「働けど働けど我が暮らし楽にならざりじっと―――」
「カップ麺を見る」
あ〜ぁ、俺はいつになったらカップ麺から卒業できるんだよ。
100円ショップで買った目覚まし時計の秒針がカチカチと3回転したのを確認すると、ゆっくりカップ麺の蓋を開けた。
石動 理一(いするぎ よしかず)、23歳。
地元の高校を卒業後、東北の片田舎から上京して早5年。
勉強は大嫌い、大学に進学する気も全くなく、かといってまともに就職活動などせず、東京に出てくれさえすればいくらでも職に就けると思ったら大間違い。
世の中、そんなに甘くはなかったということ。
借金を作ったうえに転々とバイトを変わり、かろうじて生きてはいるものの、お風呂なしトイレは共同というアパートの6畳一間に気持ち程度に付いたキッチンという室内に理一(よしかず)のずるずるっとラーメンをススル音だけがテレビさえもない静かな部屋に響き渡る。
―――そう言えば、今月の家賃もまだ、払ってなかったんだよなぁ。
そろそろ、大家のオバサンが催促に来る頃だぞ?
あのオバサン強烈だから、いきなり玄関のドアを『ガンガン、ガーンっ』って叩いて、『ちょっと、石動(いするぎ)さんっ。家賃、払って下さいよっ。ちょっと石動(いするぎ)さんっ、いるんでしょ』と大声で叫びまくる。
少しは、近所迷惑ってもんを考えて欲しい。
だいたい、払ってくれと言われても、払えるお金があればとっくに払ってるわけで、払うお金がないから滞納してるんじゃないか。
塩分取り過ぎ、絶対高血圧に決まってると思いながらもきっちりスープまで飲みきると、やっと空腹が満たされた気がした。
その時―――。
ガンガン、ガーンっ
ガンガン
ガンガン、ガンガン、ガーンっ
「ほら、おいでなすった。噂をすればなんとやらだな」
いつものことと慣れっこになってしまった理一(よしかず)は、動じることなくカップ麺を食べ終わった後の入れ物を既に同じもので一杯になっていたレジ袋に放り込んだ。
それでも諦め切れないのか、鳴り止まないドアを叩く音。
―――いくら叩かれたって、ないもんはないんだから。
壁の薄いアパートで、これ以上騒がれると近所迷惑になる。
「はいはい。今、開けますって」
ドアをぶち破らんばかりの勢いに『そんなに叩いたら壊れるって』と思いながら、理一(よしかず)が仕方なく鍵を開けてドアノブを引くと、目にも留まらぬ速さで何かが勢いよく室内に飛び込んで来たと思ったら、神業の如く鍵を閉めると勝手に奥に転がり込んだ。
そいつは、靴も脱がずに。
「ちょっと、あんた。誰だよ」
「人の家に勝手に上がり込んで、靴ぐらい脱げよな」と理一(よしかず)は近付いて行き、腰に両手を当てて迷惑そうに言うと、そいつは「あら、ごめんなさいね」と指くらいの細さのピンヒールをひょいとその辺に脱ぎ捨てた。
――― 一体、誰なんだこの女。
てっきり大家のオバサンだとばかり思っていたが、そこにいたのは全く面識がない女性。
それも、よく見ればとびっきりの美女というやつだ。
スーツ姿でタイトミニから伸びる脚は俺より確実に長く見えたし、バチバチっと瞬きする度に音がしそうなくらい長いまつ毛は偽物かもしれないが、パッチリ二重の深いブラウンの瞳に艶やかなピンク色のぷるんっとした唇。
見惚れてる場合じゃないんだけど…。
「その話は―――」
玄関先に数人の足音と共に口々に何かを叫ぶ男達の声が聞こえる。
その瞬間、いきなり理一(よしかず)は腕を引っ張られて畳の上に倒れ込んだが、痛いどころか柔らかいものが頬に触れる。
いつの間にか消された灯りに彼女の胸の鼓動だけが、理一(よしかず)の耳に響いていた。
『あの女、どこへ逃げたんだ。ったく、余計なことをしやがって』
男達の会話に理一(よしかず)は、彼女は追われていたのだと理解する。
どうして、こんなことになったのか理由はわからない。
いや、わかる必要など今の理一(よしかず)にはなかったと言っていいだろう。
できれば一分一秒でも長く、このままの状態でいたかったから。
暫くすると男達も諦めたのか、声も足音も全く聞こえなくなっていた。
「ごめんなさい。いきなり上がり込んだりして。あの人達も諦めて帰ったみたいだから、私もそろそろ」
暗闇の中で彼女がどんな表情をしているのか。
そんなことより、今出て行って本当に大丈夫なのだろうか?
「俺はいいけど、大丈夫なのか?まだ、その辺にいるかもしれない」
「いたとしても、あなたに迷惑が掛かるようなことになったら大変でしょ?」
彼女はそっと理一(よしかず)から体を離すと壁沿いにゆっくり立ち上がって灯りを点ける。
パーッと室内が明るくなると理一(よしかず)にはホッとしたような、でも寂しいような…。
理一(よしかず)は、その辺に放り投げてあったヒールを大事そうに拾い集めてきちんと玄関に並べる。
その間、何もない部屋の中を眺め回していた彼女に、もう少し小奇麗な部屋だったらと思ったってこれが現実。
家賃を取り立てに来た強烈なオバサンでなくて、こんな綺麗な女性がひと時でも飛び込んで来てくれたのだ。
それに、おいしい思いもさせてもらったし。
「汚い部屋だろ。6畳一間でお風呂なし、トイレは共同。これでも立地がいいから、3万5千円もするんだぜ。それも、随分滞納してるんだけどさ」
こんなことを初対面の彼女に話す必要などなかったけれど、自然に口から出てしまった言葉だから引っ込めるわけにもいかなかった。
「もしかして、食事はこれ?」
レジ袋一杯のカップ麺を食べた後の空の入れ物を見て、彼女はそう思ったのだろう。
これも隠す必要はない。
どうせ、もう二度と会うこともないだろうし。
理一(よしかず)が「あぁ」と頷くと、彼女は心配そうな表情でひと言「体に悪いわね」。
俺だって、いつまでもカップ麺を食べ続け、家賃を払えるかどうかのギリギリの生活を続ける気はサラサラないし、このこのまま終わろうなんて思ってもいない。
いつか必ず、勝利者になってみせる。
ただ、そのキッカケが掴めないだけなのだと。
「かくまってくれたお礼っていうわけじゃないんだけど」
彼女が理一(よしかず)の前に差し出したのは、一枚の名刺。
黙って受け取り見ると、そこには天沢 菊音(あまさわ きくね)と書いてあった。
意外にも古風な名前に聞いたことがない社名、しかし、肩書きにあった代表取締役社長という文字は見逃さないわけにはいかない。
追われていたところといい、これはかなり怪しい人物なのではないだろうか?
「今の生活を抜け出したいって思うなら、いつでもここへ来て。待ってるから」
「じゃあ」と出て行こうとする彼女、振り返ってもう一度、理一(よしかず)を見つめる。
「最後にあなたの名前を聞かせてもらっても、いいかしら?」
「俺は、石動 理一(いするぎ よしかず)」
「石動(いするぎ)?珍しい名前ね」
「忘れないわ」と右手を軽く挙げて、今度こそ彼女は部屋を出て行った。
NEXT
BACK
EVENT ROOM
LOVE STORY
TOP
Copyright(c)2006-2013 Jun Asahina,All rights reserved.