その声が好き
<後編>


「おはよう」
「おっはよ…う」

次の日、あたしはいつものようにギリギリに会社に着くと、コーヒーを両手に持った山口君と会った。
随分とまぁ、すっきりした表情だわね。
それに比べてあたしはと言うと、慌しく家を出てきたから少し汗ばんでるし息も荒い。

「石川、昨日はありがとう」

山口君は、あたしに持っていたコーヒーのひとつを渡す。
あたしは、遠慮なくそれを受け取った。

「どういたしまして」
「あのさ、今日仕事終わった後、時間あるか?いや、食事でもどうかなって」
「へ?」

いきなり食事に誘うって、何?
思いっきり、変な声出しちゃったじゃないの。

「この前、食事に付き合ってくれって話、しただろう?それにお土産も渡したいしさ」

―――あ~そう言えば、おとといあたしの仕事を手伝ってもらった時に『今度、食事に付き合えよ』って言ってたわね。
もちろん山口君の奢りだって、それとお土産も本当に買って来てくれたわけ?

「あたしは、いいけど」
「じゃあ、定時に玄関ロビーで待ってて」

そう言い残して、山口君は自分の席に戻って行ってしまった。
―――それにしても、何であたし?
まぁいっか。
楽天的なあたしは、それ以上深く考えることもなくその日の仕事に取りかかった。



今日は仕事もスムーズに進んで、残業になることもなく会社を定時で出られそうだ。
トイレの洗面所で化粧直しをして…、これは別に山口君と一緒だからっていう訳じゃないのよ?
ただ、一応出かけるわけだから身だしなみとしてね。
―――今日は、帰りに出掛けてもいいような服装でよかったわ。
などとひとりゴチながら、玄関ロビーに行くと既に山口君はあたしを待っていたようだ。

「ごめんね、遅くなって」
「俺も今、来たところだから」

―――そう言えば、山口君はこんなに早く帰っても良かったのかしら?
みんなに何か、言われたんじゃないの?

「ねえ、定時であがっても平気だったの?」
「あぁ、大丈夫だよ。まぁ、みんなにはデートか?とか、からかわれたけどな」

山口君は、苦笑しながら言う。
―――やっぱりね…。
それにこんなところであたしと山口君が一緒に歩いてるのを誰かに見られたら、それこそみんなのいい鴨だわ。
だけど、あたしなんかが相手じゃ誰もそんなふうには思わないだろうけど。

山口君が連れて行ってくれたのは、すごくモダンなインテリアなのに堅苦しくない雰囲気のフレンチのお店だった。
どうやって、こういうお店を知るのかしら?
男性よりも女性が好んで来るような場所だったので、なんだかちょっと意外かも。

「へぇ、山口君って彼女とこういうところに来てたんだー」

あたしが店内を見回しながら、わざと嫌味っぽく言ってみる。

「別に彼女となんか来てないぞ?ここは、友達に教えてもらったんだよ」
「友達って、女の子の?」
「違うよ。男だよ」

なんか、慌ててる山口君が可愛いかも。
そんなにムキになって言い返さなくてもいいのにね。
まぁ、あたしもあたしでここまで意地悪な言い方しなくてもいいんだけど。

「でも、ここすっごくおしゃれ。あたし、気に入っちゃった」
「そう言ってもらえると嬉しいけど、店内だけじゃなくて料理も美味しいから。特にデザートは、女性に限って好きなだけ食べられるんだ」
「えっ、ほんと?」

あたしったら、ゲンキンよね。
食べ物の話となると、すぐ目が輝いちゃうんだから。
それにデザートを好きなだけ食べられるなんて、甘いもの大好きなあたしにはたまらないわ。

山口君が、お店のお薦めのコースとそれにあったワインを頼んでくれた。
このお店は、ちゃんと専属のソムリエも置いているらしい。
南フランスの料理と言うことで、シーフードに合わせてセレクトした白ワインをグラスに注ぐ。
お互いグラスを持ったけど、何に乾杯していいか思いつかなかったからちょっと聞いてみる。

「そう言えば、何に乾杯」
「そうだな、石川とこうやって食事をできることに乾杯、かな?」
「何それ?」

臭い台詞って思ったけど、まいっか。
お互いのグラスがカチンと合わさって、それを口に含むと白ワイン特有の甘味が口いっぱいに広がった。

「美味しいー」
「同じく」

なんだかわからないけど、素敵なお店で美味しいものを飲んだり食べたりするとすっごく幸せな気分になってくる。
相手が山口君っていうのは、どうなんだろう?
でも、いい男だからヨシとしておくかぁ。

「そうだ、忘れないうちにハイこれ」

そう言って山口君が差し出したのは、タイガースのロゴの入った袋。
あたしはそれを受け取って中を見ると、小さなぬいぐるみが2つ入っていた。

「わぁ、トラのぬいぐるみ?」
「ラッキーとトラッキーって、言うんだ」
「やぁ、可愛いっ」

―――へぇ、こんなマスコットがいたのね。
でも、これを山口君が買う姿って想像つかないわ…。
まるで子供のようにあたしはそれを2つ、テーブルの上に並べて頭を撫でては眺めていた。
すると、そんなあたしのことをじっと見つめていた山口君がいたわけで…。
ふと視線を山口君の方へ向けると、思いっきり目が合った。

「今、お子様みたいって思ってたでしょ」

子供っぽいってわかってるんだけど、しょうがないでしょ?
実際そうなんだもの。

「そんなことないよ。それくらいでそんなに喜んでもらえるって思わなかったから、こっちも贈りがいがあるなって思ってさ」

そう言って、微笑んでいる山口君に思わずドキッとした。
―――うわぁ、これって悩殺だわ…。
こんな笑顔を向けられたら、どうしていいかわからないじゃない。
そんな時にちょうどよく料理が運ばれて来て助かったけど、多分ワインだけのせいじゃない顔が真っ赤だったと思うわ。

料理は新鮮な食材を生かしたシンプルな味付けだったけど、それがとても美味しくて、そして目にも鮮やかな盛り付けも相まって絶妙だった。

「石川は、本当に美味しそうに食べるな」
「だって、美味しいもん」

即答したあたしに山口君は、クスクスと笑っている。
やっぱりこの人って、笑い上戸なんだわ。
まぁ、同期入社といっても一緒にいた時期は短いから無理もないんだけど、なんだか新しい発見だった。

それから、アルコールも伴ってかあたしは、直属の上司である部長のこととか絶好調にしゃべり続けた。
それを山口君は、目に涙を浮かべながら笑ってたわね。

「うわぁ、綺麗!食べるのがもったいないくらい」

目の前にこれでもかって感じのデザートを出されて、あたしは歓喜の声をあげた。
トレーの上にずらっと並んで運ばれて来たんだけど、それを好きなだけお皿に盛ってくれるの。
それもすっごく綺麗で食べるのがもったいないくらい、見ているだけでも幸せな気分になってくる。
あたしは暫くの間、そのデザートを眺め回していた。

「でも、食べるんだろう?」
「うん!」

即答したあたしに、また山口君はクスクスと笑い出す。
だって、せっかくのデザートだもの食べなきゃね。

「すっごく、美味しい!」
「それは、よかった」

あんまり甘くなくて、でもすっごく美味しくて。
あたしは暫し甘美な世界を堪能していた。
それをまた、山口君がじっと見つめていたんだけど…。

「よかったら、俺のも食べる?」
「え?山口君は、食べないの?」
「俺、実は甘いものが苦手なんだ」

―――えっ、そうなの?
そう言えば、コーヒーもブラックしか飲んでなかったわね。

「でもこれ、そんなに甘くないわよ?」
「いいんだ。それに石川、まだ食べたそうだしさ」

あ?あたし、そんなに食べたそうにしてた?
そりゃあ、デザートは別腹っていうけどね。
だけどただでさえ好きなだけ食べられるっていうからこんなに盛ってもらったのに、山口君の分も食べたらデブになっちゃうじゃない。

「ちょっと人を物欲しそうに言うのやめてよ。それに山口君は、これ以上あたしを太らせたいわけ?」
「お前、全然太ってないだろう?むしろ、俺は痩せすぎだと思うけど」
「そんなことないもん」

腕だって足だって太いし、お腹だって最近ちょっとポッコリしちゃってるしさ。
ちっとも、痩せ過ぎじゃないもん。

「大丈夫だよ、俺は少しポッチャリしてるくらいの女の子が好きだから。安心して食べたら?」
「何それ。別に山口君の好みの女の子と関係ないでしょ?」

と返しておきながら、へぇ山口君ってポッチャリさんが好みだったんだ。
なんて、そこを感心してる場合じゃないんだけど。
結局食べないって言うから、あたしは山口君の分のデザートまで全部平らげた。

「あー、お腹一杯。幸せー」
「ほんと、幸せそう」

だって、美味しいもの食べてる時って一番幸せじゃない、ねぇ。



「ねぇ、本当に奢ってもらっていいの?あたし、やっぱり自分の分は出すわよ」
「いいよ。俺が誘ったんだから」

そう言って、山口君はお金を受け取ってくれなかった。
でも、あんな素敵なお店よ?すごく高かったんじゃないの?

「本当にいいの?」
「いいって。それより、石川は満足してくれた?」
「うん、すっごく美味しかった。あんな素敵なお店に連れて行ってくれ、ありがとう」
「だったら、俺はそれだけで十分だよ」

山口君は、本当に満足そうに微笑んだ。
クールで話しずらいってイメージだった山口君が、実はとても笑い上戸で、おまけにタイガースファンだったなんて。
彼の印象が、180度変わった瞬間だった。

「なぁ、石川はもう帰るか?」
「どうして?」
「いや、良かったら俺の家―――」
「はぁ?」

―――ちょっと、待ってよっ。
家って…それって、あたしを誘惑しようとかしてるわけ?
そりゃ、山口君はカッコいいし、こんなふうに誘われて調子に乗った部分もあったかもしれないけど…。
どうせ、あたしは堅物女で誰も声なんて掛けてこないわよ。
だからって、優しい言葉をかければホイホイ付いてくると思ってる?
ふざけないでっ!

「ほら、金曜日だしさ」
「ふざけるなっ!!あたしを誘惑して、何が面白いのよ。ちょっとカッコいいからって、女がホイホイ付いていくと思ったら大間違いっ。あたしをその辺の尻軽女と一緒にしないでちょうだいっ!!」
「ちょっと待て石川、どうしたんだよ。俺は、ただ…」
「どうしたも、こうしたもないっ。帰る!」

大股で歩き出したあたしに山口君が背後から一生懸命何かを言っていたが、そんな言葉は今のあたしの耳に入るわけがない。
だいたい、何なのよ。
人を馬鹿にして!
あたしもあたしだったけど、あんなモテ男がちょっと電話で起こしてあげたくらいで素敵なレストランに誘ったりなんか、するはずがないのに…。
くそぉっ!
あ~ぁ…男経験が少ないって、こんなふうにコロッと騙されちゃうのねぇ。
危ない、危ない。
危機一髪、難を逃れたとあたしはホット胸を撫で下ろして家に帰ったのだった。

+++

「ねぇ、日菜子。ちょっと、山口君に対して冷たいんじゃないの?」

と話す彼女は部は違うけど、同期で何でも話せる一番の親友。
お昼も一緒に食べているし、午後になるとこっそり抜け出してはお茶をしたり週一回、会社帰りに料理教室にも通っていた。

「別に」
「別にって。この前の送別会でも彼、日菜子のところにお酌に来たのにあからさまに無視したりして」

先週末、同期の女の子が結婚退職するからとみんなで送別会を開いたのだが、山口君があたしのところにお酌に来たのを冷たくあしらってしまったのだ。
あの食事をした日以来、目も合わせないし、口もきいていない。
というか、あんな軽い男など、無視して当然だとあたしは思っていたのだから。

「だってぇ」
「だってって。彼、日菜子に何かしたの?」
「したって、言うかぁ。あたしのこと、誘惑しようとしたのよ?」
「誘惑!?」

今時、誘惑なんて言葉を使うことはそうないかもしれないが…。
目をパチクリさせている彼女は、もっともというよりは、そんなはずはないとでもいう顔だった。

「うそ、そんなことないでしょ」
「うそじゃないわよ。あの男、一回食事に行ったからって、あたしを自分の家に誘うなんて」
「日菜子、山口君と食事に行ったの?」
「えっ…うっ、うん」

親友に隠すつもりはなかったが、こればっかりはなんとなく言いづらかった。
―――だって、調子に乗って付いて行ったあたしが悪いって怒られると思ったから…。

「何で、黙ってたのよ」
「何でって、こんなこと言いにくいもん」
「馬鹿ねぇ」
「馬鹿って、何よぉ。しょうがないでしょ?成り行きで、そうなっちゃったんだからぁ」
「違うわよ。山口君って、見掛けによらずものすごくガードが固いので有名なの。だから、よっぽどゾッコンの彼女でもいるのかしら?と思ったらフリーだって言うし、ってことはもしかして女嫌いかあっち系?とまで噂されてるんだからね」

―――確かに本人も、彼女はいないって言ってたわね。
だけど、誰の誘いにも乗らないなんて…。
それは信じられないわ、あんなにいい男なのに…。
女嫌いかあっち系?まぁ、あたしを部屋に誘うくらいだから、それはないんでしょう。

「ふううん」
「ふううんって、ねぇ。そんなガードの固い彼が、日菜子を誘ったんでしょ?誘惑なんて、とんでもない。それ、マジだって」
「へぇ?」

―――マジ?山口君が?

「山口君が日菜子を家に誘った理由はわからないけど、遊びとか軽い気持ちじゃないと思う。ちゃんと話したの?」
「ううん。だって、いきなり家に来ないかとか言うから、カッとなって帰って来ちゃった」
「あぁ…それ、日菜子らしいわ」

誰だって、いきなり家に来ないかと言われれば、警戒するに決まっている。
それが、日菜子なら尚更だと親友は思うが…。
相手が山口君となれば、話は別。

「ちゃんと、山口君と話した方がいいんじゃない?彼、日菜子に何か言いたそうよ。無視したら、かわいそう」

―――そうは言われても、今更山口君に何て言うのよ。
あんなこと言う方が、悪いんじゃない…。

+++

結局、あたしと山口君との関係は変わらず数日が過ぎたある日のこと。

『明日、朝一番の新幹線で大阪に出張になったよ』
『またか?あの人たちも、俺らが東京から来るってわかってねぇのかな。会議なんて、午後からにすりゃいいのに』
『まぁ、それを言っても始まらないから。それより、起きられるかどうかの方が心配だ』
『お前、彼女いないもんな』
『うるさいっつうの』

そんな会話が、あたしの耳に入ってきた。
―――山口君、明日大阪に出張なんだ。
ふと、あの日のことを思い出す。

俺、聞いてみたい石川の不機嫌な声で言う『おはよう』って―――。

山口君、あたし…。





トラッキーとラッキーのぬいぐるみを眺めながら、「あーあーあー」朝っぱらから発声練習なんてしてみたりして。

トゥルルルルー

5回くらい、鳴っただろうか?

『もしもし―――』
「もしもし、山口君?おはよう、石川だけど」
『えっ、石川…どうして…』
「ごめんね。頼まれてもいないのに、朝早く電話なんか掛けて」
『いや、知ってたのか?俺が、朝一番の新幹線で大阪に出張だってこと』
「うん」
『ありがとう。もう、この声は二度と聞けないって思ってたから。すっげぇ、嬉しい』

―――山口君ったら、そんなこと言わないでよ。
あたしだって、すっごく嬉しくて…涙が出ちゃいそう。

「ねぇ、あの時何で家になんて誘ったの?」
『家?あぁ、お前最後まで人の話は聞けよな。あれは、俺の家の近くにあるバーに誘おうと思ったんだよ』
「え?バー?」

―――うそ…家に連れて行くつもりじゃなかったの?
うわぁ…恥ずかしぃ。

『お前らしいけど。俺にしてみれば嫌われたって、凹んだんだからな。あの後は、冷たくあしらわれるしさ』
「ごめんね。だって、家なんて言うから…」
『いいよ、こうして声も聞けたし』
「声だけなの?」

―――好きなのって、声だけなの?
あたしのことは…。

『好きだよ。声も全部』
「山口君…」
『今夜遅くなるかもしれないけど、会いたい。待っててくれる?』
「うん」
『また、お土産買ってくるよ。今度は何がいい?』
「何でもいい」
『わかった。朝早くから、わざわざありがとう。ほんと助かった。あっ、でも石川2度寝して寝坊するなよ』
「わかってるわよ。それじゃあ、頑張ってね」
『あぁ、石川もな』

電話を切るとカーテン越しに朝陽が少しずつ入り込んでくる。
あたしはそれを暫く眺めていたけれど、知らぬ間にまた眠りについていた。


・・・・・・・・・・


「うわぁ、遅刻だぁっ」

山口君の言った通り、2度寝して思いっきり寝坊した。
今度は、山口君に起こしてもらわないとっと。


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