「響子さん、キャプテンが怪我したみたいなんですけどー」
「は〜い。今、行くからちょっと待ってて」
「はいはい、大丈夫かしら?」と一人呟きながら、森山 響子(もりやま きょうこ)は救急箱を持って今日もグラウンドを駆け回る。
彼女がこの高校の野球部マネージャーを担って、早1年。
本当なら、こんな汗臭い部活のマネージャーなんてやりたくなかったけれど、監督に拝まれて仕方なく引き受けた。
これでもこの野球部は最近は暫くご無沙汰気味だが、優勝こそ惜しいところで逃しているものの、選抜大会や全国大会に何度も出場している学校として名が知れている。
もちろん、文武両道がモットーだから勉強だって抜かりない。
しかし、男子生徒が8割以上に対して女子生徒が2割にも満たないというこの状況で、響子は非常に貴重な存在なのだ。
「大丈夫?あぁ、こんなに擦りむいちゃって。浜野ったら、張り切り過ぎ」
「あ?これくらいたいしたことないのに、あいつらが勝手にお前を呼ぶから」
「ほら。つべこべ言わないで、ジっとして」
「わかったよ」と浜野 幸大(はまの ゆきひろ)は、おとなしく擦りむいた肘を響子に消毒してもらう。
幸大(ゆきひろ)もたいしたことはないと言いつつ、やっぱり傷が沁みたのか「痛てっ」と一瞬顔を歪めた。
彼は響子と同じ2年生だったけど、クラスは違う。
1年の時も違うクラスだったから、野球部のマネージャーをしなければ、こうして話すこともなかったかもしれない。
「はい、治療終了」
「あっ、ありがと」
つい、響子の長いまつ毛や艶やかな唇に見惚れていた幸大(ゆきひろ)は慌てて返事を返したが、声が上ずってしまう。
それは野球部員にとって、彼女は太陽のように輝いて見えるから。
整った顔立ちにサラサラとした長い黒髪をマネージャーをしている時だけお下げ髪にして、それがとても愛らしい。
その華麗な容姿に対して若干(いや、かなり)口は悪いが、みんなワザと怪我をして手当てをしてもらったり…。
女子が極めて少ないこの学校で誰もなり手のないマネージャーにずっと野球部員が兼ねていたが、こんな綺麗な女子を拝み倒した監督には感謝してもしきれない。
今の部員は幸せなのである。
「浜野はキャプテンで期待の4番なんだから、怪我には気を付けてね」
「あぁ。でも、響子が手当てしてくれれば大丈夫だろ」
「擦り傷程度ならいいけど、もっと大きな怪我をしたら大変でしょ?」
響子は幸大(ゆきひろ)の背中をポンッと叩いて、みんなの中に押しやった。
―――全く浜野ったら、勝手なこと言って。
彼の後姿を見つめながら、心の中でそう言葉にする響子。
3年生が引退した今、残った幸大(ゆきひろ)を含む2年生と1年生が来春の選抜出場に向けてこれから秋季大会に望まなければならない。
その中でも4番の彼は期待の星、実は響子もちょぴり気になる存在だったりして…。
坊主は好きにならないって思ってたんだけど、彼の目がとても綺麗だったから。
◇
毎日暗くクタクタになるまで練習して、家に帰ってもゆっくりしている暇などなく勉強が待っている。
大変だけど、好きな野球を続けるためには勉強しなければならないのだ。
「あぁ〜あ、明日は英語のテストなんだよな。ったく、テストなんて定期試験だけにすりゃぁいいのに」
帰る方角が一緒だからと、部活のある日はいつも幸大(ゆきひろ)は響子と一緒。
冷やかされることは度々だけど、キャプテンだということもあったし、他に帰る人がいないのだから仕方がない。
大事なお姫様に何かあっては大変だから。
「かわいそう。浜野、明日テストなの?」
「えっ、響子のクラスはテストじゃないのかよ」
「あたしのクラスは、日頃の行いがいいから」
「はぁ?クっそぉ、何で俺のクラスだけテストなんだよ」
納得がいかない幸大(ゆきひろ)は、道端に転がっていた空き缶を思いっ切り遠くへ蹴り飛ばす。
英語の担当はクラスによって違うから、響子のクラスではテストなどという話は聞いていない。
「頑張ってね」
「他人事だと思ってるだろ」
「思ってるもん」
いい逃げする響子を「こらっ、響子っ!」と、叫びながら幸大(ゆきひろ)が後を追い掛ける。
こんな他愛もないことでじゃれ合う二人だったが、このひと時がとても楽しかった。
+++
「森山さん、あの…」
これから部活だというのに同じクラスの男子に呼び出された響子。
何かを言うために呼び出したにも関わらず、なかなか言い出せない彼に苛立ちを隠せない。
「ねぇ、あたし忙しいの。何か言いたいことがあるなら、手短にお願いできない?」
腰に手を当てて仁王立ちしている姿は、お姫様というより鬼?
おっと、これは彼女の前では決して口に出して言ってはいけないが…。
「いや、だから…あの…」
「はい、タイムアウト。言っとくけど。あたしねぇ、はっきりしない男は大っ嫌いなの。○○○○付いてんでしょ?」
「は…い…」
―――あぁ…一体、何なのかしら?
男のクセに、はっきりしないなんて…。
響子はもう一度、大きく溜め息を吐いた。
「オイオイ。仮にも女性なんだから、○○○○はないだろ」
たまたま通り掛かったというか、部活が始まるのに来ない響子を探しに来た幸大(ゆきひろ)が思わず今の会話を耳にして声を出してしまった。
それは、こんなに可憐な彼女から、到底想像もつかない言葉が発せられたからで…。
「浜野、聞いてたの?」
「聞いてたっつうか、聞こえたんだよ。お前さぁ、ギャップが激し過ぎるから、それは俺の前だけにしてくんない?」
「だってぇ。はっきりしない男って、イライラするんだもん」
―――浜野にこんなところ、見られちゃって…。
まぁね、隠したってどうせバレるわけだし、これで嫌われたってあたしは自分を偽るつもりはないんだもん。
「その気持ちも、わかるけど」
「あっ、そうそう。今日って秋季大会の予選抽選会が、あったんでしょ?」
話が逸れたような気がしたが、今日は秋季大会の予選抽選会があった。
これから結果を監督が報告することになっていて、だから幸大(ゆきひろ)は響子を探していたのだ。
「今からそれを聞くところだから、響子を探してたんだよ」
「そうだったの?早く行かなきゃ」
響子は幸大(ゆきひろ)そっちのけで、走って行ってしまう。
…ったく、あいつはなんなんだ。
苦笑しながら見送っていた幸大(ゆきひろ)だったが、『おっと、俺も急がなきゃ』と慌ててグラウンドに走って行った。
「秋季大会予選の相手校を発表する―――」
監督の口元に視線が集まる。
一体、相手はどこの学校なのか…。
「S工業高校だ」
「えっ、S工?」
一瞬選手達の顔が強張り、すぐにどよめきが広がった。
S工と言えば、この夏、全国大会に出場してベスト8までいった強豪校。
3年生は引退したとはいえ、大会では1年生ルーキーで大活躍したピッチャーもいた。
そんな強豪中の強豪校に初戦で対戦することになろうとは…。
「本音を言えば初戦で当たりたくはなかった相手だが、ここで勝てば一気に優勝も有り得る」
「そうですけど、監督。どう考えても、勝つ見込みはないと思いますが…」
弱気な発言をしたのは、幸大(ゆきひろ)。
『キャプテン自ら、こんなことでどうするの?』と響子は思ったが、誰もが心の中でそう思っていたはず。
「こら、浜野。キャプテンが、初めから負けると思ってどうする。相手が例え夏のベスト8までいった学校であっても、最後まで諦めない、勝つと信じて戦うんだ。全てを出し切って、悔いの残らないように」
監督の言う通り、相手がどうであれ初めから負けると思ったら、勝つ試合も負けてしまう。
結果ももちろん重要だけど、後悔しないよう全てを出し切ることの方がもっと大切なことのように思えたから。
「そうよ、みんな頑張ってるんだもん。あたしは、絶対勝つって信じてる。だって、うちのチームには浜野 幸大(ゆきひろ)っていう、すっごいバッターがいるんだから」
「あ?俺?」
響子に振られ、お茶らけたように慌てて人差し指を鼻の辺りに向け答えた幸大(ゆきひろ)だったが、なぜかみんなも「うんうん」と納得したように頷いている。
なぜなら、このチームの勝敗を握っているのは彼の一振りにかかっていると言っても言い過ぎではないからだ。
「浜野。森山さんにそこまで言われたら、負けられないな」
「何で、俺だけ」
幸大(ゆきひろ)は膨れっ面でぶつぶつと文句を言っていたが、響子にそんなふうに言ってもらえたことが実はめちゃめちゃ嬉しかったりもして…。
…ヨッシャ!必ず、勝ってみせる。
自分のため、そして彼女のために。
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