入れるだけの日々を送るのか、それとも、バリバリと仕事をこなすデキル女性として常務の右腕になれるのか。
現状、梨華の置かれた立場では、せっかく身に付けた資格も、この会社以外で発揮することはまず不可能と言っていい。
試されていることはわかっているけれど、自分で言った以上、こうなったら何が何でもやるしかないのだ。
「ヨシっ」と自分に気合を入れて、時間はないが契約書の隅々に丁寧に目を通すと梨華はパソコンの画面に向かう。
誰もいない部屋、規則正しくキーを打つ音だけが響いていた。
◇
「いかがでしょうか」
きっかり1時間で契約書を英文に訳し終え、もちろんそれなりに自信もあったが、最終的に判断するのは崇(たかし)であって首を横に振られた瞬間、万事休す。
その時はその時、梨華に能力がなかったのだと潔く退散するしかない。
崇(たかし)は書類をペラペラと捲りながら流すように読んでいたが、それはまるで初めから梨華の訳したものなど見る価値もないと言っている様にさえ思える。
―――ダメだったのかな…。
さっきまでの自信もどこへやら、もうダメならダメで早く結論を言って欲しい。
受験すらまともに経験していない梨華には、この重圧に今にも押し潰されてしまいそうなほど苦しかった。
「常務」
痺れを切らした梨華に向かって、崇(たかし)はもったいぶったように微笑む。
その微笑の意味は、何なのか…。
「完璧だ。見事としか言いようがないな」
「・・・・・」
一瞬、何と言われたのか理解できないほど、梨華は予期せぬ崇(たかし)の言葉に放心状態だ。
―――え?今、完璧だとかなんとか…。
でも、聞き間違いかもしれないし…。
あんな、適当に読んでいるようにしか見えなかったのに…おかしいわよね。
「正式な契約書として、用意しておいてくれないか」
「来週には契約を交わす予定だから」と話す崇(たかし)だったが、梨華の表情は険しいまま。
「どうした。その顔はあんまり、嬉しそうじゃないみたいだな」
「あの…」
「ん?」
「それで、良かったのでしょうか?」
「君らしくもないな。聞いてなかったのかな?」
「いえ、常務の様子からはそういうふうには見えませんでしたので」
信じられないという様子の梨華、あれほど強気で出たはずなのにこういうところがまだまだなのかもしれないが、変に鼻に掛けられるよりも崇(たかし)にとってみればある意味新鮮だった。
それよりも、彼女の並外れた語学力と完璧な仕事にはニューヨークに長くいた崇(たかし)でさえ、驚いたくらいだ。
はっきり言って期待などしていなかったし、情けを掛けるよりは早く気付かせた方が本人のためだと思ったが。
それがどうだろう、いとも簡単にやってのけた彼女に対し、素直に拍手を贈るべきだろう。
「ダテに常務なんか、やってるつもりはないんでね。一目見れば、良いか悪いかなんてすぐにわかるさ」
「すみません。失礼なことを言ってしまって」
―――そうよね。
この若さで常務だもの。
いくら社長の息子だって、実力がなければこんな地位に就けるはずがない。
やはり、彼は一枚も二枚も上手だということを見せ付けられたような気がした。
「後は頼んだから」
「はい、わかりました」
「それと、これからは君にできると思うものは全て任せる。やると言ったからには、できませんという言葉は受け付けないから。そのつもりで」
認められたという嬉しさと、彼の言うように今度からは重責も伴うことになるだろう。
今までのように、全て受身というわけにもいかない。
自ら望んだことなのだから、逃げは許されないことを肝に命じなければ。
「はい。では、失礼します」
身の引き締まる思いで部屋を出ようとする梨華を「あっ」と崇(たかし)が呼び止めた。
「あのさ、コーヒー入れてくれないかな。そうだな、少し薄めで頼むよ。いつも我侭、言って悪いんだけど」
「いえ、わかりました。すぐにお持ちします」
いつものようにコーヒーを頼まれただけなのに、なぜか今は特別なことのように感じられる。
昨日とは違う自分、そして交わりそうにないと思っていた常務との関係も少しだけ近付いたように思えた。
+++
「梨華、その様子じゃ帰れないわよね」
嘉葉(かずは)が定時後に梨華の元へ珍しくやって来たが、真剣な表情でパソコンの画面に向かっていた彼女の返事を待たずに自己完結。
最近の梨華といえば、定時で帰れる日はほとんどないくらいに毎晩遅くまで残業していた。
もちろん、上司はそれ以上に仕事をしているわけだが、そんなことは全く苦にならないほど充実した日々を過ごしていたと思う。
さすがにこれは梨華には無理なんじゃないかということも崇(たかし)は頼んでくるが、それをわかっていてさり気なくフォローしてくれるあたりはさすがというしかない。
二人でいる時間が楽しかった。
恋らしい恋などしたことがない梨華には、彼に対しての思いが何なのか、この時はわからなかったけれど。
「うん。まだ、終わらなくて」
「そっか。美味しいものでも食べに行こうと思ったんだけど、また今度にするわ」
「ごめんね」
「ううん。でもさぁ、全部自分でやっちゃうって言ってた常務がどうしたわけ?やっぱり、我侭言い放題だったとか?」
自ら仕事をさせて欲しいと懇願したことは、つい言いそびれて嘉葉(かずは)には話していなかった。
言ったら、『どうして、そんな面倒なこと言ったりするのよ。楽できるなら、それに越したことなんてないのに』という返事が返ってきそう。
ふと思い浮かんだ、『君も損な性格だな』と言っていた崇(たかし)と同じかもしれない。
「そんなことないわよ。常務は相変わらず自分でやっちゃうけど、私にもできることはさせてもらっているだけ」
「梨華が生き生きしてる姿を見るのは悪くないけど、無理して体だけは壊さないでね」
「ありがとう」
「じゃあ、お邪魔虫はとっとと帰るわね。頑張ってね」と嘉葉(かずは)は小さく手を振って出て行った。
再び静かな部屋にキーを打つ音だけが響いていたが、梨華は休憩にとコーヒーを入れに席を立つ。
―――そう言えば、常務って私の入れるコーヒーを美味しいって言ってくれないんだけど、美味しくないのかしら。
こだわって入れているはずなのに、欲しいこの言葉だけは返ってこない。
まぁ、いいけどっ。
「おっ、いい匂い。俺の分も、ついでに入れてくれないかな」
「じょ、常務っ」
思わずどもってしまったのは、崇(たかし)のことを考えていたのと、まさか給湯室に入ってくるとは思わなかったから。
―――それに今“俺”って、言った?
普段は“僕”という常務が、何だかいつもと違う。
「わかりました。すぐ入れてお持ちしますので」
「いや、ここでいいよ」
―――え?ここでって…。
心の中で慌てふためいている梨華を他所に「ほう、こうやって入れてたんだ」と崇(たかし)は、じっとドリップされているコーヒーを見つめている。
いつもある一定の距離を置いて話をしている二人が、こんなに近くにいるのは初めてだった。
この年代の男性とはほとんど関わることもなかったし、自ら関わることを避けてきた梨華にとって、言葉にできない妙な感覚。
「あのさ、俺もあと1時間くらいでキリがつくと思うんだけど、その後食事でもどう?」
「は?しょ、食事で…すか?!」
目をまん丸に見開く梨華。
突然の誘いに固まったまま、暫く動くことができなかった。
※ このお話はフィクションです。実在の人物・団体とは、一切関係ありません。作品内容への批判・苦情・意見等は、ご遠慮下さい。
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