「失礼します。コーヒーをお持ちいたしました」
本当なら二度と顔を会わせたくない相手だったが、ついさっき父である社長に確認して正式に佐脇副社長の秘書になったと聞かされたのだから覚悟を決めるしかない。
彼も謝ってくれたのだし、あのことは水に流して前へ進まなければ。
「ありがとう」
何事もなかったかのような二人だったが、香にはまだ彼が許してくれたとは思えなかった。
箱入り娘で小学校から大学まで女子校で過ごし、就職したのは父の会社で父の秘書が仕事、初めて見知らぬ、それも若い男性と共に仕事をするのだから、特に彼のような危険な男性には用心するに越したことはない。
「あの」
「なんだい?」
「まだ、顔が」
自分ではそんなに馬鹿力を出した覚えはこれっぽっちもないのに彼の頬は心なしかまだ赤い。
叩いた本人だってそれなりに痛いのだから、叩かれた方はもっと痛かったに違いない。
「これは俺が悪いんだから、君は何も気にすることはない」
「でも」
気にすることはないと言われても、やっぱり気にしてしまう。
生まれて初めて男性を引っ叩いたのだから。
「なら、今夜食事に付き合ってくれないか?」
「え?」
「これから少なからず君とやっていかなければならないんだし、わだかまりがあったままというのも」と言われても、すんなり受け入れられない自分もいた。
二人きりで食事なんて、何を話していいかわからないじゃない。
「何か、予定でも?」
「いえ、そういうわけでは」
いっそ、嘘を言ってしまった方が気が楽になれたかもしれない。
とはいっても、彼氏いない歴…の香にはデートの予定があるわけでもなく。
「だったら、問題ないな」
この話はこれで終わりと言わんばかりに佐脇はパソコンの画面に視線を移す。
あまりに事務的なその態度に香はまたカチンときたが、これ以上二人の関係を悪化させることを望んでいるわけでもないし、例え彼の言動に腹を立てたとは言っても手を出した自分が悪いのだから。
「わかりました」
「6時になったら出られるように準備しておいてくれ」
一度も視線を香に向けることなく、佐脇は受話器を取るとどこかへ電話を掛け始めた。
小さな声で「失礼します」と言うと香は部屋を出たが、思わずドアを蹴ってしまいそうになった自分に驚いた。
彼といると感情の制御が利かなくなってしまう、そんな今まで知らなかった自分が現れることも嫌だったし、それ以上に心を掻き乱されるのも嫌だった。
それより、お父様はどうして彼を副社長に選んだのだろうか?
引退するにはまだ早いと思いつつも、代々東城一族、それも直系の者が経営に携わってきたこの会社を一人娘の自分には受け継ぐだけの能力も備わってはいない。
せめて男に生まれていれば、多少は違ったのかもしれないけれど。
ということは、お父様は彼にこの会社を継がせようとしているのかしら?
でも、彼は東城家の一員ではないし…。
まさか、そんなことは。
あり得ないとは言い切れない。
香の知らないところで、何か重大なことが動き始めているのかもしれない。
「香さん、香さん?」
「どうしたの?そんなところでぼんやりして」吉崎が心配そうに見つめていた。
自分でも気付かないくらい長い時間、真剣な表情でそこに突っ立っていたようだ。
「いえ、何でも」
「ねぇ、ちょっといい?」
「はい」
「実はね」手招きする吉崎の後に付いて行くと、見せてくれたのは香が普段ほとんど目にすることのない週刊誌だった。
「見て、ここ」
彼女が指さすページに視線を落とすとそこには佐脇副社長の写真が、そして記事のタイトルは『東城の将来を担う男。若き経営者−佐脇 健介 プレイボーイの素顔』。
「これ」
「さっき、副社長を見た時にどこかで見た顔だと思ったのよ。香さんに見せていいものか迷ったんだけど」
香は雑誌の記事を食い入るように一語一句読んでいく。
そこには今までの経営手腕に対する称賛の言葉と東城の次期後継者について、そして華やかな女性遍歴が詳細に記してあった。
なんてことだろう、マスコミには既に知られていたというのに香はこのことを全く知らなかったとは。
「ねぇ、これは本当なの?」
香の表情を見れば、この記事に書いてあることを知らなかったというのはわかるが、東城の後継者として彼の名前が上がっているということ。
つまり、それは香との婚姻を意味しているのだ。
「この記事が本当だとすれば、そういうことになると思います」
「香さんは、全く聞いていないの?」
険しい顔で黙って頷く香にこの記事を見せなければ良かったと後悔したが、落ち着き払った様子から彼女は覚悟を決めているようにも思えた。
「ごめんなさい。こんな記事を見せるんじゃなかったわ」
第三者から見れば、こういった話は非常に興味深いものかもしれないが、当人にしてみれば将来を左右する重大問題だということ。
ましてや、香のことを良く知っているだけにこんなふうに自分の意志とは無関係な人生を歩まなければならない事実は胸が痛い。
「大丈夫です。私は東城家に生まれた以上、自分の意志に関係なく守らなければならない使命があります。それが例え理不尽なことでも受け入れなければならないんです」
本当は大丈夫なんかじゃなかった。
ただ、東城家にはもはや香しかいない今となってみれば、愛などというたわごとを言っている場合でもなく、会社を守っていってくれる男性(ひと)を見つけなければならないのだ。
それがわかっていても、あの佐脇という男を受け入れるのは到底無理のように思えた。
父が将来を託したとしても、絶対に上手くいくはずがない。
破たんすることが目に見えている相手と将来を分かち合うことなど到底無理に決まっている。
※ このお話はフィクションです。実在の人物・団体とは、一切関係ありません。作品内容への批判・苦情・意見等は、ご遠慮下さい。
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