「すみません。奢っていただいて」
「全然。私が誘ったんだし、それに一応上司だしね。当然のことよ」
店を出て車に乗ろうとしたところで、恵の目の前を一枚の桜の花びらが舞い落ちた。
―――桜?
辺りを見回すと少し離れたところに小さな公園が見える。
そして、そこには数本の桜の木が既に満開を通り越して散り始めていた。
「高梨君、少し酔いを覚ましていってもいいかしら?」
恵の視線の先に桜の木があるのを見て、一輝は「どうぞ」と静かに答えた。
二人は公園まで歩いて行くと、1つだけ点いている外灯に照らされた桜の木がとても綺麗に見えた。
「さっき見た桜も綺麗だったけど、こっちも綺麗ね」
恵は一本の大きな木の下に立って、見上げるように桜の花を見つめていた。
それを見ていた一輝には桜の花よりもずっと恵の方が綺麗だと思えたが、口に出すにはあまりにキザだったからそのまま黙って見つめていた。
「ごめんね、私ばっかり飲んじゃって」
「そんなこと…どうせ車でしたから」
一輝は、さっきグラスを見つめながら涙を流した恵のことが頭から離れなかった。
しかし、人には触れられて欲しくないこともある、ただ恵には泣いている顔よりも笑っている顔の方が似合っているそれだけは確信していた。
「さくら川ってお酒ね、父が大好きなお酒だったの。いつも日本から取り寄せて飲んでいたわ。私も父と一緒に飲めるようになるのを楽しみにしていたんだけどそれも叶わなかった。アメリカって喫煙は18歳からなのに飲酒は21歳からなのよ。日本みたいに20歳だったらって法律を恨んだわ」
―――えっ?
恵の叶わなかったという言葉の意味を理解した一輝は、どう答えていいのかわからなかった。
「5年前に突然私の前からいなくなっちゃった…。高梨君、今日は本当にありがとう。こんなふうに父と叶わなかった夢が叶えられて…すごく嬉しかった」
「私は何も…でもそう言ってもらえたら…嬉しいです」
一輝も自然に笑みを返したすぐ後、恵が思いもしない行動に出た。
桜の木の周りを囲んでいた杭の上に登って木に片手をつくと、空いた方の手を高く上に上げて花びらを受けようとしたのだ。
「笹川さんっ、危ないですよ!」
一輝は急いで恵の側に駆け寄って行ったが、恵は酔っているのかフラフラとして今にも落ちてしまいそう。
「笹川さん、本当に危ないですから降りてくださいっ」
声を掛けても一向に降りようとしない恵に一輝も困り果ててしまったが、ここで怪我をされては自分が後で何を言われるかわからない。
大事な上司なのだからと一輝は恵の意見など無視して、彼女のウエストに腕を回すと抱きしめるようにして押さえ込んだ。
それと同時に恵はバランスを崩して一輝の方に倒れたものだから、一輝は押さえきれなくて恵を抱きかかえたまま地面に尻餅をついた。
「痛っ」
一輝の声にびっくりした恵は急いで彼から離れようとしたけれど、しっかりと腰に腕を回されて半ば覆い被さるような形で倒れ込んでしまったためにすぐには起き上がることができなかった。
「ごめんね、高梨君。大丈夫?怪我は?」
「私は平気です。それより笹川さんの方は?どこも怪我してないですか?」
一輝は恵を立たせると自分も打った腰を押さえながら立ち上がって、スーツについた砂を払った。
「私は平気、本当にごめんね」
「いえ、いいですよ。でも、今後はこういう無理は聞きませんからね」
「ごめんね…」
しゅんとしてしまった恵が、まるでいたずらをして怒られた子供のようで、失礼だと思いつつもなんだかとても可愛らしく見えた。
―――それにしても笹川さんは、さっきから謝ってばかりだな。
「さあ、今日はもう帰りましょう。ホテルまで送りますから」
今度は素直に頷いた恵、小泉の駐車場に置いてあった車まで歩いて行くと助手席に乗り込んだ。
再びホテルの前に着くと礼を言って恵がドアを開けて降りようとした時、一輝は「明日の朝、8時に迎えに来ます」と言って微笑んだ。
「いいわよ、ここから庁舎ってすぐでしょう?地理にはまだ慣れていないけど、タクシーで行けば間違えることもないし」
恵は本部に居た時もベルリンに居た時も自家用車で通っていたが、住むところが決まったら東京でもそうするつもりでいた。
それまでの期間は別に地下鉄に乗ってもいいと思っていたのだ。
「それはダメです。警視長が落ち着かれるまでは、送迎するようにアラン副総監に言われていますので」
―――何?ボスは、そこまで言ってるの?
まったく過保護なんだからと小さく溜め息を吐いた恵だったが、ここでそれを言っても一輝は聞かないだろうとそれ以上は言わないことにした。
「今日は本当にありがとう、気をつけて帰ってね」
「はい。それじゃあ、おやすみなさい」
恵が降りてドアを閉めると、一輝は軽く頭を下げて車を走らせた。
その後姿を見えなくなるまで恵は見送っていた。
車を運転しながら今までのことを思い出していた一輝は、恵に会ってほんの数時間のことなのにひどく彼女のことが気になっている自分に気付いた。
桜の花を見て子供のようにはしゃぐところ、さっきのようにいきなり危ない真似をするのはまるで少年のようだ。
それなのに父と晩酌を交わすという叶わぬ願いを思って涙を流す。
あんなに振り回された女性に会ったのは初めてだった。
恵を抱きかかえるようにして尻餅をついた時、彼女からは微かにジャスミンの花のような香りがしたのを思い出した。
―――当分あの香りを忘れることはできないだろうな。
一輝は自宅に向かって車を走らせた。
ひとりホテルの部屋に戻った恵は、深く溜め息を吐いてベッドに仰向けに寝転んだ。
ゆっくり目を閉じるとさっき会ったばかりなのに一輝には迷惑を掛けてしまったなと深く反省していた。
こんなふうにはしゃいだのは、子供の頃でさえもなかったように思う。
いつも物分りのいい、いい子だった恵には我侭を言って甘えることよりも、勉強で一番になることの方を両親は喜んでくれると信じていたからだった。
それがどうして今になってあんなことを…。
一輝の前ではなんとなくだが、今まで眠っていた素直な自分を出せるような、そんな気がするのを感じながら何時の間にかそのまま眠りについていた。
※ このお話はフィクションです。実在の人物・団体とは、一切関係ありません。作品内容への批判・苦情・意見等は、ご遠慮下さい。
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