はぁ―――。
今日、何回目の溜め息だろう…。
数え切れないほど、さっきから溜め息を吐きまくっていた梨華。
せっかく一人前に仕事も任されるようになって、充実した日々を送っていたはずなのにだったらどうして…。
考え事をしていると、何かの規則正しい音が耳に入ってきて段々はっきり聞こえてくる。
―――うわっ、電話!
ワンコールで電話に出るという決まりになっているのに、既に何回呼び出し音が鳴ったのだろう。
「大変、お待たせいたしました。森永ですが」
『ちょっと、来てくれないか』
慌てて出たが、常務の声はやっぱりいつもと違うように思えるのは気のせいなのか…。
「はっ、はい。すぐに伺います」
―――あぁ…私ったら、何ボーっとしてるのよ。
頬を両手でパンパンッと叩いて、梨華は常務室のドアをノックする。
「この資料を基にデータを纏めて欲しいんだ。急ぎで悪いんだけど、今日中に頼むよ」
崇(たかし)に手渡されたのは、またまた溜め息が出てしまいそうになるほど分厚い資料。
それを今日中に纏めろと言うのは無謀だと思うが、彼だってそこはきちんとわかって梨華に頼んでいるのだから文句も言えない。
「はい、わかりました」
そのまま部屋を出ようとした梨華だったが、去り際にふと足を止めた。
「あの、常務」
「何か?」
「昨日は、お断りしてすみませんでした」
昨日の定時後、崇(たかし)に食事に誘われたのだが、反射的に断ってしまった。
それも、かなり本気で…。
梨華のようにおしゃれっ気も何もない女性を下心があって誘っているとは到底思えなかったし、上司という立場でそう言ったはずだとわかっていながら拒んでしまった。
さっきから吐いている溜め息の理由は、これが原因だったのだ。
「そんなことを気にしていたのか?」
とは言いつつも、崇(たかし)とて正直あんなふうに断られたのは初めてだったし、凹まなかったと言ったら嘘になるかもしれない。
別に自分がいい男だとは全く思わないにしても、あそこまで…。
一人で家に帰ってもわびしいだけ、縁あって一緒に仕事をするようになったのだから、少しは砕けた話なんかもしながら食事をしたって罰は当たらないだろう。
「気を悪くされたのではないかと思いまして」
「はっきり言う女性は嫌いじゃないから。まぁ、時間を掛けて君を口説くことにするよ」
「えっ」
―――口説くって…。
そんな困った表情の梨華を他所にまるでゲームでも楽しむような様子の崇(たかし)だったが、彼だってそう簡単にいくとは思っていない。
手強い相手ほど、燃えるのは職業病なのか…。
「そうだ、今のうちに言っておこう。来週の江上商事会長と社長の就任パーティーには、君にも同伴してもらうから」
「え…私もですか?」
江上商事は重要な取引先で、最近社長が会長に、そしてその息子の専務が社長にと世代交代したばかりだった。
しかし、そんなパーティーになど秘書の梨華が付いて行くことはまずない。
「何か、問題でも」
「いえ、そういうわけでは…。私のような者が、大事な取引先のパーティに出席するというのはどうかと」
「たまには、いいだろう?」
「はぁ」
上司の命令には、今の梨華も逆らえない。
できればパーティーなどという人の多いところへ出たくはないが、こればかりは仕方がない。
気が重かったが、それよりも目の前の仕事を先に片付けなければ。
気持ちを切り替えて、「失礼します」と部屋を後にした。
+++
「ねぇ、もう少し何とかならなかったの?」
「せめて、その眼鏡と髪型くらい」と半ば呆れ顔の嘉葉(かずは)だったが、やっぱりこういうところも梨華らしいのだと思ってしまう。
パーティーだというのに黒いスーツに銀縁眼鏡、化粧だけはいつもよりしている方だと思うが、今時珍しい黒髪を1つに束ねた姿は相変わらずだ。
「なら、嘉葉(かずは)が代わりに行ってくれない?」
「何、言ってるのよ。私は専務秘書なんだから、そういうわけにもいかないでしょ。いいじゃない、カッコいい上司の同伴なんだから楽しんでくれば」
「他人事だと思ってぇ」
大きく溜め息を吐く梨華を心の中では羨ましく思っていた嘉葉(かずは)。
仕事とはいえ、若くて素敵な上司とパーティーに一緒に行けるだけでも普通ならウキウキわくわく目一杯着飾って行くだろう。
「梨華もお年頃なんだし、いい男でも見つけてくれば?まっ、常務よりいい男なんて、いないと思うけど」
―――嘉葉(かずは)ったらぁ。
あぁ〜もう嫌、パーティーなんて。
からかうように言う嘉葉(かずは)をギロっと睨みつける梨華だったが、ものすごく気が重かった。
◇
場に慣れていないのだろう、まるで借りてきた猫のように押し黙っている梨華を見て、崇(たかし)はふっと笑みを浮かべる。
若い女性にしては珍しく地味だがそこもツボだったり、でなければこうして連れて来たりはしなかったはず。
ただでさえ、目立つ崇(たかし)に妙な噂でも立っては困るから。
「俺は江上会長と社長に挨拶してくるから、その辺で適当に待っていてくれないか」
「はい」
―――適当にって言われても…。
あーやっぱり、浮いてるわよねぇ私。
もうちょっと、明るめのスーツにするんだったかしら?
周りを見れば、大企業のパーティーとなれば梨華のように地味なスーツ姿の女性は一人もいない。
隅にでも退散しよう、足を向けようとした瞬間。
「梨華?」
突然、「どうしたんだよ。こんなところで」と聞き知った声で背後から名前を呼ばれ振り向くと、そこには長身の若い男性が…。
「巨哉(なおや)。えっ、どうして巨哉(なおや)がここに」
「それは、俺が聞いてるんだけど」
そこに立っていたのは、蒼井 巨哉(あおい なおや)。
梨華の幼馴染だったが、こんなところで偶然に会うとはお互い思わなかった。
「私は、常務のお供で来たの」
「しっかし、その格好はどうにかならないのかよ」
「ホテルの従業員かと思ったぞ」と上から下まで眺め回す巨哉(なおや)だったが、実はさっき、受付を済ませた後、崇(たかし)と一緒にいたにもかかわらず、知らない人から別の広間の場所を尋ねられたけれど…。
それでも、梨華とて黙ってはいない。
「いいでしょ。人がどんな服装しようと巨哉(なおや)に迷惑を掛けてるわけじゃないんだから」
確かにそうだが、何とかならないものか。
着飾ればもう少し、いや彼女の場合はそんなものでは済まされないだろうが、せめて服装くらい。
巨哉(なおや)は、通り掛った今度こそ本物のホテル従業員の女性が持っていたトレーからシャンパンの注がれたグラスを2つ取ると、「ほれ」と膨れっ面の梨華の前に差し出す。
「久し振りだし、乾杯でもするか」
「うん」
上手く誤魔化されたような気がしたが、一人でいるよりこの場で巨哉(なおや)がいてくれるのはずっと心強い。
カチンと合わせたグラスを口に含むと誰にも見せたことのない笑顔、そんな彼女を遠くから崇(たかし)が見つめていたなんて気付くはずもなかった。
※ このお話はフィクションです。実在の人物・団体とは、一切関係ありません。作品内容への批判・苦情・意見等は、ご遠慮下さい。
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