3 赤と黒
<おまけ>


―――綴(つづり)ったら、いつになったら律花って呼んでくれるかな。
それに未だに敬語だし。
上司という立場に歳の差…。
拭い去れないいくつもの見えない壁が、二人の間に立ちはだかっていた。

「また、たそがれて」
「だ・か・ら・たそがれ(・・・・)って、言わないでよ」

そんな言い方をするのは、栗林しかいない。
それにしても、どうしてこういつもいつも、こんな姿を彼に見られてしまうのか。

「年下彼氏君と喧嘩でもしたのか?」
「ううん、そんなことないわよ」
「そのわりに元気がないみたいだけど」

律花が些細なことを気にしているだけで、綴(つづり)との仲は表面上は至って順調。

「まぁね、小さなことは誰にだってあることだから」
「何なんだ?その小さなことってのはさ」

もしも、栗林と付き合っていたなら、少なくとも律花が今、抱えている問題は解消されるはず。
それでも、綴(つづり)を愛してしまったのだし、これからもその気持ちは永遠に変わらない。

「うん」
「ほら、悩んでたってしょうがないだろ?」
「まぁ、そうなんだけど…」

―――栗林君に話したら、何と言うのだろう?
『そんなこと』って、軽くあしらわれちゃうのかな。

「彼が私のことを呼ぶ時、未だに”さん”付けなの。それに会話も敬語っていうのが、なんだか寂しいなって」
「何だ。そういうことか」

やっぱり…。

「栗林君にはたいしたことじゃないと思うけど、私にとっては大きなことなのよね」
「言えばいいだろ。“さん”はいらない、敬語も止めてって。思っていることを伝える、簡単なことじゃんか」

彼の言う通、確かに考えてみれば簡単なこと。
綴(つづり)に言ってしまえば、それで済む話なのかもしれない。
でも、それがなかなか言い出せないのが恋愛の難しいところなのだ。

「簡単なことって言うけど、それが一番難しいんでしょ?」
「っていうかさ、彼も同じように思ってるんじゃないのか?ただ、きっかけがつかめないんだろうな。だったら、谷野から言えいいんだよ」
「私から言っても、いいのかな?」

―――私から言って、気分を害したりしないかしら…。
彼の方から呼んでくれるのを待った方がいいのでは…。

「どっちがとか、そんなことは関係ないと思う。そういうところからして、歳の差を意識し過ぎてるって気がするけど」
「だってぇ」

意識するなっていう方が無理なんだから、仕方ないじゃない。

「あのなぁ、言い方なんだよ。 “私のこと、律花さんじゃなくって律花って呼び捨てにして欲しいの。お願〜ぃ。ねぇ、だめ?”とか言ってみろよ、可愛くさぁ」

両手を顎の辺りで組ませ、作り声で上目遣いにパチパチ瞬きしてる栗林。
男性にしては長いまつ毛の持ち主ではあったが、それにしても…。

「…ぐっ…は…栗林君ったら、気持ち悪〜い」

涙目になって笑っている律花に「こらっ、人が心配してやってんのに気持ち悪〜いとは失礼な。っつうか、そんなに笑うやつがあるかよっ」と、栗林は真っ赤な顔で抗議する。
それにしても栗林はなかなかの演技派であり、なるほど男心をよく掴んでる。
というか、彼も男性だからこそ、こういう言葉が出てくるのだなと律花は思った。

「ごっ、ごめ…ん。…だってぇ、あんまりにも―――」
「あぁ〜気持ち悪い言うなっ」
「まだ、言ってないじゃない」
「言おうとしただろうが」

ペロッと舌を出す律花の額を栗林は指で軽く小突く。
―――栗林君って、私の思ってることまでわかっちゃうんだぁ。

誰だってわかると思うが…、栗林の身にもなって欲しい。

「男の人って、そういうふうに言われれば嬉しかったりするの?」
「そりゃ、そうだろ。男だったら、やっぱり彼女には甘えて欲しいと思うからな。特に谷野みたいに年上の彼女なら尚更」
「そういうもの?」
「俺に聞くより試してみろよ、彼氏にさ」

―――綴(つづり)も、そう思ってくれるのかな?
ちょっと恥ずかしいけど、ダメ元で言ってみるかぁ。
このまま、気にしていても始まらないしね。

その後、栗林に向かってさっき彼がやって見せてくれたことをおさらいする律花だったが、今まで見たことがないくらいの可愛らしさ。
恋心を抱く身としては、かなり辛い時を過ごさねばならなかったことを少しは感じ取って欲しい…栗林だった。

+++

久し振りにマスターのところへ行こうということになり、律花と綴(つづり)はダイニングバーのある三軒茶屋駅で待ち合わせの約束だった。
―――上手くできるかしら…。
珍しく定時で会社を出て先に駅に着いていた律花は、今夜こそ綴(つづり)に“律花さん”ではなく“律花”と呼んでもらおうと、、栗林相手に練習した成果を試すつもりだった。
初めは恥ずかしくてなかなか上手く言えなかったけれど、最後には栗林のお墨付きももらい、後は本番を迎えるだけ。
一番心配なのは、律花が普段そんな姿を見せないだけに綴(つづり)が引いてしまわないかということ。
―――栗林君は、大丈夫だって言ってたけど…。
栗林の気持ちなど知るはずのない律花には、彼の言葉がイマイチ半信半疑。
彼がそう言ったということは、同じ想いのいや、それ以上の綴(つづり)にとっても恐らく結果は吉と出るはず。

「律花さん。すみません、遅くなって」
「ううん。電車が一本、早かっただけだから」

綴(つづり)は、さり気なく律花の手を自分の指を絡ませるように握り締めるとゆっくりと歩き出す。
隣でそっと綴(つづり)の顔を見上げる律花。

この次に名前を呼ばれる時は、“律花”と言って欲しい。

「ねぇ、綴(つづり)」

突然、思いつめたような表情で立ち止まった律花。
…一体、どうしたというのだろう。

「り…っ」
「あっ、ダメ」

「言っちゃ」と、いきなり律花に手で口を塞がれた綴(つづり)。
…ほんとにどうしたんだよ、律花さん。
わけがわからず、綴(つづり)は首を傾げるしかない。

「あのね、あの」

律花は、綴(つづり)の口を塞いでいた手ともう一方の繋いでいた手をそのままで栗林に教わった通りに両手を顎の辺りで組ませ、上目遣いにジッと見つめる。

「私のこと、律花さんじゃなくって律花って呼び捨てにして欲しいの。お願〜ぃ。ねぇ、だめ?綴ぃ」

パチパチ瞬きするところまで、練習通りバッチリ決まった。
しかし…。
律花の予感は的中し、綴(つづり)は思いっきりその場に固まってしまう。
―――嘘ぉ、どうしよう。
もうっ、栗林君が大丈夫なんて言うからっ信用したのにぃ。

「綴(つづり)?ねぇ、綴(つづり)ったらぁ」
「え…あぁ」

まだ、放心状態の綴(つづり)は今起きたことをもう一度冷静に思い出してみる。

えっと、えっと、律花さんは…律花って呼び捨てにして欲しいと言ったんだよな。

本当は、ずっと前からそう呼びたかった。
いつまでも“さん付け”ではどこか距離を感じて、自分は、自分だけは“律花”と呼べる存在になりたかった。
でも、なかなか言い出すきっかけがつかめなくてズルズルと今まで来てしまっていたのだが、まさかこんなふうに言ってもらえるとは思ってもみなかった。

「私、変なこと言った?綴(つづり)が呼びたくな―――」

「呼びたくないなら」と続けようとして、抱きしめられた。
夜とはいっても、ここは人通りの多い道だというのに…。

「うわぁっ、ちょっ綴(つづり)?」
「律花」

―――「律花」
今、律花って…言ってくれた?
胸の奥がジンって熱くなってきて、何か言わなきゃと思っても言葉にならない。
耳元でもう一度「律花」と呼ばれ、今度は涙が溢れそうになる。
もちろん悲しくてじゃなくて、嬉しくて…。
こんなに嬉しいんだったら、もっと早く言うんだった。

「ありがとう。すっごく嬉しい」
「俺もです」
「敬語もやめて」
「わかったよ」

綴(つづり)ったら「俺、めちゃめちゃ嬉しい。周りに誰もいなかったら、“律花、愛してる”って叫びたいくらい」なんて言うもんだから、「大げさね」と微笑む律花。
言ってしまえば、たったこれだけなのに本当の意味で恋人になれたような、そんな瞬間だった。



「「こんばんは、マスター」」
「いらっしゃい。あっ、綴(つづり)君と律花ちゃん。ずっと来ないから、忘れられちゃったのかと思ったよ」

「オジサンは」とマスターは、相変わらずの笑顔で迎えてくれた。
ここに来ると本当にホッとできる。
横にいたママさんにも挨拶すると二人は並んでカウンター席に腰掛け、お絞りを受け取った。

「お二人さん、何にする?」
「えっと、俺はいつものギネスで。律花は何にする?」
「私は、赤いので」
「マスター、赤と黒でお願いします」

「オッケー」と答えたマスターは、綴(つづり)と律花がいつもと違うことにすぐに気付く。
…そっか、やっと。

奥に入るとマスターはママさんに目配せして、チラッと二人を顧みる。
楽しそうに会話している彼らの手は恐らく、カウンターの下でしっかり握られているのだろう。
久し振りに会えたけど、『今夜は、あんまり口を挟めないな』。
寂しさを感じつつも、マスターは綴(つづり)と律花の前に赤と黒のグラスを置いた。


To be continued...


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