「ほら、お姉ちゃん。彼氏、来たよ?早くしないと」
微かなクラクションの音に反応した妹の睦月が、こっそり教えてくれる。
父親は既に会社に行っていて、母親は朝から掃除洗濯と忙しい。
ノエルに彼氏がいることを知っているのは今のところ睦月だけだったが、かろうじて彼氏いない暦21年で終止符を打った姉を心から喜んでいた。
しかし、その相手がノエルの勤める会社の専務と知って、ものすごく驚いていたけれど…。
「えっ、もうそんな時間?」
時計を見れば、いつもより少し早い。
遼はバス停ではなく、毎朝ノエルの家の前まで車で来てくれるようになったのだが、今朝はやけに早い。
「じゃあ、お姉ちゃん行くね」
「行ってらっしゃい」
ヒラヒラと手を振る睦月にノエルはニッコリ微笑んで、慌ててジャケットを羽織り、バッグを掴むとヒールを履いて玄関を出る。
―――あぁ、いい天気。
桜の花も終わって、今は新緑の季節。
ノエルにとって、1年中で一番大好きな季節でもあった。
「おはようございます。今日は、いいお天気ですね」
「おはよう。そうだな、俺もやっとまともに過ごせる時期になってきたよ。今朝は気持ちのいい目覚めだったし、起きるのも前ほど苦じゃなくなった」
朝と寒いのが苦手な彼にとっては、ようやく快適に過ごせる季節がやって来たのかもしれない。
「それで、いつもより少し早く出て来たんですか?」
「いや、朝っぱらから会議でさ。ったく、ジイサン連中には付いていけないっつうの。だから仕方なく早く出て来たんだけど、ごめんな付き合わせて」
社長である父を始め、他の役員達はほとんどが50を過ぎているせいか朝が早い。
前々から早朝会議なるものを社長が提案していたのだが、朝の弱い遼にとってはそんなものをされては身が持たない。
断固として阻止し続けていたけれど、ノエルと付き合うようになってからは遅刻をしなくなった遼を見た父がここぞとばかりに決めてしまったのだ。
「いいえ。私のことなんて気にしないで、先に行ってもらっても良かったんですよ」
本当は、ここを通ると遠回りだということをノエルは知っている。
ノエルを乗せなければ、早く家を出なくても済んだかもしれないのに…。
「こうやって、ノエルと毎朝一緒に出勤するのが俺の楽しみなんだ。だから、早起きも苦にならない」
赤信号で車を止めると、遼はノエルの手に自分の手を重ねる。
ほんの少しの間でも顔を見たかったし、話もしたかった。
最近仕事が忙しくてあまりデートにも誘えない遼にとって、この時間が何よりも大切だったのだ。
「でも、無理はしないで下さいね」
「あぁ」
信号が変わって遼の手が離れてしまうとノエルは少し寂しい気もしたが、彼の言うようにこうやってほんのひと時でも側にいられることを幸せに思わなければ…。
◇
「ノエル、おはよう。今日は、早いのね」
「おはよう、亜佐美。うん、今朝は会議があるからって少し早く来たの」
いつもなら先に来ている亜佐美だったが、今朝は遼が早朝の会議で少し早い出勤だったせいかノエルの方が先に出社していた。
「相変わらず、仲のよろしいことで。羨ましいわね、まったく」
去年のクリスマスの日から付き合い始めてからというもの、毎朝高級外車で送ってくれる彼氏がいるなんて、満員電車で押しつぶされながら通勤する亜佐美にはまったくもって羨ましい限り。
「でもね。最近忙しいみたいで、お休みの日もゆっくり逢えないの」
「そっかぁ。彼氏は専務だもんね」
御曹司でカッコいい彼氏に毎朝高級外車で送ってもらう。
それだけ聞けば羨ましいと思うが、専務の彼は忙しい身、休みの日に逢うこともままならない。
寂しげな表情のノエルを見ていると相手はどうであれ、恋する乙女はみんな同じなんだなと思う。
「なら、彼の家で待ってれば?合鍵持ってるんでしょ?」
「合鍵?そんなの持ってないわよ」
―――合鍵なんて、そんな…。
付き合い始めてどれくらいで彼に合鍵を渡されるか、なんて話も聞くけど、彼氏いない暦21年だった私がそんなこと考えたこともなかったわ。
「えっ。速水さんだったら、とっくに渡してると思ったんだけど」
亜佐美もびっくり、二人はすぐにえっちしたにしては合鍵を渡していないというのはどうなんだろう…。
「亜佐美はどうだったの?彼氏にはどれくらいで、合鍵を渡されたわけ?」
「あたし?すぐもらったわよ。付き合って、1ヵ月くらいだったかしらねぇ」
亜佐美は短大に入ってすぐ彼氏が出来たが、彼は2つ年上の大学3年生だった。
彼は独り暮らしだったから、付き合って1ヶ月くらいで合鍵を渡されて、ものすごく嬉しかったのを今も思い出す。
まぁ、1ヶ月を早いとみるか遅いとみるか、こういうことは人それぞれだから…。
「えっ、1ヵ月?」
―――そんなに早く…。
「ほら。ノエルの家は実家だし、両親や妹もいるから、彼も気を使ってるんじゃない?」
「亜佐美だって、実家じゃない」
「え…」
余計なことを言ったと思っても、もう遅い…。
気にしてしまったであろうノエルにいくら弁解しても、耳に入っていないようだった。
+++
「随分と重そうですが、手伝いましょうか?」
ノエルは別の部署に持って行くよう課長に頼まれ、書類の束を抱えながらエレベーターに乗っていると途中の階でドアが開き、入って来た野坂に声を掛けられた。
「あっ、野坂さん。大丈夫ですよ、これくらい一人で持てますから」
今度は倒れなかった…とホッとする野坂。
あの時のトラウマなのか、どうもノエルに声を掛ける時はドキドキしてしまう。
「どうしたんですか?なんだか、元気がないようですが」
エレベーターのドアが開いた時、野坂はすぐにノエルと気付いたが、彼女は一点を見つめていてその表情は少し寂しげだった。
「いえ、そんなことないですよ」
「なら、いいのですが…」
元気のない彼女のことを専務が知ったら…。
野坂はそれだけが、気が気ではない。
「あの…野坂さん」
「はい、何でしょうか?」
「こんなことを聞いていいのかどうか…」
「どうぞ、何でも聞いて下さい」
「あの…野坂さんは、付き合ってどれくらいで彼女に合鍵を渡したんですか?」
「はい?!」
何でも聞いてくれと言ったものの、ノエルの唐突な質問に野坂も答えに困ってしまう。
そこそこ付き合った彼女はいるものの、合鍵なんてものは自分から渡したことはない。
というか、彼女に強引に持っていかれたことはあったが…。
??もしかして…。
勘の鋭い野坂はすぐに気付いたが…。
「ごめんなさい。変なことを聞いてしまって…」
扉が開くとそういい残して、ノエルは行ってしまった後だった。
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