綴(つづり)を連れて行ったのは、三軒茶屋にある小さなダイニングバー。
学生時代にサークルの先輩に連れられて来たのがきっかけだが、かれこれ10年以上通っていることになるのだから、時が経つのは早い。
「マスター、お久しぶりです」
「いらっしゃい、律花ちゃん」
この店のマスターは50に届くか届かないかという年齢だが、とにかくイカス・オジ様なのだ。
「ずっと顔を見せないから、心配してたんだよ」
「すみません。仕事が忙しくて」
律花の後ろにいた綴(つづり)を、マスターが驚きの顔で見ている。
いつもここへは数人の友達か、最近はめっきりひとりでしか来ないので、若い男性と二人で来たのが余程珍しかったのだろう。
「とか言いながら、こんなカッコいい彼氏見つけちゃって。律花ちゃんも、隅に置けないなぁ」
「あはは、マスターったら。彼は、彼氏なんかじゃないですよ。一応、私の部下です」
カウンター越しに立ったままの律花と綴(つづり)を見たママさんが、立ち話もなんだから座ったらと目の前の席を勧めてくれ、お絞りを受け取る。
ママさんはマスターよりも幾分若いと聞いているが、まだ30代でも十分いける位、控えめだけど美人で優しくて律花の憧れの人でもあった。
こんなふうに夫婦で素敵に歳を重ねられたら幸せだろうなと、ここへ足を運ぶ度に見せつけられる。
「そうなのかい?」
「そうですよ、紹介しますね。彼は、南雲 綴(なぐも つづり)君。3ヶ月前に私が無理言って、営業から引き抜いて来たんですから」
これは綴(つづり)にも言っていないことだったが、実は律花が営業部長のところへ出向いて、彼を引き抜いてきたのだ。
営業部長はなかなかうんとは言ってくれなかったのだが、最後には律花に根負けするようにして許可してくれた。
「そりゃあ、たいしたもんだ。綴(つづり)君、律花ちゃんに見初められるなんて凄いじゃないか」
「マスター、私に見初められても凄くなんかないですよ。それより、すっごくお腹空いてるんですけど」
「わかったよ。じゃあ、律花ちゃんのために特製ピザ作ってあげるから」
「やった!マスターのピザめちゃめちゃ美味しいから、大好き」
このお店はお酒がメインだが、料理もかなりレベルが高い。
特に生地から作るピザは絶品で、他の店で食べられなくなるほどだ。
律花が来ると、マスターはメニューにないオリジナルのピザを作ってくれる。
見かけによらず大食いの律花のために、きのこやチーズがたっぷりのったスペシャルバージョンを用意してくれるのだ。
「南雲君は、何飲む?ワイン、日本酒、ウィスキー、焼酎にビールの種類もたくさんあるし、カクテルも希望を言えば作ってくれるから」
「じゃあ、ギネスお願いします」
「おっ、南雲君は黒が好きなの?だったら、私はあれにしよっかな」
マスターに向かって律花が赤と黒お願いしま〜すと叫ぶと、オッケーという声が奥から聞こえた。
「ここね、大学生の頃にサークルの先輩に連れて来てもらってから、かれこれ10年以上通ってるの。ずっと変わらなくて、唯一私が落ち着ける場所かな」
律花は生まれも育ちも東京だったが、目まぐるしく変化していく中でこの店だけが変わらぬ空間を保っていてくれる。
落ち込んだ時も嬉しいことがあった時も、いつもマスターとママさんが優しく迎えてくれた。
「そうですか、いいですねそういう場所があるって」
「でもね、最近全然来てなかったのよ、仕事仕事でね。さっきはあんなこと言っちゃったけど、南雲君が帰ろうって言ってくれなかったらこんな機会なかったかな。ありがとう」
さっきは責任取ってなどと言って、ここまで付き合わせてしまったが、綴(つづり)が帰りましょうと言ってくれなかったら、いつここへ来れたかわからない。
マスターとママさんの顔を見ただけで、こんなにも心が和んで穏やかな気持ちになれているのも、綴(つづり)のおかげと言ってもいいくらいだ。
「そんなこと…俺は、チーフにお礼を言われるようなことは何もしてません」
慌てて否定する、綴(つづり)。
そういうところが、今時の若者と違って生真面目だなと律花は思う。
そんなことを考えていると、ママさんがビールを運んで来た。
ギネスの黒とレッド・バッハの赤が、なんとも言えない雰囲気をかもし出している。
「赤って、それですか?」
「そう、レッド・バッハっていうの。綺麗でしょ?」
そう言って、お互いのグラスをカチンと合わせた。
果実の香りと酸味が口の中に広がって、思わず言葉が出る。
「「美味しい」」
まるで申し合わせたように重なった声に、二人顔を見合わせて笑い合う。
―――南雲君って、こんなふうに笑うんだ。
愛しい人の前では、笑顔を見せるのだろうか?などと想像していたが、案外簡単に外では笑顔を見せているのかもしれない。
「南雲君って、笑わないんだって思ってた。」
「ロボットじゃないんですから、そりゃあ俺だって笑いますよ」
「そうだけど、会社ではいっつも無表情で無反応なんだもの。なんだか、ガラス細工の人形みたい」
言ってしまってから、しまった!!と思っても、もう遅い。
―――私、かなり失礼なことを言っちゃったわよね。
「ごめんね。変なこと言って」
「いいえ。友達にもよく言われますし、自分でもそう思ってますから」
「え?」
自分のことをガラス細工の人形だとあっさりと認めてしまった綴(つづり)が、なんだかとても寂しそうに見える。
「俺、小さい頃からうまく自分を表現できなくて。いつの間にか、無表情で無反応な人間になってました」
綴(つづり)には10歳上の兄と8歳上の姉がいて、物心ついた時から周りは既に大人の世界だったせいか、子供らしさというものを知らずに今まできてしまった。
また、両親もそういう綴(つづり)をなんて聞き分けのいい子だろうと誉めたのだ。
家族の中ではそれが普通だったのだが、外に出てみると同年代の子供とはかなり違う綴(つづり)に対して、世間は子供らしくないだのマセているだのと口々に発した。
しかし、ずっとそうやって育ってきた綴(つづり)には急に両親や兄姉に甘えることなどできるはずもなく、気付いたら感情をうまく表現できない人間になっていたのだ。
「そっか。でもさっきはあんまり自然だから、そんなふうには感じなかったけど」
会社での綴(つづり)は、確かに無表情で無反応だったが、今横にいる彼はどこにでもいる普通の25歳の若者だった。
「実は、自分でもちょっとびっくりしてます。チーフって不思議ですよね、会社では仕事をバリバリこなすデキル女性って感じなのに今は全然違います」
「これでも頑張ってるのよ。会社では、ボロがでないように」
律花は綴(つづり)の言うように仕事をバリバリとこなすキャリアウーマンの典型のように映っているが、実際はまったく違う。
子供の頃はおっとりした性格でドジばかり踏んでいるから、親も友達も兄弟もハラハラのしっぱなしだったのだ。
律花自身もみんなが助けてくれると思っていた部分が、少なからずあったのかもしれない。
それが一変したのは、就職活動を始めた頃だったと思う。
色々な企業を回って行くうちにいつまでも人を頼って生きては行けないのだと気付き、心機一転自分を変えた。
負けず嫌いの性格が良かったのか悪かったのか、会社に入社してからの律花は全くの別人と化していたのだ。
律花の学生時代までのことを知る友達などは、今の彼女の変貌振りが未だに信じられないでいるのも頷ける。
それだけ、変わってしまったということなのだろう。
しかし、手を抜けば元の自分に戻ってしまう。
たまに友達に会って話をするとあの頃のままの律花に逆にみんながホッとしたりもする反面、頑張り過ぎなければという心配もあるのだ。
「今のチーフの方が、俺は好きですよ」
「え?」
なんだか、さらりと凄いことを言われたような…気がするが…。
「私も、今の南雲君の方が好きかな。だけど、それで会社にいられたら仕事にならないわね」
そんな悩殺笑顔を振り撒かれたらみんなの視線が一気に集まって、仕事になんかならないに違いない。
などと話をしていると、マスター特製のピザが焼けたようだ。
「はい。律花ちゃん&綴(つづり)君スペシャルだよ」
「わ〜い。でも、マスターこれ凄くないですか?」
いつもの倍くらいの大きさがあって、トッピングの量も半端じゃない。
まさにスペシャルとしか、言いようがないくらいだ。
「二人のために、オジサン頑張ったからね」
お茶らけて言うマスターに、また律花と綴(つづり)の顔に笑顔が宿る。
「熱いうちに食べて。まだまだ、料理はいっぱい出てくるからね」
久しぶりに訪れたせいか、マスターはとても張り切っている様子。
こんなに食べられるかしら?という疑問も、湧かないでもないが…。
「南雲君、食べよ」
「はいっ」
頂きま〜すと言うや否や綴(つづり)はもう我慢できないといった顔で、ピザにかぶりついた。
結構豪快な食べっぷりに、律花も負け時とピザを口に入れる。
―――やっぱり、マスターのピザは美味しい。
「すっげぇ、美味いです。俺、こんな美味いピザ食べるの初めてですよ」
「でしょ?他のお店では、食べられなくわるわよ」
綴(つづり)は律花の心配を他所に次々出てくる料理を全て平らげ、お酒もガンガン飲んでいた。
「南雲君、いい食べっぷりに飲みっぷりだわ」
「すみません、俺ばっかり」
「全然、見てて気持ちいいくらい」
「チーフも、俺に負けず劣らずの食べっぷりに飲みっぷりだと思いますけどね」
「よく言われる。どこに、こんなに入る胃袋があるのって」
律花の身長は162cmと普通だが、線はやたらに細い。
子供の頃のあだ名はマッチ棒というくらいだから、想像がつくだろう。
なのにも関わらずよく食べてよく飲むから、みんながどこにそんなに入る場所があるのかと不思議がる。
「でも、ちょっと飲みすぎた。南雲君、強過ぎ〜」
さすがの律花も日頃の仕事疲れもあってか、カウンターに突っ伏すとすっかり眠りの底についてしまったようだ。
綴(つづり)の歓迎会の時も二次会まで律花は付き合っていたが、かなり周りに飲まされていてもこんなふうに寝てしまうなどということはなかった。
余程、会社では気を張っているのだろう。
30そこそこで他部署の部長相手に対等に張り合うなど、綴(つづり)には想像もつかないことだった。
年齢も性別も区別なく扱ってくれる寛大な社風ではあっても、やはり気を使っていることは知っている。
ましてや、さっきの話を聞けば尚更に違いない。
「あ〜。律花ちゃん、眠っちゃったか」
「えぇ」
マスターはママさんに言って、ハーフケットを律花に掛けさせる。
寝顔は穏やかで、それでいて目が覚めるほど美しい。
思わず見惚れている綴(つづり)をマスターが、微笑ましく見ていたことなど気付かなかった。
「律花ちゃん、疲れてたんだろうな。こんなに細い体で、頑張っててさ」
マスターの言葉に、綴(つづり)も同意の意味を込めて頷く。
「綴(つづり)君、律花ちゃんのこと頼むよ」
「俺なんて…何の役にも立てなくて、足を引っ張ってばかりです」
「そんなことないと思うよ。今日の律花ちゃんとてもリラックスしていたようだし、いい気分転換になったんじゃないかな」
インターネット部門に異動になって3ヶ月になるが、大学ではネット構築などの勉強はしていたものの、実践となると勝手が違う。
慣れないことも多く、期待ほど戦力にはなっていない自分が情けない。
「今日は、俺の方が楽しませてもらったと思います。チーフには無理に仕事を切り上げさせてしまって、その後のことまで頭が回りませんでした。そういうところ、全然気が利かなくて」
「綴(つづり)君と律花ちゃんって、どこか似てるよね、不器用なところとかさ。もっと自分を出していいと思うよ、恥ずかしいとか考えないでね」
―――チーフと俺が、似ている?
一度も考えたことなど、なかったことだった。
律花はとても綺麗で仕事ができて、明るくて誰もが憧れる女性だったが、綴(つづり)はというと容姿はともかく、無表情で無反応。
どこにも接点などあるように思えないが、ある意味本当の自分をさらけ出せないところなどはそう言えなくもないが…。
「綴(つづり)君も、律花ちゃんの前だと素の自分を出せるんじゃないのかい?」
「そうかもしれません。この場の雰囲気もあると思いますが」
律花ときちんと話をするのは初めてだったが、自分でも驚くくらい自然に話をできたと思う。
それはこの店の雰囲気とかマスターやママさんの優しさもあったかもしれないが、それだけではなかったのだろう。
律花には、寄りかかっていいような気がした。
甘えてもいいのかもしれないと。
「綴(つづり)君、律花ちゃんはちょっと強引に押し進まないとだめだよ。自分のこととなると、ものすごく鈍感だからね」
「え?」
綴(つづり)には、マスターの言っている意味がわからずに首を傾げる。
「隠しても、ダメだから」
ニコニコといや、ニヤニヤとと言った方が適切かもしれない。
マスターは、綴(つづり)を見つめる。
―――バレてる…。
どうやら、マスターに隠し事は通用しないようだ。
「どうして、わかったんですか?」
「そりゃあ、長年の経験と綴(つづり)君を見ていれば一発だよ」
マスターはいとも簡単に言うが、綴(つづり)は自慢じゃないが、他人に心の中を読まれたことなど一度もない。
それくらい顔に出ないということ、何を考えているのかさっぱりわからないと口々に言われることなのに。
「俺、チーフみたいに仕事もできないし、いつまで経っても追いつけそうにありません」
律花は、常に綴(つづり)の先を進んでいる。
この距離を埋めることは、まず不可能に近いだろう。
「いいんじゃないかな、無理に追いつかなくても。綴(つづり)君は、綴(つづり)君のペースでいけばいいと僕は思うけど」
「そうでしょうか?」
「そうだよ」
等身大の自分でいればいい。
無理に背伸びする必要もないのだから。
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