「ホレ」と、いつの間にか側に来ていた彼に缶コーヒーを手渡された。
「頑張り過ぎるのも、ほどほどにしろよ。もっと人を頼らないと。例えば俺とかさ」
「ありがと」
ありがたくコーヒーを受取ると、あたしは壁際の空いていた椅子に深く腰掛けた。
―――頑張り過ぎ…かぁ。
頑張ったってできないことも、失敗することもある。
それを全部自分で抱えてしまう性格が、良くないこともわかってる。
小早川 冴子(こばやかわ さえこ) 30歳。
仕事に生きる女をやって、早ウン年…。
気付けばあっという間に三十路を過ぎ、愛だの恋だのに現を抜かしている男女に敢えて目を背けて生きてきた。
そこには、学生時代にこっぴどくフラれたという過去があったに他ならないのだが…。
「俺さ、すっごく好きな女がいるんだ」
「え?何よ、いきなり」
唐突な彼の言葉に驚いたというか、人が仕事で行き詰まってるってのにそんなこと今、話すことじゃないでしょうが…。
だいたい、それを慰めに来たんじゃなかったの?
でも、彼の口から好きな人がいるっていうのは意外かも…。
この唐突に好きな女がいると言い出した男の名は、東望 譲路(とうぼう じょうじ)。
冴子の一期上で今年31歳になる同僚だが、どちらかというとライバルという意識の方が強いかも。
まぁ、彼に敵わないことはわかっていても、そう認めたくないのがあたしの良くも悪くも性格だから。
そして、彼は仕事ももちろんデキルが、長身でキリっとした顔立ちから相当モテる男だということ。
「まぁ、聞けって。そいつ、仕事もバリバリこなして、誰もが認めるくらいめちゃめちゃ綺麗なんだ。だけど、気が強くって全部自分で抱え込むんだよ。プライドが高いっていうか、あそこまでくると意地なんだろうな。女だからとか言われないように」
それは、あたしにもわかる。
可愛らしく、男の人の言うことを聞いていればいいのかもしれないけど、それができれば苦労しない。
女だからって負けたくないという気持ちが強く、ついつい頑張ってしまうから。
「わかるな、その気持ち。あたしには綺麗っていうのには当てはまらないから、その点ウザったく思われてるのかもしれないけど」
「側で見ている俺としては、頼って欲しいんだよ。なのに、意地張ってさ」
―――えっ、側に?
側で見ているってことは、好きな人っていうのはこの会社にいるの?
誰なのかしら?
もしかして、あたしの知ってる人だったりして…。
「へぇ、そんな人いるんだぁ」
「あぁ、すぐ目の前に」
真剣にあたしのことを見つめる彼。
―――すぐ目の前にって、まさか…あたしのことじゃあ、ないでしょうね。
っていうか、絶対あり得ないでしょ?そんなこと。
「えっ、どこ?どこにいるわけ?」
わざと大げさに左右を見回してみる冴子だったが、残念ながらこの場所には二人の他に人影はない。
そうはわかっていても、この場の妙な雰囲気に耐えられなかったから…。
「ん?ここにいるけど」
東望は冴子の前に立つと少しかがむ様な格好で、冴子の顔を挟むようにして両手を壁に突く。
いつ触れてもおかしくないほど、彼の顔はすぐ目の前にあった。
「ここって?」
それでも自分だと認めたくなかった冴子は、はぐらかすように言うが、次の瞬間、東望の唇が重なった。
「…っ…ちょっ…こん…な…とこ…ろ…で…っ…」
―――誰が見てるかわからないでしょっ!
そう言おうとしても、彼はそれを許さない。
貪るようなどんどん深くなっていくくちづけに、冴子はただうっとりと身を任せるしかなかった。
どれくらいそうしていたのか、彼の唇が離れた瞬間―――。
「好きだ。冴子」
突然の東望からの告白に、冴子の体は金縛りにあったように動かない。
「とっ、東望さん。何を…」
かろうじて返したが、いつもの冴子らしからぬ少し上ずった声。
「好きだから、好きって言っただけ」
「急にそんなこと、言われても…」
「お前が俺のこと、そういうふうに思えないことはわかってるさ。だから、今すぐでなくても考えて欲しいんだ。俺とのことを」
いつになく真剣な彼の眼差しに本気を感じたが…。
今は、それどころじゃない。
冴子の今後を左右するような大事な仕事を抱えている時に、どうして惑わすようなことを言うのだろう。
「あたし、今はそれどころじゃないの」
「わかってる。だったら、俺を頼れよ」
「ごめん。それはできない」
それだけは…。
「どうしてっ」
首を左右に振る冴子に東望は詰め寄るが…。
「これは、あたしの問題なの。あなたには関係ない。気持ちは嬉しいけど、あたしのことを好きになるだけ無駄よ」
冴子は東望の腕に自分の手を添えて立ち上がると、「ありがとう」そう言って微笑んで自分の席に戻って行った。
+++
頑張れば頑張るほど、自分の思惑とは違う方へ流れていっているような気がする。
何もかもが、上手くいかない―――自分で自分に腹が立つ。
いっそ、彼の言うように頼れればどんなに楽だろう…。
心の中では人に頼りたい…ただ、そのきっかけがつかめないのも事実。
「小早川、時間がないぞ。もう、お前一人では無理なんじゃないのか?」
「大丈夫です。あと、少しのところまで来ていますから」
上司の言葉に慌てて言い返すも、勝算は五分と五分。
失敗すれば冴子の身だけでなく、会社全体の問題にも発展するような大事になり兼ねない。
それでも、やらなければ…。
「わかった。俺は、お前を信じる。だが、もしもの時は一人で抱え込むなよ。お前には、助けてくれる仲間がいることを忘れるな」
力強い上司の言葉に周りにいた仲間が一斉に頷く。
その中には、もちろん東望の姿も…。
この時初めて、自分一人でやってきたのではないことに気付かされる。
―――あたし、何やってたんだろう…。
冴子は胸が熱くなり、唇をかみ締めたまま言葉が出ない。
上司はそんな冴子の肩を2回軽くポンポンと叩き、足早に打ち合わせに向かって行った。
その後姿をいつまでも見送りながら自分を信じてくれたことに感謝しつつ、自分だけが頑張ったのだという驕りを恥じた。
「小早川、俺もいるからな」
「東望さん…」
「今度こそ、できないとか言うなよ」
「凹むから…」と笑う東望。
彼はずっと、こうして側であたしのことを見つめていてくれたのかもしれない。
その気持ちに応えることが、できるだろうか?
いや、応えなければいけない。
「うん」
「素直でよろしい」
お互いの笑い声がフロアに響く。
―――あぁ、こんなふうに笑うのって久し振り。
笑うことすら、忘れてたなんて…。
いつだって張り詰めた空気の中で過ごして来て、それが当たり前だと思ってた。
でも、違う…。
時には、ダメな自分をさらけ出して楽になればいい。
そう、彼が教えてくれたのだと思ったら、なんだかとっても心が温かくなった。
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