―――ここが、あの有名なDesign K。
小町 奈津(こまち なつ)は、今日からクリエイターとして働くことになっていた。
しかし、ここは本人の作り出す作品に比べてお世辞にもおしゃれとは言いがたい建物だったが、間違いなく世界に名を知られたクリエイター、如月 裕二(きさらぎ ゆうじ)の事務所なのである。
あれは、半月ほど前のこと。
午後になって、奈津が美術大学を卒業と同時に入社したデザイン事務所の代表である古谷 元(ふるや はじめ)に呼び出された。
「奈津ちゃん、如月 裕二って知っているかい?」
部屋に入ると古谷の第一声がこれだった。
古谷は確か30代前半で、物腰穏やかな一見クリエイターとは思えない爽やかな風貌の男性だ。
形あるものをデザインさせれば彼の右に出るものはいないと奈津は思うのだが、いかんせんこの穏やかな性格のせいか、全く野心というものがない。
賞というものにも関心がないらしく、作品を満足してもらえさえすればいいのだと本人は言う。
若手の育成にも積極的で、そういうところも奈津にとってみれば、尊敬できるところだったのかもしれない。
話は戻るが如月 裕二と言えば、古谷と同じ年代でありながら、世界の数々の賞を総なめにした若きクリエイターで、この業界の者なら名前を知らない人はいないだろう。
静の古谷、動の如月と言われる二大クリエイターだったが、彼の素性は謎でどんな人物なのか誰も知る者はいない。
「如月 裕二って、あの最年少で数々の賞を総なめにした人ですよね。もちろん知ってますよ、有名ですから」
「そうかい、じゃあ話は早いね。奈津ちゃん、来月から彼の事務所で働いてみないか?」
「はぁ?!」
いきなりの古谷の申し出に、奈津は素っ頓狂な声を上げた。
一体、どこからそんな話が出てきたのだろう…。
「あの…古谷さんは、如月さんとはどういう関係なんですか?」
「一応、幼馴染ってところかな」
「幼馴染…ですかぁ?!」
意外だった。
古谷が如月 裕二と幼馴染だったとは…。
「そう、僕と裕二とは家が近所でね。それこそ幼稚園から大学までずっと同じっていう、まさに腐れ縁としか言いようがないんだけど。あっ、でもこの話はここだけにしておいてね。あいつ、うるさいから」
あんなに謎の男と言われている如月 裕二が古谷の幼馴染だとは、誰も想像すらしないだろう。
「それで、なぜ私を?」
そうだ、そこでなぜ奈津が如月 裕二の事務所に行く話になったのだろうか?
「なんとなくかな」
「なんとなくって…」
そういう理由は、アリですか?
+++
「失礼します」
鋼鉄製のドアを開けると室内に電気は点いているものの、人影は全くない。
―――あれ?誰もいないのかしら。
「本日よりこちらでお世話になります、小町と申します。どなたか、いらっしゃいませんか?」
奈津はもう一度その場で誰かれともなく問い掛けてみたが、やはり反応はない。
電気は点いているのだから誰かいるはずなんだろうが、全く人気がないというのはどういうことだろうか?
「すみませ〜ん。誰かいませんか?」
事務所内はかなり殺風景と言っていいくらい、何もない。
あるのはぽつぽつと点在しているパソコンが載ったデスクが数個くらいで、後は資料のようなものだろうか?壁際の書棚に無造作に置かれている。
他にあるものと言えば、脇にパーティションで仕切られたミーティングルームのようなものが見えるだけだ。
一通り見回して、よく見れば奥に扉が1つ。
奈津はそこへ向かって歩いて行くとドアをノックした。
「すみませ〜ん。誰かいませんか〜」
やはり声はなく、ドアノブを回すと鍵は掛かっていないようなので、そっと中を覗いてみる。
ここは電気が点いていないのか、薄暗い部屋に窓からの日差しだけが入り込んでいた。
「あの〜」
「何か用?」
「え?」
いきなり足元から聞こえてきた声に奈津は辺りを見回すが、なぜか人影は見当たらない。
―――えっ、どこから聞こえてきたの?
取り敢えず、見えない相手に挨拶してみる。
「あっ、本日よりこちらでお世話になりますっ。小町 奈津と申します」
「小町…奈津さん?」
さも初めて聞いたというような言い方で、男性が近くにあったソファーからむっくり起き上がった。
奈津の方には背もたれしか見えなかったので、まさかそこに人が寝ているとは思わなかった。
歳は30ちょっとくらいで古谷と同じくらいだが、朝からここに寝ているということから昨夜から寝泊りしていたのだと無精髭からも想像できる。
染めているのとは違うブラウンの髪に男性にしてはサラサラの前髪が顔の半分ほどを覆っていて、目はよく見えないが、察するにかなり綺麗な顔立ちに見えた。
「はい。古谷さんに紹介されてこちらに来たのですが、聞いてませんか?」
「古谷って、元?あぁ、そう言えばあいつ前にそんなことを言ってたな」
―――何なの?この人。
ちゃんと話、聞いてなさいよ。
でも、古谷さんのことを元なんて呼んでるってことは、年齢的にもこの人が如月 裕二なの?
動の如月と言われるくらいだからもっと快活な人物を想像していたが、全くそんな感じを受けない。
彼自身は線が細く繊細な感じに見えるが、散らかった部屋の中を見る限り、ズボラというか無関心だとも伺える。
「手伝いの広岡 大智(ひろおか だいち)っていうのがいるんだけど、そいつ今買出しに行ってるんだ。直に帰って来ると思うから、まっその辺で待っててくれる?適当に空いてる事務所のデスク、使っていいからさ」
そう言うとまたソファーに横になってしまい、辺りはさっきまでの静寂に戻る。
奈津は言われた通りに、部屋を出ると事務所の空いている椅子に腰掛けた。
―――何だか、すごいところに来ちゃったわね。
賞を総なめにするようなクリエイターの下で仕事ができると張り切って来たはいいが、これはどうなんだろうか…。
これから先うまくやっていけるのか、不安になっているところにドアが開いて、両手にビニール袋を下げた若者が入って来た。
「あっ、すみません。お客さんを待たせてしまって。これ、先に置いてきますから」
若者は袋を奈津の前に掲げて見せると、如月のいた部屋に入って行った。
彼が、如月が言っていた広岡という人なんだろう。
まだ大学を出たばかりという感じで、可愛いっていう男の子だった。
「えっと、失礼ですがどちら様でしょうか?」
買出しと言っていたから多分、如月の朝食か何かだったんだろう。
すぐに部屋から戻って来たが、如月でさえも奈津のことを忘れていたくらいだから、目の前の彼は知るはずもない。
「今日からこちらでお世話になります、小町 奈津です。如月さんには古谷の方から話をつけていると思ってたんですが、さっきの様子だと如月さんも忘れていたようなので」
「え?古谷って、小町さんは、あの古谷デザイン事務所にいたんですか?」
奈津が頷くと、彼はとても驚いた様子だった。
「すみません、申し遅れました。僕は広岡 大智と言います。名目は如月さんの助手ってことになってますが、今は僕と二人だけなんで、経理も雑用も何でもやってますけど」
そう言って笑う姿は、やはりどこかあどけない。
それにしてもこの事務所に二人だけというのは、どうなんだろうか…。
「そうなんですか。私も急に古谷の方から、こちらに行ってみないかと言われたので」
「敬語はいいですよ。僕はここに入ったばかりなんで、呼ぶ時は大智って呼び捨てで構いませんし」
「うん、じゃあ大智君でいいかしら?それと大智君も敬語はナシね。如月さんの他には私達しかいないんでしょ?だったら余計にね」
「はい、僕も奈津さんと呼んでもいいですか?」
どうぞって言うと大智はニッコリ微笑んで、今コーヒー入れますねと近くにあるキッチンに入っていった。
―――しっかし、3人しかいない事務所ってどうなの?
こんなので、あんなにすごい作品を作り出すなんてねぇ。
「奈津さんは、砂糖とミルクはどうしますか?」
「ミルク少量、砂糖なしでお願い」
「しっかり、覚えておきます」
大智は、ミルクを少しだけ注いだコーヒーのカップを奈津の前に置いた。
「ありがとう。ねぇ、さっき如月さんの部屋に入ったらソファーで寝てたみたいだけど、徹夜か何か?」
「裕二さんは、いつもああなんですよ。ほとんど、ここに寝泊りしてるっていうか」
やっぱり、そうだったのかと奈津は思った。
見るからにそんな感じだったし。
「マンションは目と鼻の先にあるのにどうして帰らないのかなって、不思議なんですけどね」
「ふううん。で、今は何の作品を作ってるの?」
「実は僕もよくわからないんですよ。裕二さん、仕事の依頼っていうかはあんまり受けないから、自分の作りたい時に作るみたいで」
「え?」
―――それって、どういうことよ。
仕事の依頼はあまり受けないからって、私、ちゃんとお給料もらえるのかしら?
「大丈夫、心配しなくても最小限の仕事は受けてますから」
奈津の心配が、大智にもわかったのだろう。
きちんとフォーローしてくれたが、そういう仕事の仕方をしていたとは。
だから、二人きりだったのね…。
「私。一体、ここで何をすればいいのかしら?」
素朴な疑問だが、奈津がこの事務所でする仕事があるのだろうか?
「奈津さんは、古谷さんからここに来るよう言われたんですよね。それって、すごいことだと思いますよ」
「どういうこと?」
「僕は勝手に自分から押しかけて、ここに置いてもらってるんです。裕二さんはずっと1人で活動してましたから、今まで誰も雇ったりしたことないんです」
「え、そうなの?」
大智の話によると、如月は今まで誰も自分の側に人を置いたことはないらしい。
その彼の元に古谷からの依頼とは言っても、奈津を受け入れたということは相当な何かがあったからだろうと彼は思った。
「きっと、奈津さんが素晴らしい才能を持っているからに違いないって、僕は思います」
まだ奈津の実力を何も知らない大智が、こんなふうに言い切ってしまうのがなんだかおかしい。
「大智君、そんなこと断言されてもね。悪いけど私には、そんな力はないと思うわ。古谷さんのところでも、その他大勢だったし」
古谷の事務所にいた時も、奈津はまだ1人でデザインをしたことはない。
全て彼の指導の元に一部分を担当しただけだったのだから。
「いいな、僕も早く何かデザインをさせてもらいたいです。裕二さんに憧れて、側にいられるだけでいいって思ったけど、やっぱりちょっとはお手伝いしたいから」
「如月さんって、人を置かないんでしょ?なのにいくらおしかけだってOKしたってことは、大智君だってきっと何か隠れた才能があるんじゃないかな」
「そうだったらいいな」
「そうよ。お互い頑張らないと」
「はい」
最初、如月に会った時はどうかと思ったが、大智のような人がいてくれるのなら、うまくやっていけるような気がする。
逆に大智の方は、憧れの如月の事務所にいられるとはいっても男二人では、あまりに寂し過ぎた。
それが奈津のようなめちゃめちゃ綺麗で優しいお姉さんが来てくれただけでも、ワクワクしてくるのだった。
◇
それから、如月が起きてきたのは午後になってからのことだった。
「ふぁ〜良く寝た」
首を回しながらポキポキ鳴らすサマは、どう見てもどこかのオッサンにしか思えない。
あの、如月 裕二が…。
「で、あんた誰だっけ?」
『あんた誰だっけ』って…。
ついさっき、挨拶したばかりじゃない、一眠りしたらもう忘れちゃったわけ?
だ・か・ら・私はっ。
「あっ、元の」
そうそう、覚えてるんじゃない。
「で、名前なんだっけ?」
「あの…」
「小町 奈津さんですよ、裕二さん」
ガックリ肩を落とす奈津の脇から大智がそう言うと、「小町 奈津さんね?はいはい、もう覚えたから」と目を上に向けて何度も繰り返し呪文のように唱える如月。
―――私の名前って、そんなに覚え難いかしら?
「小町さん、ちょうどいいところへ来てくれた。これ、今週中にやっておいてくれないかな」
如月はデスクの上に置いてあったA4サイズの封筒を取って奈津に手渡すと、「俺、シャワー浴びてくるから」と言って事務所を出て行ってしまった。
―――え?今週中にやっておいてって、どういうことよ。
すぐに奈津は渡された封筒から書類を取り出してみると、それはあるブランド企業からのパッケージのデザイン依頼…。
「えぇぇっ!?こんなの私にできるはずないでしょっ」
「あっ、これは裕二さんにどうしてもって、頼みにきたやつですよ」
そんなに前の話ではなかったが、ある有名ブランドの会社がパッケージのデザインをして欲しいと如月の事務所を訪れたけれど、時間的にも余裕がなく無理だと断った件。
しかし、相手側がどうしてもと半ば無理矢理置いていったものだった。
それを奈津にさせるとは…。
「どうしよう…今週中なんて、絶対無理」
―――如月さんたらぁ、こんなの私に押し付けて…。
途方に暮れる奈津を大智は苦笑しながら見つめるしかなかった。
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