暫く車を走らせて、恵は一輝の案内で行きつけであるという「小泉」という店の前に来ていた。
「私の家はここからすぐのところにあるので、夕食はほとんどこの店に食べに来ているんです」
そう言うと一輝は店のドアを引いて、恵を先に店内に入れた後に自分も暖簾をくぐった。
「「いらっしゃいっ」」
店に入るなり、威勢のいい男性と女性の声が重なって響き渡る。
その直後、恵の姿を見た店主らしき男性と奥さんなのか?二人はそこで動きを止めてしまった。
すぐ後から一輝が入って行くと恵を見つめてボーっとしているオヤジさんと女将さんの姿があった。
「どうしたの?オヤジさんも女将さんも」
二人が無言のままで突っ立っているので、一輝が声を掛けるとようやっと正気に戻ったのか、「あぁ、一輝かあ、いらっしゃい」とオヤジさんが声を発した。
『変な二人』と思いつつも、一輝がいつも座っているというカウンターに恵も並んで腰をおろすと、すぐに女将さんがおしぼりを持って現れた。
「いらっしゃい。まぁ、一輝君がこんな綺麗な女性と一緒に来るものだから、主人も私も驚いたじゃないの」
「そう言えば、俺が女性を連れて来たことなんてなかったからな。あっ、紹介するよ。こちらは、俺の上司で笹川 恵さん。笹川さん、ここの女将さんのゆりえさんです」
「始めまして、笹川です」
恵が女将さんに挨拶すると、ニッコリと笑みを返す。
女将さんはとても優しそうな人で、年齢は40代半ばという感じだろうか?
髪を上の方でひとつに纏めていて、とても和服が似合う美人だなと思った。
「あら、一輝君の上司さんですか?いつも、一輝君がお世話になりまして」
まるでお母さんのように言う女将さんがなんだか可笑しくて、恵はいつの間にか笑みを浮かべていた。
「これはこれは一輝の上司さんとは、挨拶が遅れましてすいません。どうですか?一輝のやつちゃんとやってるんですか?迷惑掛けてませんか?」
カウンター越しに今度は、主人も女将さんと同じように父親のような挨拶をしてきたので、また恵は知らず知らずのうちに笑みを浮かべていた。
オヤジさんは広政さんと言って女将さんと同年齢くらいに見えるが、昔ながらの江戸っ子のようなさっぱりした感じがとても好印象で素敵な人だった。
―――高梨君は、随分とこの二人に可愛がられているようね。
一輝は自分を子供扱いする二人に不満の様子で、少し拗ねた顔をして見つめていた。
「私は上司と言っても今日赴任したばかりですので、まだ彼をお世話するようなことは何もしていないんですよ。このお店にも、無理を言って連れて来てもらいました」
恵は一応フォローしたつもりだが、二人の様子は相変わらず子供のことが心配な親の顔だ。
一輝は、話題を変えるように口を挟んだ。
「オヤジさんも女将さんも、もういいだろう?笹川さんは、ついさっきドイツから着いたばかりで疲れているんだ。せっかく美味しい和食が食べたいって言うから、連れて来たのに」
そんなふて腐れたように言う一輝のことなどお構いなしで、オヤジさんは恵に申し訳なさそうに言葉を続ける。
「それはまた遠くからお疲れのところ、わざわざこんな店に来ていただいてすいません」
「いえ、お二人もそしてお店の雰囲気もとても素敵ですね。気に入りました。私はずっと海外生活をしていて、10数年振りの日本なのでなんとなく懐かしい気がしています。何か美味しいものを食べさせていただけますか?」
恵の物腰の柔らかなそれでいて、凛とした話振りに二人ならず一輝までもが感心して眺めていた。
「わかりました。気の利いたものは作れませんけど、味には自信がありますから、たくさん食べていってくださいよ」
そう言って、オヤジさんはカウンターの奥へ入っていった。
「高梨君。ここには、”さくら川”というお酒はあるかしら?」
「さくら川って、日本酒ですか?」
オヤジさんが酒好きだから他の店より種類は豊富だと思うが、焼酎党の一輝には日本酒のことはよくわからなかった。
「オヤジさん、ここにさくら川っていうお酒はある?」
カウンター奥の厨房で、調理をしているオヤジさんに一輝が尋ねた。
「あぁ、あるよ」
「それ、笹川さんにひとつね」
「はいよ。一輝はどうする?」
「俺は、車だから今日はやめておく」
そうかと答えるとオヤジさんは棚から、さくら川の一升瓶を出して、それをグラスに注いだ。
「どうぞ。さくら川を選ぶなんて、日本酒好きなんですね?」
「あっ、いえ。私は全然飲まないんですけど、父が好きでよく飲んでいたものですから」
「そうなんですか」
恵は差し出されたお酒のグラスを何かを考えながらじっと眺めていた。
―――これが、お父さんの好きだったお酒。
21歳になったら一緒に飲もうって約束だったのに…。
「笹川さん、どうかされたんですか?」
グラスを見つめる恵の瞳から、一筋の雫が流れたのを一輝は見逃さなかった。
恵はハッとして慌てて涙を拭うと、なんでもないとお酒をひとくち含んだ。
また涙が溢れそうだったけれど、こんなところで泣くわけにはいかないと懸命に堪えて笑顔を作った。
「美味しい」
「そうですか、よかった」
一輝は恵には何か深い事情があるのではないかと思い、これ以上聞くことはなかった。
そんな一輝の気遣いに心から感謝しつつ、恵は父の大好きだったお酒を堪能した。
小泉の料理はかなり凝ったものから家庭料理に近い感じのものまで、様々なメニューで恵を喜ばせた。
なんにでも美味しいと反応する恵に、みんなの顔も必然的に和らいでくる。
一輝はいつもここへはひとりで来ていたから、こんなふうに誰かと楽しく食事できることが久しぶりでとても楽しかった。
オヤジさんも女将さんも、いつになく会話が弾んでいるのがわかる。
二人には大学生になる1人息子がいるが、京都に行っているため寂しいのだろう。
一輝を自分の子供のように可愛がってくれていた。
「すごく美味しかったわ、高梨君ありがとう」
「いえ、そう言ってもらえると私も嬉しいです」
一輝は恵の長時間のフライトで疲れているであろう身体のことを考えて、早めに店を出ることにした。
「今日は、本当に美味しかったです。また、来てもいいですか?」
「ええ、いつでも来てくださいね」
女将さんの優しい声に恵は、つい自分の母親のことを思い浮かべてしまう。
「また来てくださいよ。それと一輝のこと、よろしくお願いします」
頭を下げたオヤジさんは、まるで本当の子供のように一輝のことを心配する父親に見えてしまう。
また胸の奥が熱くなるのを感じていた恵だったが、今の自分は泣いているわけにはいかないのだとグっと抑えて店を出た。
※ このお話はフィクションです。実在の人物・団体とは、一切関係ありません。作品内容への批判・苦情・意見等は、ご遠慮下さい。
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