桜の花の咲く頃に
Story3


「ごめんなさい。私が桜を見たいなんて、余計なことを言ってしまって」

仕事の合間を縫って恵を迎えに来たであろう一輝に、申し訳ない気持ちで恵は一言謝った。

「そんなことないですよ。私も桜なんて改まって見たのも久しぶりでしたし、それに今日は警視長を送り届けたらそのまま帰っていいとアラン副総監に言われていますから」
「ボスに?」

ボス??
ボスと言う言葉に反応した一輝が、恵にそう尋ねた。

「あぁ、私がニューヨーク本部に新人で入庁した時から、アラン副総監にはお世話になっていてね。なぜかみんな彼のことをボスって呼んでいたから、私もついそう呼んじゃうの。なんか動物園の猿山のボス猿みたいでしょ?あっこれはボスには内緒ねっ」

恵が口元に一指し指を当てて、小声で言った。
―――猿山のボス猿って…。
あまりにケロっと言う恵にあっけに取られたが、やはりどこかで納得してしまった一輝は笑いを堪えることができなかった。

「あはは…そうなんですか?私はアラン副総監にお会いしてまだ二週間ほどしか経っていませんので、今度警視長に聞いたと言ってさりげなくそう呼ばせていただきますよ」

恵と一輝は、ボスの顔を思い浮かべて再び笑い合った。

「ところで、この辺に安くて美味しい和食のお店ってないかしら?」
「安くて美味しい和食の店ですか?」
「そう、家は両親が、特に父がね和食党だったからニューヨークに住んでいた時もずっと食事は和食だったんだけど、大学に入ってからは家を出ていたしあまり口にしていなかったのよね。向こうはお店で食べるものって寿司とかそういうのしかないし、なんだか日本に来たら急に食べたくなっちゃって。さっきの夜桜見物の人達を見たら、余計にそう思ったわ」

父がたまに手に入ったと喜んで飲んでいた日本酒を恵も一緒に飲んでみたかったけれど、アメリカは飲酒が21歳以上だったからそれも叶わぬ夢と消えた。

「そうですね。残念ながら、私には警視長をお連れできるような店を知らないのですが…」
「そんなに深く考えなくてもいいわよ。普段、高梨警視が行くような慣れた店でいいんだけど」

―――う〜ん、あるにはあるんだけど、あんなところに警視長を連れて行っていいのかなぁ。
一輝は暫く考えていたが、取り敢えず恵を連れて行ってみることに決めた。

「それでは、私のよく行く店を紹介します。荷物を置かれたらすぐに行かれますか?それとも少し休まれますか?」
「そうね、あぁでも別にいいわよ。場所さえ教えてくれたら1人で行くし」

―――はぁ?警視長があそこにひとりで行くって言うのか?いくらなんでもそれはマズイだろう。
こんな綺麗な人があんなところに行ったりしたら、大変なことになるに違いないぞ。

「ダメです、ひとりで行くなんて。私がお供しますから、警視長は一休みされるのであれば時間を決めて迎えにあがりますので」
「でも、高梨警視もプライベートは色々あるでしょう?ほら、デートとか」
「いえ。今の私には生憎そういう相手はいませんから、お気になさらないでください」

意外な答えに恵も少し驚いた。
―――彼女が居ない?!こんなにいい男なのに…。
まあ、他人のプライベートに口を突っ込む気はないが、これだけの男に彼女がいないのはかなりの驚きではあった。
一輝は休むなら時間を空けてまた迎えに来ると言ってくれたが、時計を見ればもう夕方の5時を過ぎているし、そこまで付き合わせるのも悪いと恵はすぐに連れて行ってもらうことにした。
ホテルの前に着くとスーツケースを出し、取り敢えず車をドアマンに預けて恵をフロントまで連れて行く。

「すぐに降りて来るから高梨警視、悪いけど少し待っていてくれる?」

一輝は「はい」と返事を返すとチェックインを済ませた恵とベルボーイがエレベーターの中に消えた。
そして10分ほどして恵がロビーに現れた。

「ごめんね、色々迷惑かけて」
「これくらい、お安い御用です」

一輝にとってはいくら上司とは言え、こんなに綺麗な女性と食事を共にできることを思えばなんでもないことだった。
再びドアマンにキーを預けて車を持って来てもらい、乗り込むと一輝の行きつけの店に向かうことにした。

「高梨君はどこに住んでるの?」

いきなり恵に高梨君と言われ、赤信号でブレーキを掛けようとしたところを思わずアクセルを踏みそうになって慌ててブレーキを踏んだ。
そんな焦りは恵には気付かれなかったのが、せめてもの救いだったが。

「はい、私は恵比寿に住んでいます」
「恵比寿?随分いいところに住んでいるのね。私もいつまでもホテル暮らしっていうのも、なるべく早く住む所を見つけたいんだけど、どこかいい所ないかしら?」
「副総監からもその話は聞いています。今は同じマンションには空がないそうで、総務課の方で探してもらっているところです」
「ボスと同じマンション?それだけは勘弁願いたいわね。あの人が近くに居たら、毎晩夜遊びにつき合わされるに決まってるもの。まだホテル住まいの方がいいくらい、本当に空きがなくて良かったわ」

いくらなんでもあのボスと同じマンションに住むなんて、それだけは勘弁願いたい。
あの人は無類の遊び好き、眠らない街東京に居たら毎晩のように振り回されるに決まっているんだから。

「確かにそうかもしれませんね。私も副総監に会う度に誘われますから」

―――ボスったら高梨警視まで誘ってるわけ?まぁ、若くていい男だものね。

「ねえ、ところでその堅苦しい敬語やめない?私をホテルまで無事送り届けたんだから、その後はもうプライベートでしょう?」

確かに恵の言うこともわからないでもないが、やはり一輝にはどうしても恵の警視長という肩書きが頭を過る。
それに年下ということもあるし…。

「では、今後プライベートでは笹川さんと呼ばせていただきますが、私は年下ですのでやはり敬語で話すのは…」
「高梨君って、結構固いのね。まぁいいわ、警視長って呼ばれないだけでも」

恵は、警視長と呼ばれるのには少し抵抗があった。
やはり、26歳という年齢でこの肩書きは重過ぎるのだ。
―――高梨君には今日初めて会ったばかりだものね。
しょうがないか…。
恵は、仕方ないと諦めて話題を元に戻した。

「それで話を戻すけど、高梨君は恵比寿にご家族と住んでるの?」
「いえ、私はひとり暮らしです。両親は都内の別の場所に住んでいます。ニューヨーク警察学校に入学したのを機に戻って来てもそのままひとり暮らしを始めました」
「高梨君は、ニューヨーク警察学校の出身なの?私と同じだわ」

国際連邦警察庁に入庁すると、すぐに警察学校へ入校する。
通常は自国にある警察学校に入校するのだが、成績優秀者のみニューヨーク特別警察学校への入校が認められ、通常卒業後の階級は警部補であるがニューヨーク特別警察学校を卒業した者は警部からスタートできる。

「警視長も同じ学校の出身だったのですね。私の場合は、今でもまぐれだと思っていますけれど」


※ このお話はフィクションです。実在の人物・団体とは、一切関係ありません。作品内容への批判・苦情・意見等は、ご遠慮下さい。


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