その声が好き
<前編>


「石川、まだ残ってたのか?」

周りを見渡すとフロアに既に人はいない。

「えっ、山口君こそどうしたの?今日は戻らないはずじゃなかったの?」

彼は他ビルにある関連部署に午後から出張に出ていて、今日は戻らないはずだった。

「あぁ、今まで打合せだったんだけど、明日急に大阪に出張になっちゃって、持って行く資料を取りに来たんだよ、朝一番の新幹線に乗らなきゃなんないからさ。それより、そっちはまだ終わらないのか?」
「うん、こっちも部長から明日朝一番の会議で使う資料を準備しておいて欲しいって言われたんだけど、結構量が多くって」

部長は定時間際に顧客先から電話を掛けて来て、FAXを送るからそれを打ち込んで、明日の朝一番の会議までに準備しておいてくれと言うのだ。
かなり量があったのと時間も時間だったから、いつの間にかこんなに遅くなってしまっていた。
新しく来た部長は若いせいかものすごく精力的に仕事をこなす人なので、あたしの方が面食らってしまってちょっとついていけないでいた。

「それなら、俺も手伝うよ。あとは、何が残ってるんだ?」

彼は、着ていたジャケットを脱ぎだした。

「えっ?いいよ、内容をチェックしてプリントアウトしたらコピーするだけだし、それに山口君だって明日は朝早いんでしょ?早く帰った方がいいわよ」
「すぐ終わるんだろ?だったら、尚更手伝うよ。大体なぁ、こんな時間に女の子1人残して黙って帰れるかよ」
「へぇ、山口君って紳士なんだ」
「お前、知らなかったのか?俺はいつでも紳士だろ?それより早く終わらせようぜ、半分俺がチェックするからさ」

そう言うが早いか、山口君はあたしから書類の半分を取るとチェックし始めた。
山口君とは3年前にこの会社に入社した同期で、本社の同じ部署に配属になったけれど、彼は半年ほどで他部署に派遣になっていて、つい一ヶ月ほど前にここに戻って来たばかりだった。
たまに打合せなんかで来ることはあったから、そういう時は同期で飲みに行ったりもしたけれどそれ以外あまり話をしたことはなかった。
彼は長身で端正な顔立ちから女子社員にもすごく人気があって、仕事もできるんだけど、それでいてどことなくクールな感じがなんとなく話しずらいってイメージがあったのは確か。
―――あたしなんてどこにでもいる平凡な女だから、同期でなければこんなに普通に話すこともなかったわね。

「ごめんね、疲れてるのに手伝わせちゃって」
「いいよ、倍にして返してもらうから」
「え〜、何それ」

あたしが膨れっ面で彼を見るとその顔が可笑しかったのか、彼はクスクスと笑い出だした。
あぁ、この人ってこんなふうに笑うのね。
知らなかったわ。

「今度、食事に付き合えよ」
「え?それって、あたしに奢れって言ってる?」
「そうじゃなくて、石川が俺と食事をしてくれればいいだけ。もちろん、俺の奢り」

―――どういうこと?
あたしの方が手伝ってもらってるのに山口君が奢ったんじゃ、意味ないじゃない。

「よくわからないんだけど、それだと山口君が損するだけなんじゃないの?」
「そんなことないぞ?同期で一番人気でガードの固い石川サンと食事ができるんだから、こんなチャンス滅多にないだろう?」
「はぁ?誰が一番人気で、ガードが固いのよ」

益々、言ってる意味がわからないんですけど。
それにしても、山口君には彼女いるんじゃないの?あたしなんか、誘ってる場合じゃないと思うんだけど。

「それとも、彼氏とかいるのか?」

―――え?それは、こっちの台詞なんだけど。

「そっ、そんなのいないわよ」

―――そんなこと真顔で聞かないでくれる?
どうせ、彼氏なんていないけど…。
でも、彼の顔が一瞬緩んだ気がしたのは気のせい?

「だったらそういうことだから、ちゃんと予定空けとけよ」

意外に強引なのね、あたしはどうも彼の言うことが納得できなかったけど、仕事を終わらせることの方が先だから、急いで書類のチェックを済ませた。
会議で使う人数分のコピーを終わらせると、やっと今日の作業は終了。
パソコンの電源をおとしてフロアの戸締りを確認した後、身支度を済ませて会社を出ると時刻は22時。

「こんな時間になっちゃったわね、ほんとごめんね。朝一番の新幹線って、何時なの?大丈夫?明日起きられる?」
「あぁ、大丈夫だよ。俺、結構朝は強い方だし、心配だったら石川が電話で起こしてくれてもいいけど」
「ねえ、山口君ってこういう冗談言う人だったのね。あたし、知らなかったわ」
「そうか?俺は昔からこんなだけどな。それより、言っとくけどこれ冗談じゃないぞ?マジで電話掛けてもらえるとありがたいんだけど、ダメ?」
「ダメって言われても、そんなの彼女に掛けてもらいなさいよ」
「俺、彼女いないし」

―――そうなの?ほんとに彼女いないの?
しれっと言いのける山口君だったけど、こんなことみんな知ったらすごいことになりそうだわ。

「それで、一体何時に起きるのよ」
「新幹線が東京6時発だから、4時半くらいかな」
「はぁ?4時半?嘘でしょ?そんなの絶対無理に決まってる、あたし低血圧だもん。今だって、朝起きるの大変なのに〜」
「あ〜、お前なんかそんな感じするわ。じゃあ、結婚したら旦那は大変だな」
「その時は、その時よ。あたし、頑張って起きるもん」
「そうなのか?だったら、俺で練習してみたら?」
「えっ?いっ、いいわよ」

―――なんか、うまくはめられた?
だけど4時半よ?4時半。
そんな時間にこのあたしが起きられると思う?
でも、少しだけど仕事手伝ってもらったしね。
と言っても彼が勝手に手伝ったんだけど、なんて言ったら元も子もない…かな。

「じゃあ、電話番号教えて、絶対起きてやるんだからっ」

あたしも売り言葉に買い言葉、よせばいいのにこういう時引けないタイプなのよね。

「期待して、待ってるよ」

―――何よ!その棘のある言い方、悔しいわね。
山口君に番号を聞いて、自分の携帯に登録する。
そう言えば、帰る方向がずっと一緒なんだけど、こっちでいいわけ?

「ところで山口君って、どこに住んでるの?」
「俺?S駅だけど」
「そうなの?あたしM駅よ?案外近かったのね」

山口君の住むS駅はあたしの住むM駅の2つ先の駅。
こんな近くに住んでいたとは知らなかったわ。

「あぁ、俺はつい最近越したばかりなんだよ。でも、一度も石川には会ったことなかったな。そっか、お前いつも朝はギリギリだもんな」

―――うぅっ、そういうこと言うか?
まったく、ムカツクわね。

「どうせ、いつもギリギリで悪かったわね」

本当は部長秘書という手前、早く出社しなきゃならないんだけど、低血圧を名目に暗黙の了解ってやつ?

「明日は、目覚ましセットしなくてもいいからね」
「それは、無謀だと思うけどなあ。明日は、重要な会議だから遅れるわけにいかないし」
「大丈夫よ。あたしを信じてないわけ?」
「これを信じろってのは、無理かも…」

まぁ、確かにね。
だけど自分から言い出しておいて、そんなにはっきり言うことないじゃない。

「いいわよ?だったら電話なんてしないから。山口君は、朝強いんでしょ?一人で起きれば?それに朝っぱらからあたしに起こされても嬉しくないだろうし」
「ごめん、そんなこと言わないでさ電話してよ。俺、聞いてみたい石川の不機嫌な声で言う『おはよう』って」
「あんたねー」

あたしが右手を高く上げると、彼は体をかがめるような格好をして身構える。

「ごめんっ、冗談だよ。ほんとは声聞きたいからさ。俺、お前の声好きなんだよ。外から電話掛けてお前出るとラッキーって思うしさ」
「え?」

―――なんで、こんな時にそんなこと言うのよ…。
あたしは単純なんだから、ちょっと嬉しくなっちゃうじゃない。

「機嫌直してさ。ね?頼むよ」

そんな可愛く頼まれたら、この状況で嫌って言えないわよ。

「わかった許してあげる、けどお土産買ってきてね」
「あ?いいよ」

ほんとに?思いついたことをただ言っただけなのに。
でも、この人なんか損してばかりいる感じ。
いいのかなほんとに?
あたしの降りる駅に着いて山口君と別れると、明日のことが脳裏に浮かぶ。
だけどどうすんのよ、4時半なんて起きられるの?
今日寝ないで起きてるしかないんじゃないの?
そんなー。
取り敢えず、ありったけの目覚ましをセットするしかないわよね。
でも、あたしの声が好きなんて物好きもいるもんだわ。

あたしは、家に帰るとすぐにお風呂に入って寝ることにした。
まぁ、4時半に起きて電話を掛けたにしても、そのあと何時間か眠れるしね。
家にある全ての目覚ましと携帯をセットして、早々にベットに潜り込んだ。

+++

眠ったのが0時頃だったから、あっという間に4時半。
いきなり一斉に目覚ましが鳴り出したもんだから、いくらあたしでも思いっきり飛び起きたわよ。
山口君に言われた『石川の不機嫌な声で言うおはよう』という言葉を思い出して、「あーあーあー」朝っぱらから発声練習なんてしてみたりして。
一体、あたしったら何やってんのよね。
大きく一回深呼吸をしてから、山口君に電話を掛ける。

トゥルルルルー

5回くらい、鳴っただろうか?

『もしもし―――』
「もしもし、山口君?おはよう、石川だけど」
『あー石川?お…はよ。こんな時間に…あっほんとに電話掛けてくれたんだ』

山口君は起きたばかりでまだ寝ぼけているのか、あたしがなんで電話を掛けてきたのか一瞬わからなかったみたい。

「何よそれ、山口君が電話で起こして欲しいって言うから、こんな朝っぱらから一生懸命起きたって言うのにっ」
『ごめんごめん、だって朝の弱い石川が俺のためにこうやって起きて電話を掛けてくれるなんて、ちょっと信じられなくてさ』
「絶対起きるって、言ったじゃない」
『そうなんだけど、でもいいな朝から石川のおはようって。俺、すっかり目が覚めたよ』
「そんなこと言ったって、何も出ないんだからね。それよりあたしと話してる場合じゃないでしょ?早く支度して出張行かないと。新幹線、乗り遅れちゃうわよ?」

あたしは、恥ずかしいのを誤魔化すように言ったが…。
山口君って、こういう恥ずかしいこと朝から平気で言える人だったの?

『そうだった。石川、ほんとありがとうな。そうそう、お土産何がいい?』
「は?お土産?」

そう言えば、昨日お土産買って来てなんて言ったんだわ。
しかし、大阪土産って何かしらね?

「えっと、タイガースグッズ」

思わず口から出たのが、これだった。
だって、大阪って言ったらタイガースしか思い浮かばなかったんだもの。
とは言っても、あたしは特にタイガースファンというわけではない。
野球もそんなに見ないし…。

『石川って、タイガースファンだったのか?』
「ううん」
『なんだよ、それ』

電話の向こうから、落胆した声が聞こえてくる。
もしかして、山口君ってタイガースファンだったりする?

「山口君って、タイガースファンなの?」
『知らなかったのか?』
「知らないわよ、そんなの」

―――へぇー、山口君って、タイガースファンなんだぁ。
なんか、意外かも。
って、今は暢気にこんな話をしている場合じゃないのよ。

「それより、ほんと遅れちゃうわよ?」
『じゃあ、お土産は適当に買ってくるよ。朝早くから、わざわざありがとう。ほんと助かった。あっ、でも石川2度寝して寝坊するなよ』
「わかってるわよ。それじゃあ、頑張ってね」
『あぁ、石川もな』

電話を切るとカーテン越しに朝陽が少しずつ入り込んでくる。
あたしはそれを暫く眺めていたけれど、知らぬ間にまた眠りについていた。


・・・・・・・・・・


「うわぁ、遅刻だぁっ」

山口君の言った通り、2度寝して思いっきり寝坊した。
目覚ましを全部4時半にセットしてたから、自分が起きる時間にセットし忘れていたのだ。
とにかく急いで支度を済ませると化粧もそこそこに家を出た。
なんとか始業には間に合ったけれど、これじゃあ秘書は失格だわ。
はぁ…。


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