―――あれ、引越し?
週末の午後、あたしは髪を切ってネイルサロンでネイルの手入れをしてもらってから家に帰ってみると、道路に大きなトラックが一台止まっていた。
引越し専門業者の人と友達か同僚であろう若者が数人、ダンボールの箱を抱えて行ったり来たりしているのが見える。
空き部屋は確かあたしの隣の部屋だけだったはず、となるとこの中の誰かがあたしのお隣さんになるわけだ。
興味津々のあたしは、品定めをしていることを気付かれないように自分の部屋に向かって歩いて行った。
このメゾン塚田は築2年の3階建てワンルームアパートで、戸数は全部で15ある。
10畳のフローリングに小さなキッチンとロフトが付いていて、外観はデザイナーズマンションを思わせるなかなかおしゃれなアパートだ。
あたしは会社に入社してすぐ、ここが新築で入居者を募集している時に越して来て、2階の奥から2番目の部屋に住んでいる。
人気があって今までほとんど空きがなく、隣の部屋も出て行ったのはほんの半月ほど前だったと思う。
エレベーターがないので、荷物を持って行きかう人を避けながら階段を上がって行くと一人の若者に声を掛けられた。
「こんにちは。君もしかして、ここの住人?」
初対面だと言うのに随分と馴れ馴れしい口を聞く男だ、というのがあたしのこの男に対する第一印象だった。
年齢はあたしと同じくらいで25〜6というところだろうか?彼は階段の数段上にいるが、相当見上げなければ顔を見ることもできないくらいだから余程背が高いのだろう。
そしてタオルを頭に巻いてはいるけど、よく見れば甘いマスクのかなりの美形と言える。
「え?そうですけど…」
あたしは、『ええ、そうよ』なんてにっこりと微笑みながら返事を返せるような性格ではない。
もう少し愛想がよければって、昔から言われていたけどできないんだからしょうがないじゃない。
「俺、今度206号室に越して来た日向 湊、よろしく。君みたいな可愛い子と住人になれるなんて、超ラッキー」
なんて嬉しそうに手の汚れを洋服で拭ってから数段降りて来て、あたしの前に差し出してきた。
え、これって握手を求められてるの?
こんなこと外人にだってされたことないのにどうすればいいのよね。
このまま無視するのも悪いから控えめに右手を差し出すと、引っ張られるようにしてぎゅっと握られた。
「君、名前なんて言うの?」
ここで名前を名乗るのってどうなの?って思ったけど、相手も名乗ってるわけだしこの場合は仕方ないわね。
「浅倉です」
「浅倉、何さん?」
「え…っと、帆波」
「帆波ちゃん?顔も可愛いけど、名前も可愛いんだね」
うわっ、いきなり帆波ちゃんって…。
そんなちゃん付けで呼ばないでくれる?なんて言葉は目の前の日向 湊という男には届くはずもなく。
「おい、湊。なにそこの可愛い子ちゃん、ナンパしてんだよ。俺たちにばっかりさせないで、早く荷物運んでくれよ」
下から荷物を持って上がって来た若者にそう言われて、渋々彼はあたしから手を放した。
「わかったよ。じゃあ、帆波ちゃん今度ゆっくりお話しようね」
そう言い残して、彼は階下に消えていった。
今度ゆっくりって…あたしは、もう二度とあなたとはお話するつもりはないんですけどね。
小さく溜め息を吐くと、あたしは自分の部屋である205号室に入って行った。
◇
なんだかとんだナンパ男が隣に引っ越して来たもんだわ。
そんな感想を漏らしていると、暫くして外はすっかり静かになったようだ。
引越し終わったのかしら?などと思っていると玄関のブザーが鳴った。
テレビドアホンに向かって「は〜い」と答えると元気な男の人の声と共に画像が飛び込んで来た。
「あの、隣の206号室に越して来ました〜。日向です。挨拶に来たんですけど〜」
うわぁ、あの男わざわざ律儀に挨拶になんて来たわよ。
思いっきり度アップの顔…、そして手にはしっかりタオル持ってるし…。
さっき会ったのは階段の踊り場だったから、彼はあたしが隣に住んでいることを知らないのだろう。
いやだなぁ…。
と思っても出ないわけにもいかず…。
仕方なくドアを開けたが、思いっきり反対側からドアを引っ張られてあたしは勢い余って外まで飛び出てしまった。
「あっ、帆波ちゃんだ。そっかお隣は帆波ちゃんだったんだね。改めまして、206号室に越して来た日向 湊です。湊って呼んでくれていいから。これからよろしくね」
再び握手と「はい、タオル」って、勝手に手の上に載せられた。
『湊って呼んでくれていいから』と言われたって、初対面のあなたにそんな呼べるはずないでしょ!
まあ隣だし、こじれるのも面倒だから取り敢えず挨拶だけはしておく。
「こちらこそ…よろしく」
「ところで、帆波ちゃんはOLさん?」
「あ…まぁ」
「そっか、いいな帆波ちゃんみたいな可愛い子がいる会社なんてさ。俺、毎日会社行くの楽しみになるよ」
そんなことで会社が楽しいと思えるなんて、オメデタイわね。
って言うか、ちゃん付けもなんとかならないかなって思うけど、可愛いって…。
あたしはお世辞にも可愛いには程遠い。
今まで、ここまで連発されたことなんかないんだからね。
「俺さ、四つ葉商事って会社に勤めてんだけど―――」
え?嘘…今、四つ葉商事って言わなかった?
そこはまさしく帆波が勤める会社であり、まさか彼が同じ会社に勤めていたとは…偶然にもほどがある。
よりによって、お隣さんが同じ会社に勤めてるなんてね。
ここまでくるともしかして同じ部なんてオチも、あながち否定できないから怖い。
「入社してすぐに大阪支社に飛ばされちゃってさ、やっと戻って来れたんだよ。やっぱり東京はいいよな」
「関西の女の子は苦手なんだよ」なんて言ってるけど、どうだか…。
逆に超ド派手な関西の子の方が似合ってるとあたしは思うけどね。
「あの、ちゃん付けで呼ぶのなんとかなりません?あなたとあたしは単なるお隣さんというだけなんですから。それとあたしは可愛くなんてありませんし」
「単なるお隣さんなんて、寂しいなぁ。これから長いお付き合いになるかもしれないでしょ?あと呼び捨てはさすがにまずいかなって思ったんだけど」
長いお付き合いなんて、ならないならない。
心の中で、首を大きく左右に振る。
それに大体あなたねぇ、呼び捨てって…ちゃん付けをやめてくれって言われたら、普通苗字で呼ぶでしょうがっ。
「帆波ちゃんは、めちゃめちゃ可愛いと思うけど。俺、一目惚れしちゃったもん」
大の男が『もん』ってなによ、『もん』って…。
この男とは何を話してもだめね…はぁあ〜。
それにしても彼は、しゃべるしゃべる。
延々と小一時間ほどしゃべって、嵐のように去って行った。
まったく、先が思いやられるわ。
あたしは、ソファーにどっかと腰をおろすと大きく溜息を吐いた。
※ このお話はフィクションです。実在の人物・団体とは、一切関係ありません。作品内容への批判・苦情・意見等は、ご遠慮下さい。
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