「あ〜気持ちいいっ」
行き先も決めずに電車に乗ると着いた先は、なぜか海だった。
季節的にもぴったりな場所だったが、本当は何も考えずに広い地平線をただ見ていたかったからかもしれない。
小沢 望は、若い女性に人気のあるファッション誌『TUNE』の編集長をしていた。
行き先も決めずにこんなところに一人で来ていれば何か失態を犯したと思うかもしれないが、そんなことはない。
望が編集長になったのはこの一年ほどだったが、発行部数は順調に伸びていて起用されたモデルはカリスマと称され注目の的だった。
では、なぜここに来ているかというと、それは社長のご褒美というもの。
いきなり昨日呼び出されて、一週間休みを取ることと告げられた。
これは、ある意味望にとって拷問に近いものだったかもしれない。
ずっと仕事一筋で生きてきて、休む暇など一度もなかった。
止まってしまえば取り残されると心のどこかで思っていたから、突っ走るしかないのだと。
『それにしても、女の一人旅って寂しいわね』
駅を降りると、そう呟きながらどこへ行くわけでもなくただ海に向かって歩いて行く。
昨日の今日では付き合ってくれる相手などいるはずがなく、ましてや仕事一筋の望に彼氏なんてものはいつからいないのかもすぐには思い出せないくらいだった。
『もしかして、“自殺する”とか思われたりして』
昔は、一人旅の女性客を泊めないと聞いたが今は違うらしい。
“お一人さま”なんて旅行の企画も多数存在するくらいだから時代は変わったものだし、それは望にとってはある意味ありがたいことなのかもしれない。
取り敢えず、携帯サイトで調べてホテルだけは押さえていた。
海の見える素敵なホテル。
せっかく休みをもらったのだから(休みはくれるけど、おこづかいはくれなかったわね)と奮発したのだった。
ホテルまでは駅から車で10分と書いてあったからゆっくり歩くと30分くらい、こんなふうに明るい日差しの中を歩くことはこの先いつになるかわからないと思うとそれほど苦にもならなかった。
真っ直ぐただ海の方へ向かって行くと目の前に広がったのは、ヨットがたくさん停泊しているマリーナ。
『うわぁ、ヨットがたくさん』
ところ狭しとヨットが並んでいる光景は、とても爽快なものだった。
これを見ただけでも、ここに来た価値はあったと望は思う。
今日は平日ということもあって天気はいいが、ヨットに乗る人は少ないのか、まばらにしか人影はない。
そんな中である人物が目に入る。
―――何しているのかしら?あの人。
Tシャツにジーパンというラフな姿で年齢はよくわからないが、若そうな男性がコンクリートの上に腹ばいになっているのだ。
『えっ写真?』
その彼は、どうやら腹ばいになってカメラを構え、停泊しているヨットの写真を撮っているようだった。
あんな格好で写真を撮る人は初めて見たが、きっと好きな人なんだろう。
仕事柄、撮影現場にしょっちゅう顔を出してはいたが、人物を撮る写真家しか知らない望には彼がとても新鮮に映った。
望は、カメラの先にある景色を無意識のうちにじっと見つめていた。
◇
どれくらいその場にいたのか、いつの間にか彼の姿は視界から消えていた。
―――あら、彼どこかに行っちゃった?
「こんなところに女が一人で来るなんて、失恋か仕事に疲れたってところか?」
「えっ?」
背後から聞こえてきたハスキーボイスに望は反射的に振り返ると、そこに立っていたのはさっきまで写真を撮っていた彼だった。
まるでワープしたように視界から消えて、そしてまさか話し掛けられるとは思っていなかったが、こういう会話もアリなのかと望は至って普通に返す。
「そのどちらでもないわ。生憎、恋人はいないけどおかげさまで仕事は順調だし」
「なんだ。そんな格好でこんなところにボーっと突っ立ってるから、てっきり自殺でもしに来たのかと思った」
そう言って白い歯を見せた彼は真っ黒に日焼けしていてとても背が高く、鍛え上げた上半身がTシャツ越しにも感じられる。
染めているのか、地毛なのか薄い茶色い髪はサラサラで、海風になびいている。
はっきり言ってこういうマッチョな男性は望のタイプではなかったが、世間一般で言うイケメンというところだろうか?
「やっぱり、そう思う?」
今日の望の服装はというと、仕事では絶対に着ないような真っ白のキャミソールワンピース。
撮影のために用意したもので、そのメーカーの担当者が望にどうかと無理矢理置いていったものだった。
いつもパンツスーツ姿だったし、雰囲気から言ってもとても可愛らしい服装が似合うとは思えなかったのだが、いらないとも言えずありがたく頂戴したもの。
なぜその服を今日身に付けようと思ったかは、自分でもよくわからなかった。
ただ、この一週間だけはいつもの自分じゃない自分を装ってみたかったのかもしれない。
「自分で言ってちゃ、世話ないな」
「だって、女一人旅で海を見になんて、よく考えてみたらそうかなって思ったんだもの」
―――初対面のはずなのにこんなに自然に話せるのは、どうしてなの?
すごく不思議だった。
こんなことを言うと誰も信じてくれないだろうけど、元来人と接するのがあまり得意でない望が、彼の前だとまったく違和感がない。
これでよく編集長が務まると思うが、無理してでもそうしなければ世の中渡っていけないのだからこればかりは仮面をかぶってでも仕方がないのだった。
「そういうあなたこそ、こんな昼間っから写真を撮ってるなんて、いいご身分ね」
「あぁ、これでも一応仕事なんだ」
「仕事?」
―――あんなふうにヨットの写真を撮る仕事なんて、あるの?
「そう、海や船の写真を撮るのが俺の仕事、っていうか趣味に近いかな。まぁ、俺の場合は現像写真じゃなくて、ディジタル加工して使うんだけどな」
「ふうん、なんだかよくわからないわ」
「あんた、そういうの疎そうだもんな」
「失礼ねぇ、どうせ機械音痴よ」
なんだか、見透かされているようで歩が悪い。
―――確かに携帯電話はなんとか使いこなせるけど、パソコンはちょっと苦手。
どうせ、メールとネットくらいしか使えないわよ。
「あはは、俺は適当に言っただけなんだけど、そうなのか」
「もうっ」
―――正直に応えて損したわ。
「あのさ。さっき、女一人旅って言ってたけど」
「あっうん、うちの会社の社長が勝手に休みをくれて、それで一週間旅に出たってわけ」
「じゃあ、泊まりってこと?」
「ええ、近くの白い素敵なホテルを予約したんだけど」
「もしかして、あそこ?」
彼の指差す方を見ると、画像で見たものと同じホテルがすぐ目の前に建っていた。
あんな近くにあったとは…。
「そう、あれだわ」
「なんだ、そうか。俺もあそこに泊まってるんだ」
「あなたも?」
「マサト」
「え?」
「俺の名前、マサトって言うんだ。あんたは?」
「私は、望」
これが、ある夏の日に出会った、ふたりの物語の始まりだった。
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