『桜は丁度、満開ね―――』
既に日本上空を飛んでいるであろう航空機の機内の窓から地平線のように続く雲を眺めながら、恵は10数年振りの日本を懐かしんでいた。
程なくしてベルト着用のサインと共に着陸態勢に入るというアナウンスがあり、機体は一気に下降を始める。
段々と見えてくる地上の街々、自分の中に流れている国籍は違えど日本人というものを再確認し、そしてとうとう帰って来てしまったという想いが恵の心の中を駆け巡っていた。
恵は、ちょうど一ヶ月前にボスから掛かって来た一本の電話を思い出していた。
『よう、ケイ元気か?』
部下のシュタイン警視が緊張した面持ちで取り次いだ内線電話に出ると、なんとも陽気な日本語が返って来た。
―――まったくこの人ったら、どうしてこんなに元気なのかしら?
アメリカ人なのにやたらに流暢な日本語を話すこの相手は、国際連邦警察庁 ニューヨーク本部のスティーヴ・アラン副総監。
恵は、親しみを込めてこの男をボスと呼ぶ。
「おはようございます。お久しぶりです、ボス」
ここベルリンの時刻は15時を少し回ったところだが、ニューヨークはまだ朝の9時を過ぎたところだろう。
それにしてもこの男は朝からテンションが高い。
もうすぐ50になろうとしているにも関わらず、一見してそんなふうに見えないところも納得できてしまう。
『どうだ?ベルリンに1年も居たら、もう飽きただろう?』
いきなりの質問に恵は拍子抜けしてしまった。
「そんなこともないですよ。こちらはニューヨークと違って平和ですし、いいところです」
『まぁ、そう言うな』
あはは…と高らかに笑うアランの声が耳に響く。
恵がベルリン支庁に赴任してからも度々様子を伺いにこうやってアランが電話を掛けてくることはあったが、どうもいつもと雰囲気が違うようだ。
と言うのもいつもなら会話は英語のはずなのにこうやって日本語で話す時に限って、何かよからぬことがあるからだ。
―――そんなことすぐにわかるってのに。
ふっと薄い笑いを浮かべながら、恵はわざと可愛くない返事を返す。
「ボス、今日は何の話ですか?いい話でなければ、私も忙しい身なのでもう切りますよ」
『さすがケイだ。察しがいい』
やはり何かあったのだろう。
アランの声が少し硬くなったのを恵は電話の向こう側から敏感に感じ取っていた。
『俺は近いうちに東京支庁へ異動になる。それでだが、お前も一緒に来い』
―――えっ?ボスが東京支庁へ異動?私も?
一体、東京で何があったというのだろうか?
そんな恵の気持ちなどおかまいなしのアランは、『とにかく東京で会おう。詳しい話はそれからだ』とだけ言うとさっさと電話を切ってしまった。
東京―――。
懐かしい響きであるが、こんな形で行くことになろうとは恵には思いもよらないことだった。
断るにもアランの言うことは絶対で、どうやっても聞き入れてはもらえないことを知っているだけに厄介だ。
恵は諦めにも似た気持ちで窓の外の遠い日本を想い目を細めた。
+++
定刻通り到着した機内から降りると外国人専用入国審査を終えてスーツケースを受け取り、税関検査を抜けて素早く入国ゲートをくぐる。
―――確か、高梨警視とか言ってたわよね。
昨日アランからの電話で、高梨警視という恵より2つばかり年下の若い青年を迎えにやるからと言われていたのだ。
『ケイ好みのいい男だぞ。すぐに手を出すなよ』などと余計なことを最後に言うものだから、思いっきり電話を切ってやった。
―――それにしても、そんないい男どこに居るのよ!
急に不安になった恵は、アランの言われたようにいい男という目印を探して辺りを見回していた。
その頃、一輝は到着ロビーから出てくる人の群れを注意深く見回していた。
フライトボードを見るとフランクフルト発東京行き全日空210便は、既に到着済となっている。
―――警視監、笹川警視長のことを見ればわかるなんてそれ以上何も言わないから、誰が警視長かわからないじゃないか。
ぶつぶつ言いながらも一輝は焦る気持ちを抑えながら、恵の姿を探していた。
一輝が課長である真田警視に呼ばれたのは今から二週間ほど前のこと。
「来月新しくベルリン支庁から笹川警視長が赴任されることになった。そこで高梨、お前が警視長の補佐として動いて欲しいとのことだ」
「俺がですか?」
一輝はニューヨーク特別警察学校を卒業後、警部になって1年、その自分が警視長の補佐などという大役が務まるとは到底思えない。
「そうだ、そして今度からは高梨警視だ」
―――はぁ?俺が警視だと?
「あの…何かの間違いでは…」
そう言い返すと真田は、一輝の答えをわかっていたように言った。
「これはアラン副総監からの直々の申し出だ。お前の今までの仕事振りも考慮してのことらしい。俺は上司として鼻が高いぞ」
真田はたいそう満足気な様子だが、確かに自分の部下が選ばれて上層部の補佐を勤めるのだから嬉しくないこともないだろう。
「でも…」
「いいから、失敗を恐れないで頑張って来い。俺は前にアラン副総監にはニューヨークで少しだけお世話になったことがある。とても気さくでいい人だし、お前の上司になる笹川警視長には会ったことはないが、噂ではすごい人らしいからな。そんな人に付けるんだ、これ以上のチャンスはないぞ」
真田は、年齢は40代後半で温厚な性格だが少し大人し過ぎる面もある、そんな彼がこんなふうに興奮しているのを一輝は初めて見た。
「わかりました。頑張ります」
一輝の言葉に真田は深く頷いたのだった。
◇
ふぅ…。
―――何よ、ボスったら高梨って男はどこにも居ないじゃない。
恵は溜め息を吐きながら、仕方なくひとりでホテルに向かおうとタクシー乗り場へ足を向けようとしていた。
その時周りの視線がある男性に注がれているのに気付き、恵も視線を追ってみるとそこに居たのは長身でかなり、いや相当のいい男。
がっしりとした身体つきで少し日に焼けているのか肌が黒い感じにやや色素の薄いブラウンがかった柔らかそうな髪。
整った顔立ちだが、クリッとした可愛らしい目が印象的な男性というよりはまだ男の子って感じだろうか?
それでもダークグレーのスーツにストライプのネクタイが良く似合っている。
恵は日本の芸能界をまったく知らなかったので、もしや売れっ子俳優とか?
などとミーハー心を彷彿とさせながら暫く彼を見ていたが、予想に反して誰も声を掛ける様子はない。
―――もしかして違ったかしら?
ふと彼のスーツの襟元に付いているバッチに目を向けると、それは国際連邦警察庁員の証であるINPAの文字。
―――えっ、まさかあの人が高梨警視?
なるほど、言われてみればボスが言っていたいい男というのも頷ける。
恵は、彼の元に近寄ると嫌味なほどの笑顔で微笑んで言った。
「あなたが、高梨警視?」
※ このお話はフィクションです。実在の人物・団体とは、一切関係ありません。作品内容への批判・苦情・意見等は、ご遠慮下さい。
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