赤と黒
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谷野 律花(やの りつか) 広告代理店 インターネット部門 チーフエンジニア 32歳 独身。。。

この会社に入社して、今年でちょうど10年目。
律花は、大手広告代理店インターネット部門のチーフエンジニアとして部内を取り纏めている、いわば責任者。
周りの誰も、当の本人が一番驚いているのだが、まさか仕事に生きる女になるとは思ってもいなかったのだから。

南雲 綴(なぐも つづり)が、この部門に異動してきて3ヶ月、相変わらずの無表情に無反応。
長身で、誰もが見惚れる容姿なのになぜか愛想がない。
まるでガラス細工の人形のよう、というのが律花の第一印象だった。
入社後ずっと営業にいたのだが、出身が工学部ということもあって腕を買ってインターネット部門に引っ張ったというわけだ。
近年、企業はホームページでの広告に力を入れ始めている。
律花の部門は人員を増強して対応中だったが、それでも間に合わないくらいの仕事に追われる日々が続いていた。

―――あぁ〜あ、疲れたなぁ。

こんな時、慰めてくれるような優しい彼氏でもいれば…いや、旦那様かな。
恋なんて、いつ以来していないのだろうか?
それすら忘れてしまうくらい、仕事漬けの毎日だったのだと改めて認識させられる。
犬が好きで休みの日には隣の家の犬の散歩をさせてもらうことはあるが、仕事で疲れて帰った夜に癒してくれる愛犬がいればどんなにいいかと思う。
でも毎晩遅いのでは世話もできないし、せいぜい植物を育てるのが精一杯。
でも、気持ちが伝わらないからつまらない。
友達を誘って飲みにでも行けばいいと思うが、生憎律花の友達は全て既婚者で、すっかり家庭に入ってしまっている人ばかり。
同期も既婚者で共働きしている子しか残っていないし、かといって社内の同僚は、自分を上司という目で見ているから誘っても誰も付き合ってはくれないと八方塞の状態だ。

―――あぁっ、もう!週末だってのに何で残業なのよっ。それも私だけ…。

周りを見れば、まだ19時にもなっていないというのにすっかり誰もいない。
忙しいといっているわりに、みんな帰るのが早いのはなぜなのか?
だから、仕事に生きる女などと影で噂されてしまうのかもしれない。
律花は元来の負けず嫌いの性格に加えて、真面目に物事に取り組みすぎる傾向がある。
適当に済ますことができないのだ。
だからミスも少ないし、信頼も厚いが、それだけ本人の負担が大きくなるのは目に見えている。

背もたれの高い椅子を回転させて窓越しに立ち上がると、日が短くなったせいかこの時間でも夜景が綺麗に見える。
管理職に就くとなぜか窓際に背を向けてデスクに向かうようになり、意識しなければせっかくの綺麗な景色も壁と同じだなと思う。
りに見惚れていると、誰もいないはずなのにふとガラス越しに人影が映ったのが見えた。
―――誰か、まだいるの?
反射的に振り返って見ると、そこにいたのは南雲 綴(なぐも つづり)だった。

「南雲君、いたの?」

すっかりみんな帰ったと思っていたが、綴(つづり)が残っていたのには気付かなかったが、相変わらずの無表情で、自分の席に座ってパソコンの画面に向かう。
静かな部屋にキーボードを叩く音だけが、響き渡っている。
律花は暫くの間、彼の様子をじっと見ていた。
愛想はないが、仕事はきっちりとこなす意外に真面目な青年だ。

―――やっぱり、綺麗な顔してるわ。

睫毛は長いし、二重瞼で切れ長の目は一度見たら絶対に忘れないだろう。
あの目で見つめられたら、一撃だと思う。

―――南雲君って、彼女にもあんなに無表情で無反応なのかしら?

素朴な疑問だが、もしかして愛しい相手にはメロメロなのかもしれない。

―――うわぁ、あの南雲君が彼女には笑ったりするわけ?想像できな〜い。

部内一ムードメーカーの佐々木がどんなに面白いことを言っても、綴(つづり)は絶対に笑わないし、顔色ひとつ変えないが、特別な存在にだけは本当の自分を見せているかもしれない。

「谷野チーフ、俺の顔見ながら何百面相してるんですか?」

いきなり綴(つづり)に視界いっぱい顔を近づけられて、焦点が合わない律花は一気に後ろに仰け反った。

「ほぇ?!」

そして口から出た言葉は、なんとも間抜けなもので…。
だけど…心なしか、綴(つづり)が微笑んでいるように見えたのは気のせいだろうか?

「チーフ、もう帰りましょう。これじゃあ、仕事になりません」

そう言ったかと思うと、綴(つづり)は自分のデスクの上を片付け始めた。
それをじっと見ていた律花は、今起きた状況が頭の中で処理できていない。

「チーフ、何ボーっとしてるんですか?早く片付けてください。電源切っちゃいますよ」

ハっと我に返ると、律花は綴(つづり)に言われるままにデスクを片付け始めた。
どうせこんな週末に誰もいない職場では、馬鹿馬鹿しくて仕事をする気にもならない。

「はいはい、ちょっと待って。今、片付けるから」

―――南雲君って、こんな人じゃなかったはずなのに。
どうもしっくりこないが、現に目の前にいる彼は南雲 綴(なぐも つづり)なのだから、受け入れるしかなかった。

綴(つづり)に言われて勢いでオフィスを出たはいいが、時計を見れば中途半端な時間である。
―――せっかくだから、行きつけのお店にでも寄って行こうかな。
なんとなく駅までの道のりを二人で肩を並べて歩いていたが、綴(つづり)の家はどこなのだろうか?
彼が異動してきた時の歓迎会には出席したものの、あまり話はできなかったから、そういうことはまったく聞いていない。

「南雲君の家って、どこなの?」
「俺ですか?用賀ですよ」
「へぇ、用賀なんだ」

律花は1つ先の二子玉川に住んでいるから、案外近いところに彼が住んでいたのだなと今更になって知った。

「チーフは、どちらに住んでいるんですか?」
「私?南雲君の隣の駅、1つ先の二子玉川」
「そうなんですか?俺、休みの日とかよく出かけますよ」

二子玉川はお洒落な店も多く賑わっているが、律花の住む家は駅を挟んで反対側にあるせいか滅多に寄ることはない。
休みの日はもっぱら、隣の家の愛犬と川原に散歩というのが日課だった。

「そっかぁ、南雲君は似合いそうね。彼女とデート?羨ましいなぁ」

彼女と歩いてる綴(つづり)は、まるでモデルのようなんだろう。
オープンテラスでくつろいでる二人を想像すると、なんとも羨ましい限りである。

「まぁ、俺にはそういう彼女はいないのでひとりですし、ステーショナリーとか本屋にしか行きませんから」
「え?南雲君、彼女いないの?なんか意外」

―――絶対、彼女はいると思っていたのに。

「そうですか?そういうチーフこそ、どうなんですか?」
「私?あはは、ないない。こんな仕事に生きる女なんて、誰も相手にしないもの。じゃなきゃ、週末に残業なんてしてないわよ。それにね、こんなに早く帰ることなんて滅多にないから、余った時間をどうすればいいのよって思ってるし」

自分で言ってて悲しくなるが、さすがに30過ぎると誰も相手にしてくれなくなる。
25までが華だなと、つくづく実感してしまう。
それに早く帰って、何していいかわからないなんて、どうよ?

「すみません。俺、無理にチーフの仕事切り上げさせて」
「別に構わないわよ、なんかやる気もなかったし」

申し訳なさそうにしている綴(つづり)を見ている方が、余計虚しくなってくる。

「あーもう、そんな顔しないでよ。だったら、南雲君ちょっと付き合ってくれる?言い出しっぺはあなたなんだから、責任取ってよね」

自分でも何でこんな言葉が口から出てきたのかわからなかったが、言ってしまったものはしょうがない。
一瞬戸惑った表情を浮かべた綴(つづり)だったが、すぐに今まで見たことがないような笑顔を律花に向けた。
あまりに綺麗で、それでいて柔らかい笑顔に釘付けになった。
不覚にも、7歳も年下の男性に時めくとは…。
なんとか動揺を気付かれないよう、律花は拗ねたような視線を綴(つづり)に向ける。

「わかりました。今日は、チーフにとことん付き合います」

上司に言われて綴(つづり)は断れなかったのだとこの時律花は思っていたが、どうやら違っていたことをまだ知らない。


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