一度家に帰るとシャワーを浴びて、きちんとした服に着替えた奈津。
いつもデザインだけを担当していた奈津が依頼主と直に接することはまずなかったから、こんな服装をするのも久し振り。
鏡に映る自分に「ヨシッ!」と気合を入れるが、ふと無意識のうちに唇に手が触れた。
不意打ちのキス―――
まさか、如月さんにあんなふうに想われていたなんて…。
ついさっきの出来事でありながら、遠い昔のことのようにも感じられるし、もしかして夢だったのではないかとさえ思える…。
未だに彼の言葉が信じられない自分が唯一確信を持てるのは、この微かに残る唇の感触だった。
如月ほどの人なら、いくらでも女性を選ぶことができるはずだし、それがなぜ奈津なのだろう?
古谷から頼まれたと言っていたが、幼馴染に頼まれたくらいでそんな簡単に引き受けるのか…。
広い世の中、一目惚れということも無きにしも非ずとは言っても、そんなことが現実にあるなどと到底思えない。
―――今は、こんなことを考えている場合じゃないわよ。
とにかく彼とは真剣勝負、絶対に負けられないんだから。
もう一度気合を入れて、奈津はアパートを後にした。
◇
担当者2名は午後2時に事務所に訪れることになっていたが、その時間まであと30分を切ったというのに如月はというと自宅マンションに帰ったきり、戻って来る気配がない。
「如月さん、どうしちゃったのかしら?」
「そうですよね。もうすぐ、担当の人達が来るのに」
何度も壁の時計を見る大智だったが、待ちきれなかったのか「ちょっと外を見て来ます」と事務所を出ようとした瞬間、入口の扉が開いた。
「あっ、裕二さん。遅いから、見に行こうと思っていたところですよ」
「悪い。この前、ワイシャツをクリーニングに出したっきり取りに行ってなくてさ」
「一枚もなくて焦ったよ」と話す如月、いつもかなりラフな格好の彼しか見ていなかったから、ネクタイを締めていると別人のように見える。
そして、目を覆うほどの前髪もワックスで整えられていた。
こんなにいい男だったらもっと表に出ればいいのにと思うし、誰も取材に来ないのがおかしいくらいだと奈津は思った。
つい見惚れていた奈津は、大智に見られていたとは露知らず…。
「奈津さん、裕二さんに惚れちゃいましたね?」
「なっ、私は別に」
否定している側から、目が泳いでる奈津。
妙に動揺するものだから、余計疑われると言うのに…。
「隠さなくったっていいですよ〜顔に書いてますって」
「ねえ、裕二さん」と大智が如月に視線を移すと、当然という表情で大きく頷いている。
―――ちょっと待ってよっ!
私はまだ…っていうか、惚れてるのは如月さんの方でしょ?
「如月さんまで、調子に乗り過ぎです」
「まっ、惚れてるのはほんとのことだからな。これから、3人でやっていくのに隠し事は良くないだろ」
―――ですからぁ、それ違いますって。
そんな言い方をしたら、まるで私の方が如月さんのことを好きみたいじゃない。
嫌いじゃないけど、よくわからないし…。
「え?もしかして、二人は…」
「ちっ、違うわよ。大智君ったら、誤解しないで」
―――って言っても、ダメよね…「おめでとうございます」なんて大智君ったら、すっかりそう思っちゃってるみたい。
こんなことで、盛り上がっている場合じゃないのよ。
これから、私はクリエイターとしての腕を試されるというのに…。
そう思った矢先に依頼主は、現れたようだ。
先に入って来たのは40代前半くらいの男性で、さすがファッション業界にいる人だなと思わせる風貌だったが、後から付いて来たもう1人は意外にも女性でそれもかなり若い。
奈津とそう変わらないのではないだろうか?
同年代の女性をターゲットにしたブランドだけに、彼女の意見は重要なのかもしれない。
奈津は2人に会うのが今回初めてだったので、名刺交換を済ませるとミーティングルームへ案内する。
すぐに大智は、コーヒーを入れにキッチンへ入った。
「無理言って、すみませんでした。正直、やっていただけないかと思っていたんですよ」
大智から聞いた話では、時間的にも余裕がなく如月は無理だと断ったが、相手側がどうしてもと半ば無理矢理置いていったのだと言っていた。
だから、期限通りにやるとはこの男性も思わなかったのだろう。
「いえ。まぁ、取り敢えず見ていただけますか?」
ちょうどコーヒーを入れて持って来た大智とすれ違う形で如月と奈津は自分の作品を取りに行ったのだが、大智は奈津に向かって軽く左目をウィンクして見せる。
一応、奈津がデザインしたことになっているが、これは大智との共同作品と言ってもいい。
果たして若い二人が勝つのか、それとも…。
テーブルの上に置かれたのは、如月のデザインしたペーパーバックとギフトボックスと奈津がデザインした同じ物。
お互いの作品を見るのは今が初めてだったが、如月の作品はなんと表現すればいいのか、平面ではなく凹凸のある立体的な構造になっていて、非常に動きがあるといっていい。
それが一枚の紙でできているのだというから、短期間でここまでやってしまう、さすが動の如月と思わせる素晴らしいものだった。
対して、奈津の作品はというと。
「こちらは?」
「はい。根本的には今までのペーパーバックと変わらないのですが、持ち手の一方は固定、もう一は固定せずに紐を長いものにして、品物を入れた後に反対側面の穴からこの紐を出して蝶結びにするんです。これだと口が完全に閉まった形になるので中身が見えないことと、品物の大きさによって調節もできますし、アクセントになるのではないかと思いました」
「紐の色も数色用意して、ブランドロゴを入れたり、素材等も変えてみるとおもしろいですね」と説明する奈津の話を興味深く聞いていたのは、女性の方だった。
可愛いらしいものに興味を抱く、こういうところは奈津も同じ。
これだと製作の過程に於いて、なんら難しい処理を施す必要もない。
ギフトボックスも大智の協力により、組み立てが簡単にできる構造で、ペーパーバックと同じリボンを通して結ぶデザインにしてみた。
今の奈津には、これが全てだったと思う。
「これは、あなたがデザインされたんですか?」
「あっ、はい」
依頼主が如月にデザインを依頼した時にはもちろん奈津はいなかったわけだし、現に彼はデザインをしている。
だったら、なぜ奈津が?と思っても不思議ではないだろう。
「今回は彼女と私とでデザインをしましたので、どちらかお好きな方を選んでいただければと思いますが」
如月の言葉に担当の二人は迷っていた様子だが、最終的には一度社に持ち帰って検討するという意見で纏まった。
奈津も手ごたえを感じなかったわけではないが、こればかりはまだどっちに転がるかわからない。
依頼主が帰ると力が抜けたような気がして、奈津は椅子に座り込む。
こんなことを毎回やっている如月は、只者ではないなと関心させられる。
「奈津さん、なかなか好感触でしたね」
「どうだろう、やるだけやったから悔いはないんだけど…お給料がもらえないようなことになると、ちょっと辛いわね」
今は終えた後の充実感でいっぱいだが、すぐに現実に引き戻される。
それと、如月の反応の方が奈津には気になった。
果たして、自分の作品の評価はどうなのか…。
「どっちを選んだとしても、給料は払うよ」
「え?」
―――だって、私が負けたらって、言ってたのに…。
「いいと思うよ、これ。元(ハジメ)のところにいただけのことはある」
「そんなに褒めてもらうと、怖いんですけど」
古谷は褒めて延ばすタイブの人間だったが、如月は正反対だと思っていた。
それがこんなふうに普通に言われてしまうと、どう受け止めていいものかわからない。
「じゃあ、今夜はパーツと飲みに行きますか。」
奈津のお給料もカットされすに済んだ?!し、一段落ついたことで飲みに行くのも悪くないが…。
「そうだな。あんたの歓迎会もしてなかったし、ちょうどいいだろう」
「やったぁ、裕二さんの奢りってことで。ねぇ、奈津さん」
いきなり振られても困るが、奈津もここは遠慮せすに「うん」と言っておく方がいいだろう。
ちゃっかりしているなと思いつつも、如月は大智にそろそろデザインを任せようと考えていたところ。
奈津を手伝わせたのも、そういうところにあったのだ。
Design Kは如月裕二だけのものではなく、もっと幅広いデザインを手掛けられる事務所になっていかなければならないと思うから。
「わかったよ。二人で好きなところを決めておいてくれ」
窮屈だったのか、ネクタイを緩める如月だったが、それだけでも様になっていて奈津はやっぱり見惚れてしまう。
「ねえ、どこにしましょう。奈津さん」と嬉そうに話す大智に、今度は気付かれずに済んだようだった。
+++
それから一週間ほどした頃だろうか?デザインを依頼してきた会社から一本の電話が入った。
「裕二さん、電話です。例のパッケージの件で」
大智が如月のいる部屋へ電話を転送すると、側にいた奈津も息を呑んで結果を待つ。
―――どっちが、選ばれるの?
こんなドキドキするのは、受験で合格発表を待つ時以来だったかも。
暫くして如月が部屋から出て来たが、彼の表情からは果たしてどちらが選ばれたのかは判断できなかった。
「結論からいくと、今回は小町さんのデザインで行くそうだ」
―――えっ、私の?
実際言われてみると嬉しいというかそういうことより、他人事にも思えてしまう。
師匠を差し置いて自分が…と思うのは、自惚れなのか…。
「奈津さん、やりましたね!」
「なんか、実感沸かないんだけど」
「というか、まぁ、厳密に言えば俺のと両方なんだ」
「「えっ、両方?」」
嬉さ半分というところだったが、両方というのはどういうことなんだろう?
「今のブランドとしては小町さんの方を採用する。ただ、今後はメンズものを立ち上げるとかで、俺のはそっちに使いたいって話だったな」
「そうなんですか?」
今まではレディースOnlyのブランドだったが、今後はメンズものを展開することが正式に決まり、如月のデザインも同時に採用したいというのだ。
恐らく、如月裕二のデザインを無にするのはもったいないというのが本音だろう。
もちろん、デザイン料は入るという、こんなおめでたい話はない。
「二人ともなんて、すごいです」
「これで稼ぎ頭が二人になるわけだし、いや三人だな。これからは、大智も加わってガンガン仕事をしてもらうから。」
「えっ、本当ですか?」
「あぁ、俺は別に雑用をしてもらうためにここに置いているわけじゃないんだ。大智だって、ただ俺の側にいたわけじゃないだろ?」
如月は意味もなく、大智に雑用をさせていたわけではない。
製作中の作品だって、見ようと思えば見られるようにさり気なく配慮していたつもり。
人に教わるのではなく、自分から学び取って欲しい。
盗めるところはどんどん盗む、それが如月のやり方なのだ。
「はい」
「早速、依頼が来てるんだ。近いうちに打ち合わせに来ると思うから。そうなると、誰か代わりを雇わなければならないか」
「なら、可愛い子を」
「それは、ダメだな。彼女が嫉妬するから」
如月とバッチリ目が合った。
―――えっ…それって、私のことでしょうか?!
私は、別に嫉妬なんて…。
「そうですね」
「ちょっと、大智君。何で、そこで納得するわけ?」
どうにも、腑に落ちない様子の奈津。
可愛い子が入ったからって何で?と思ってはいるものの、実際来られると微妙かも…。
「まぁ、大智も大変だとは思うけど、当分は頑張って欲しい」
「任せて下さい」
デザインさせてもらえるのが、本当に嬉しそうな大智。
これからは各人が頑張っていかなければならないのだから、責任が重い反面、やりがいも大きいものなるだろう。
「後で、元(ハジメ)に報告しておけよ。あいつ、あんたを手放したことをきっと後悔するだろうけどな」
そういい残して、如月は仕事が残っているからと部屋に入ってしまった。
その後姿を見つめながら奈津は思う。
ここまで育ててくれて、後押ししてくれた古谷には感謝してもしきれない、そして受け入れてくれた如月にも…。
+++
奈津のデザインしたペーパーバックは話題を呼んで依頼は後を絶たず、大智も若いながらに賞を取ったことで、古谷と如月に続くクリエイターとして注目を浴びるようになる。
そして、如月というと、相変わらずのマイペース。
最近、彼女が出来たという大智は今夜はデートだからと早々に帰って行ったが、まだ残っていた奈津は部屋に籠もったっきりの如月が心配でたまらない。
―――如月さんったら、まさか今夜もここに泊まるなんて言わないでしょうね。
あれじゃあ、絶対体を壊しちゃう。
それにちっとも構ってくれないし…。
たまに二人っきりになるとキスしてくれるけど、それ以外は何もないし、お休みの日に出掛けることすらまだ一度もない。
ラブラブな大智を見ていると、羨ましくて仕方がないのだ。
本当は私のこと…そんなふうに不安になることも。
『如月さん、私のこと好きなのかな』
「好きだよ」
耳元で囁かれ、慌てて振り返った奈津。
―――いつの間に…。
「えっ、如月さん。いつからそこにいたんですか?」
「ちょっと、前?声を掛けたのに聞こえてないみたいだから」と、如月は背後から奈津を抱きしめる。
そんな彼の手に自分の手を重ねると、なんだかとっても温かくて懐かしい気がした。
「どうした?そんな顔して」
如月は空いていた椅子に座ると奈津の椅子をクルッと回転させて、向かい合わせになる。
その顔はどこか元気がなくて、頬にそっと両手を添えた。
「如月さんは、本当に私が好きなんですか?」
「言ったろ?好きでもない子にキスはしないって」
「何で私なのか、全然わからないんです」
そうは言われても、好きになる理由がわからない。
未だに彼の言葉が、信じられないのだ。
「奈津だから、それじゃあ理由にならないか?」
初めて名前を呼ばれて、心臓の鼓動が早くなる。
でも…そこで、なぜなのか?はっきり聞きたいのは、確信が欲しいから。
「なら、奈津は俺のことが好き?」
「えっ。あっ、はい」
面と向かって聞かれると困るが、本心を言えば彼が好き。
クリエイターとしても、男の人としても。
ちょっとつっけんどんだけど、いつも相手のことを考えていて、本当はとっても優しい人。
「俺からしてみれば、何で奈津は俺のことが好きなんだって思う。同じじゃないのか?まっ、ずっと前から元(ハジメ)には奈津のことを聞いていたし、実はチラっと顔も見たことあったんだよな」
「あいつ、俺の好みを熟知してんだよ」と話す如月は、元(ハジメ)とはダテに長い間幼馴染をしていないなと思う。
もちろん、自分が面倒見てきた可愛い部下を泣かせるようなことがあればと念を押されていることはこの場では言わないけれど。
「チラッとって、どこでですか?」
「ナイショ」
「ケチぃ」
如月は膨れっ面の奈津が可愛いなと思いながら、頬をツンツンと人差し指で突く。
「だから、俺だけを見ていて欲しい。なかなかデートにも連れて行ってあげられないし、寂しい思いをさせるかもしれないけど」
「如月さん」
彼の胸に自ら飛び込む奈津。
背中を上下する大きな手が心地いい。
「ってことで、今夜は俺の家に来る?可愛い奈津を離したくないから」
家にと言われて、またもや鼓動を早める奈津だったが、彼の家に行くということはここには泊まらないということ。
体のことを考えればずっとそっちの方がいいし、それに何よりも彼と一緒にいられるのだから。
奈津はハニカミながら「はい」と頷くと、彼のやさしいキスが一つ舞い降りた。
To be continued...
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