一番嫌いで好きなヤツ
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R-18

今日は、散々な一日だった。
季節は梅雨が明けたばかりで夏真っ盛り、いつも明るいうちに退社していたが今晩は違う。
既に外は暗闇に包まれて、隣のビルの灯りしか見えない。
ふぅーっと一度大きく息を吐くと、薄暗い玄関ロビーの自動ドアを通り抜けた。

平野 あずさ(ひらの あずさ)は、大手コンピューターメーカーに勤めて5年目になる。
あずさは社内のイントラやメール、その他業務システム等を管理する情報システム部に所属していたが、自らの操作ミスでシステムをダウンさせてしまったのだ。
一般の業務に影響が出たのはほんの数時間だったために大事には至らなかったけれど、午後はずっとそれにかかりきりでシステムを完全に復旧させるのに思った以上に時間がかかり、それが終わったのは20時を過ぎたところだった。
普段はそんなことを絶対にしない優秀なあずさだったから誰一人責める者はいなかったけれど、そのことがかえって心苦しかった。
そんな悶々とした気持ちを引きずりながら家路に着こうとしていた時、一人の男に声を掛けられた。

「平野っ」

今の状態でなら、一番会いたくない相手。
顔を見なくても声を聞いただけで、わかってしまう。

「 ―――清家 」

彼の名前は、清家 一磨(せいけ かずま)。
5年前にあずさと同期入社して同じ部に配属になって以来、ずっと一緒に会社生活を送っている男だった。
清家は長身で甘いマスク、同期でもNo.1と称されるいい男だったが、そんな彼のことをあずさはどうしても受け入れられなかった。
元々いい男というのは自分には縁の無い人間だと思っていたし、自ら関わることを避けていたのだ。
なのにこの男はあずさにちょっかいを出しては痛いところをついてくる、勘が鋭いと言うかなんというか…。
だから素直になれなくて、彼と話すといつも喧嘩越しになってしまうのだった。

「お疲れさん。今日は、大変だったな」

いつになく優しい清家の言葉に、なぜか胸の奥がジンと熱くなる。
清家は同じ部だけれどグループが違うため、今回のことで巻き込むことはなかった。
それが、せめてもの救いだったかもしれない。
清家にだけは、借りを残したくはなかったから。

「まぁね」

あずさは、苦笑いを浮かべるしかなかった。
いつもならこんなふうに言われるとつい、つっかかってしまうのだけど、さすがに今日はそんな気力もない。
本当なら、誰にも会わずに一人で帰りたかった。
お互い無言のまま、肩を並べて駅までの道のりを歩く。

「なぁ、せっかくこうして二人きりになれたんだから飯食ってこうぜ」
「え?」

あずさは、足を止めると頭ひとつ違う彼を見上げた。
―――何で、私が清家とご飯を食べに行かなきゃいけないの?
だいたい、清家とご飯を食べるのと『二人きりになれたんだから』という言葉が繋がらない。

「そんな、あからさまに嫌そうな顔するなよ。お前、すぐ顔に出るからな。いくら見慣れているとは言っても俺だって結構傷ついてるんだから、一回くらい付き合ってくれても罰は当たらないだろう?」

―――だったらなぜ、誘ったりするの?同情?哀れみ?
清家の気持ちがわからなかった。

「まあ、お前もこんな状態だし、俺も無理には誘わないけどさ」

彼の少し寂しげな表情を見たら、無下に断ることもできなかった。

「いいよ、一回だけなら付き合ってあげる」

頭で考えるよりも、言葉の方が先に出ていた。
言っている自分でも驚いてしまうくらいだったが、それは清家も同じだった。

「本当か?じゃあ、お前が元気になるようなものを食べさせてやるよ」

そう言って、清家は白い歯を見せて笑った。
5年も一緒にいたのにこんなふうに話したのは、今が初めてのような気がする。
そして彼のこんな笑顔を見るのも―――。



そんな、清家の案内で連れて来られたのは…。

「とんかつ?」
「そう、とんかつ。ここ、すごく美味いんだぜ」

呆気にとられているあずさを他所に清家は、ガラガラッとドアを開けると彼女の背中を軽く押した。
あずさは清家にされるがままに店内に入ると、カウンター越しに並んで座った。

「中ジョッキと特上ロースヒレ定食2つ」

座るや否やあずさの意見など聞く間もなく、清家はお茶を持って来た女将さんに言った。
こういう強引なところが、清家らしいというかなんというか…。
あずさは、知らず知らずのうちに笑みを浮かべていたようだった。

「何、笑ってんだよ」
「だって、清家らしいなって思って」

尚も笑い続けるあずさに清家は少し不満のようだったが、「お前は、笑ってる方が似合ってるよ」とさりげなく言われた言葉に一瞬固まった。
ほどなく、女将さんが持って来たジョッキを清家は手に取ると言う。

「まあ、失敗は成功の元だ。あんまり気にするな」

清家は勝手にあずさのジョッキにカチンと自分のジョッキを合わせると、一気に半分ぐらい飲み干した。

「何それ」

あずさも負けじとジョッキを口にする。
暑い日の一杯は格別だ。
清家なりの慰めの言葉なのだろうが、見かけによらずスマートじゃないところもやっぱり彼らしいのだと思った。
特上ロースヒレ定食を勝手に頼んでとあずさは思ったが、その味は絶品だった。
清家いわく、ここでこれを食べなきゃもぐりだそうだ。
あずさはほろ酔い気分と美味しいものを食べた満足感で、今日の失敗が遠い昔のことのように感じられていた。

「お前さ、ここ何日かずっと変だっただろ。何か、あったのか?まあ、大方お前のことだから、男にフラれたとかそんなところだろうけどさ」

何気なく言ったであろう清家の言葉が当たっていただけに、あずさは言葉を返すことができなかった。

「図星か?」

―――どうして、この男はこんなにも鋭いのだろうか?まるでずっと見ていたみたい…。

「悪かったわね。どうせ、男にフラれたわよ。だいたい、何でそんなことわかるわけ?」
「そりゃあ、見てればわかるだろう?」

清家は、煙草の箱をあずさに見せると一言断ってそれに火をつけた。
その仕草があまりにもさまになっていて、つい見惚れてしまう。

「見てたってなによ。ストーカーじゃないんだから、人のこといちいち監視しないでくれる?」
「理由は、何なんだ?」

真顔で聞かれて話が反れてるって思ったけれど、言葉が出てこなかった。
あずさは清家から視線をカウンターに置かれた自分の手に移すと、あの日のことを思い出していた。
あれは一週間ほど前のこと、急に呼び出された彼に他に付き合っている人がいる、その人に子供ができて結婚するから…別れてくれと… 。
3年間付き合っていた彼にフラれたのだ。
まさか、自分が浮気されるとは思ってもみなかった。
理由を問いただすと彼は渋々という感じで話し始め、半年ほど前からその彼女との関係は始まっていたのだということだった。
彼は、1歳年上で大手旅行会社の支店に勤めていた。
あずさが会社に入って2年目の冬のある日、大学時代の友人とスキーに行く予定を立てていて、それを申し込んだのが彼のいる旅行会社の支店だったのだ。
何度か足を運ぶうちに意気投合して、彼の方から付き合って欲しいと言われた。
彼は目立ってカッコいいとかそういうタイプの人ではなかったけれど、温厚でとても優しい人だったから、あずさが気が付かないうちにその優しさに甘えてしまっていたのかもしれない。
だからぼんやりとだが、このまま一生を共にしてもいいとさえ思っていた。
あずさが望んだ恋愛像には程遠かったけれど、そういう平凡な幸せもあるのだと…。
付き合っている時は特に抱かなかった感情も、別れてみて初めて彼への想いが予想以上に深いものだったと思い知らされた。
それが一週間を過ぎた今でも尾を引いている自分が情けないとは思ったけれど、どうすることもできなかったのだ。
どこかで、彼は自分からは離れていかないと思い込んでいたのだと思う。
3年間付き合っていながら、彼の本心までは理解できなかったのかもしれない。
走馬灯のようにあの時の光景が目に浮かんでくる。
それを思い出しながら、ふと隣の清家の顔を見ると「出ようか」、さすがにこの場所では話しにくいと思ったのだろう。
彼は立ち上がるとあずさが自分の分は払うからという言葉も聞かずにとっとと会計を済ませると店を出た。
暫く歩いていると公園の前を通りかかる、どちらからともなく中に入って行くと隅にあったベンチに腰を降ろした。
誰もいない夜の公園は、やっぱりどこか寂しい雰囲気が漂っている。
あずさが口を開くまでは言葉を発しないつもりなのか、清家はさっきから一言も話そうとしない。
そんな沈黙を打ち破るようにあずさが口を開いた。

「私、浮気されちゃった。半年も気付かなかったなんて、鈍いにもほどがあるわよね。それに相手の彼女妊娠してて、だから結婚するんだって…とんだ茶番劇…」

あずさは努めて明るく振舞ったが、なぜ清家にこんなことを話しているのか…自分でもよくわからなかった。

「そっか…」

そんなあずさのことをわかっているのか、清家の顔は神妙な面持ちだった。

「何よ、清家ったらそんなシケタ顔しちゃって。私のことなら気にしなくてもいいわよ。フラれたことなんて全然気に―――」

してないと言葉を続けようとしたが、知らぬ間に涙が止め処となく溢れてきて、最後は声にならなかった。
彼に別れ話を切り出された時も辛かったけれど、不思議と涙は出なかったのに…。
―――なのに何で…、それもよりによって清家の前で涙を見せるなんて…。
いくら止めようと思って、意思に反して勝手に目から涙がこぼれてくる。
すると不意に身体が横に引き寄せられた。
背中に力強く、それでいて温かい清家の腕があずさをしっかりと抱きかかえていた。

「清家…」

あずさは、清家の胸に顔をうずめたままで彼の名前を呼んだ。

「何も言わなくていい、悲しかったらいくらでも泣いていいんだ。我慢するな。俺がいつでもお前に胸を貸してやるよ」

耳元で優しく囁かれて、あずさの中で何かが音を立てて崩れた。
子供みたいに声を出して泣き続けたが、その間中ずっと彼は背中を擦っていてくれた。
上下する彼の大きな手が、とても心地よかった。
―――清家って痩せてるんだと思ってたけど、結構がっしりしていて胸板も厚いんだ…。
少し落ち着いてくると、そんなことも頭は考えようとする。
それがわかったのか清家はゆっくりとあずさから離れて、彼女の濡れた頬を撫でるように手で拭った。

「せっかくの可愛い顔が、台無しだな」

化粧も涙でぐしゃぐしゃになっているのだろう。
清家の微笑が、今はとても眩しかった。

「清家って、意外に優しいのね」
「なんだ、今頃気付いたのか?俺は、いつだって優しい男だぞ?」

清家が少し拗ねるように言ったのが、なんだか可愛いと思った。
今更思ったが、あずさがそれに気付かなかっただけで、彼はいつでも優しかったのかもしれない。
そうやって、自分の気付かないところで相手を傷つけていたのかも… 。
元彼にしても、清家にしても…。

「清家、ごめんね」
「うん?」

清家は、あずさの顔を覗き込むように見つめる。

「私、清家を傷つけてた。それなのに…」

彼は、こんなふうにあずさを慰めようとしてくれてるのに…また、涙が目から溢れ出した。

「オイオイ、平野泣くなよ。今は、俺のことなんて考えなくていいんだから」

「なっ」って言いながら、いつまでも泣きつづけるあずさの背中を清家は子供をあやすようにポンポンと叩いてくれた。

「お前さ、あんまり自分を責めるなよ。お前が悪いんじゃないよ、その男がお前のことをわかってなかっただけだ。…でも、俺はその男に感謝したいな、お前をフッてくれてありがとうってな」
「何よ、それっ」

あずさは、今の清家の言葉ですっかり涙が止まっていた。

「そのままの意味だけど?俺さ、ずっとこの機会を狙ってたんだよ」
「狙ってた?」

―――それは、どういう意味?

「こんな時に言うのもなんだけど、今言わないとお前、俺の話を聞いてくれなさそうだからな」

清家はそう言って一呼吸おくと言葉を続けた。

「俺、お前のことが好きだよ」

あずさは一瞬、清家の言葉の意味が理解できなくて、大きな目をより一層見開いた。

「う…そ…」
「本当だよ。俺はお前への気持ちを全面に出していたつもりなんだけど、お前鈍いから気付かなかっただけだろう?」
「悪かったわね。鈍くて」

まだ清家の腕の中にいたあずさは彼から離れようとするが、自分を抱きしめている彼の腕の力が一層強まって離れることができなかった。

「やっと捕まえたんだ、もう離すつもりないから」
「なっ!?」

目の前にはニヤッと意地悪く笑う清家の顔があったが、すぐにあずさを包み込むような優しい笑顔に変わった。

「大丈夫だよ。俺は、お前を絶対に裏切らない」

まだ何も言っていないのにどうしてこの男は、あずさの心の中をいとも簡単に見透かしてしまうのだろうか?

「俺は、5年待ったんだ。その間、お前に男がいてもどんなに冷たくされても気持ちは変わらなかった。それに俺は顔もそこそこいいし、仕事もできる、こんないい男そうそういないぞ?あっ、心配しなくてもお前は絶対俺のこと好きになるよ」
「え…」

―――普通、自分でここまで言う?
まぁ、清家じゃなかったらこんなこと言わないだろうけど。

「すっごい自信」
「当たり前だろ?これくらいの気持ちがなかったら、本気で好きな女に告白なんかできねえよ。言っとくけどな俺はお前と遊びでなんかで付き合うつもりはないからな、覚悟しろよ」

―――覚悟しろって…これって、プロポーズみたいなものよね?
あずさは、あまりにも唐突な清家の言葉に困惑するしかなかった。
この男は強引だとは思っていたけれど、ここまでとは…。
反面、どこかで嬉しいと思っている自分がいることも確かだった。
でも…自分は、そこまで清家に想われるような人間じゃない。

「そんな顔するなよ。また、自分はそんなんじゃないとか思ってるだろう。いいか?お前は黙って俺に付いてくればいいんだよ。お前が側にいてくれれば、俺はきっと幸せだから」

どうして、あずさが一番欲しい言葉を清家は何も言わなくても掛けてくれるのだろうか?
また涙が溢れそうになるのをこの時だけはぐっと堪えてあずさは言った。

「私のこと泣かさない?私、気も強いし可愛くないし、それでもずっと好きでいてくれる?」
「あぁ、約束する。絶対に泣かさないし、気が強いところも本当はすごく可愛いのに自分だけ可愛くないって思ってるところも、全部ひっくるめてお前のこと一生好きでいるよ」

清家の大きな手があずさの頬をそっと撫でると、それが合図かのようにあずさはゆっくりと瞼を閉じた。

「愛してる―――」

清家の唇が、あずさのそれと重なった。
何度も何度も角度を変えて繰り返される口づけにあずさは今にも溶けてしまいそうだった。
今まで、こんな優しくて甘いキスをしたことがあっただろうか?
お互い名残惜しさを残して唇を離すとあずさの口から甘い吐息が漏れた。

「お前、俺を誘ってるのか?そんな顔されたら抑えられないだろ。もう、今夜は帰すつもりないから」
「ちょっ、何言ってるのよ!」

がっしりと彼に腰を抱かれたまま、あずさは公園から連れ出されていた。


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