「あぁ、君が今度、俺の秘書になったっていう東城 香(とうじょう かおり)さんだね」
そう声を掛けられて香が振り返ると、そこに居たのは今まで一度も見たことがない男性だった。
上質なスーツに身を包んでいるもののネクタイを緩めてやや着崩した感じがワイルドで、なんといっても世の女性がこぞって好みそうないわゆるイイ男。
背は180cmを超えているだろう筋肉質な鍛え上げられた身体はどこかのモデルか何か?
そんな人がこのオフィスに居るはずがないし。
でも、この人は今、俺の秘書になったって言った!?
「失礼ですが、あなたは」
「聞いてないのか?俺は、今日付で副社長になった佐脇 健介(さわき けんすけ)」
えっ、副社長ですって?そんな話は一言も聞いてないわよ。
だいたい、こんなに若い人が副社長だなんて。
佐脇 健介って誰よ!!
「申し訳ありませんが、副社長の話は伺っておりませんが」
「まぁ、君が聞いていようと聞いてなかろうと関係ないんで。俺の部屋は奥だから、後でコーヒーを頼むよ」
「砂糖なし、濃い目で」俺の部屋って勝手に…不審者がいれば警備の人が見つけてすぐに対処するだろうし、この役員フロアまで入って来られるとは到底思えないけど。
それにしても、お父様は副社長の話なんて今朝も何も言っていなかったじゃない。
だけど、この人は私の名前を知っていたし、俺の秘書と言っていたわよね。
ということは、私はお父様の秘書じゃなくなってしまったの?
「ちょっと待って」
香は佐脇と名乗る男の後を追い掛けて、昨日まで空き部屋になっていた部屋に入って行った。
中は、いつの間に改装したのだろう?机もソファーも新しいものに変わっていた。
「あの、あなたは本当にこの会社の副社長なんでしょうか?もし、偽りを言っているのであれば警察に通報しますよ」
壁一面の窓の外を見つめる彼の背中は大きくて自信に充ち溢れていた。
「君には悪いが嘘は言ってない、正式に副社長に就任したんでね。信じられないようであれば、君のお父上にでも聞いてみたらどうだい?」
佐脇は顔だけこちらに向けると、勝ち誇ったように微笑んだ。
信じたくない事実だが、彼の言うことに間違いはないのだろう。
それにしたって、よりによってどうしてこんな男をお父様は副社長になんかしたのだろうか?それも、一人娘の私に一言も告げずに。
「さすがに東城の令嬢は、稀に見る美人だな。その美貌で何人の男を手玉に取ってきたのかな」
佐脇は軽い冗談のつもりで言ったのだが、言ってしまってからすぐに後悔しても時既に遅し。
ツカツカと大股で近寄って来たと思った瞬間、彼女の細くて美しい右手が彼の頬に飛んできた。
パシっという音と共に彼女の怒りに燃えた瞳、震える姿が見えた。
「あなたって人は。侮辱するにもほどがあります。恥を知りなさい」
香はきびすを返すと部屋を出て勢いよくドアを閉めた。
何が起こったのかすぐには理解できなかった佐脇はそっと頬に手をあてる。
俺に向かって、こんな態度に出た女性は初めてだな。
聞いてはいたものの、何不自由なく育った令嬢だとばかり思っていたがとんでもない。
しかし、あの華奢な身体で思いっきり引っ叩きやがった。
「おはよう。香さん、どうしたの?」
「顔を真っ赤にして」秘書課の先輩である吉崎が香の顔を見るなり、目を見開いている。
それもそのはず、日頃温厚で感情をむき出しにして興奮することなど滅多にない香が顔を真っ赤にして肩を揺らし唇を噛みしめているではないか。
「ど、どうしましょう…私…副社長を引っ叩いてしまいました」
は?引っ叩いた?香さんが!?
って、副社長って誰!?
何が起こったのかさっぱりわからないが、取り敢えず落ち着いてことの真相を聞くだけ聞くことにしよう。
お嬢様がこんなに取り乱した姿はそうそう見られるものじゃない。
「で、どうしたの?引っ叩いた理由があるんでしょ?」
「佐脇副社長が」
口に出すだけでも腸が煮え繰り返るが、だからといって引っ叩いていいということにはならないだろう。
冷静に考えてみれば、軽い冗談だっただけで香を試したのかもしれないし。
「何人の男を手玉に取ってきたのかと言われて、ついカっとなってしまいました」
「そんなことを言ったの?」
これは一種のセクハラ発言だ。
香でなくてもカっとなって当然だし、引っ叩いた彼女は決して間違ってなんかいない。
まぁ、その佐脇という副社長も香が社長令嬢だと知って言ったのだとしたら相当な大物に違いないが、一体どんな人物なのだろうか。
「あの、さっきは失礼なことを言って申し訳ない。決して、本気で言ったわけじゃないんだ。いや、タチの悪い冗談だった。許して欲しい」
そこに現れたのは現実に目にしたどの男性よりもセクシーで魅力的だったが、ほんのり左頬が赤くなっている。
この人が、香さんが引っ叩いたっていう副社長なの!?
「いえ、私こそ大人気ないことをしてしまいました」
香がさっきとは打って変わって申し訳なさそうに顔を下げたまま。
おしとやかで礼儀正しい彼女が取り乱すなんて余程のことだと思ったが、彼と並んで見るとなんて華やかでお似合いの二人なのだろうか。
その前にこの男性が佐脇副社長?
「社長室に行きたいんだが、連れて行ってくもらえるかな」
「はい、こちらです」香は気を取り直して、社長室へと彼を案内する。
どう対処していいかわからず、ずっと俯いたままの香だったが、佐脇副社長がこのことをお父様には言わないで欲しいと願ってしまう。
都合のいい話だと思うけれど…。
社長室の前で香と別れ、佐脇はノックをして中へ入ると待ってましたとばかりに社長は席を立って彼を迎えた。
「ようこそ、佐脇君。君が来るのを首を長くして待っていたよ」
固い握手を交わす二人、佐脇は尊敬する東城に頼まれてこの会社の副社長を引き受けたが、同時に娘の香との結婚も提案されていたのだ。
写真では見知っていた彼女だったが、実物は予想以上に美しく眩しくて、雑草育ちで成り上がりの佐脇にはあまりにかけ離れた相手だった。
ましてや、さっきは下品なことを言ってしまい、まさに自業自得、マイナスの評価しか与えていない。
「私のような者が副社長など、もったいない話です」
「それより、その顔はどうしたんだね」
「え…いえ、ちょっと」
ヤバい、まさか本当のことを話すわけにはいかないし。
佐脇は咄嗟のことでなんと言っていいか答えに迷っていたが、社長の方はそのことについてそれほど気にしている様子もなく話題を変えた。
「ところで、娘にはもう会ったのかな?」
「はい、先ほど」
「どうかな?君の印象は。私としては娘の香と佐脇君が一緒になってくれれば、これ以上のことはないんだが。なにせ、こればかりは二人の気持ち次第だから」
父としては香と佐脇の結婚を望んでいるのだが、このことを香はまだ知らない。
佐脇自身も形式で一緒になるつもりはないことを再三言ってきているので、二人の気持ちが一つにならなければどうにもならないのだ。
「わかっています。初対面ではありますが、私の気持ちは香さんに傾いていることだけはご報告しておきます」
「そうか。私も若い頃、あれ(妻)には一目惚れだったからな」
嬉しそうにほほ笑む社長を見ていると彼の望むように進んでいけばいいと思うが、果たして彼女は佐脇を受け入れるだろうか。
第一印象からして躓いてしまっただけに前途多難だ。
「私もそろそろ引退を考えているんでね。佐脇君には早いうちに経営を任せたいと思っているんだ。できれば、娘を幸せにしてもらいたいし、孫の顔も見たい。年寄りの我儘だとわかっているんだが」
「社長のお気持ちは重々理解しているつもりです。会社のことは安心して任せていただきたい。ただ、香さんのことは」
「わかっているよ。あの子は目に入れても痛くないほど可愛がってきたが、見かけに寄らず頑固で芯が強くてね。特に君のような男に対しては警戒心を持ったんじゃないかな」
父はちゃんと娘のことをわかっていたのだ。
一見、お嬢様でのほほんとしているように見えるのだが、実際は強い信念を持った女性。
敷いて言えば、一筋縄ではいかないということになるだろう。
特に女性と軽い付き合いしかしていなかった佐脇にしてみれば、手強い相手になるということは間違いない。
尊敬する社長の娘だから、ある意味政略結婚をほのめかされているが、佐脇はそれで彼女を欲しいと思ったわけではない。
一瞬にして本気にさせてしまったのだ。
あの一発で。
※ このお話はフィクションです。実在の人物・団体とは、一切関係ありません。作品内容への批判・苦情・意見等は、ご遠慮下さい。
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