「あの、文章さん?」
「ちょっと早いけど、食事でもどうかな?友達から、いい店を聞いたんだ」
麻衣の話など聞いているのかいないのか、文章は勝手に一人で話を進めてしまう。
彼は将来父親の後を継いで建設会社の社長になる身ではあるが、今は一社員として仕事をしている。
だから、通勤は電車だし、お給料だって同じ時期に入社した者と変わらない。
もちろん、今もあの高級外車はなく、二人並んで歩いている。
「文章さん、私は行きません。父から、そちらへはきちんとお見合いの件はお断りわりしたはずですが」
話がしたいと言われても麻衣にしてみれば、もうこの件については既に終わったこと。
こんなふうに会いに来られると逆に未練が出てしまうから、そっとしておいて欲しいのに…。
「確かに父からその話は聞いたよ。でも、僕はそれを受け入れたつもりはないから」
「えっ、つもりはないって…」
―――どうして?
文章さんは、なぜそこまでして私と…。
彼に対して何一つ愛情を返してはいない、それどころか誤解して嫌な思いばかりさせているというのに。
「麻衣さんは、言ったよね。僕のことが好きだって」
「え?それは…」
―――確かにそう言ったけど…。
それは彼の前では正直でありたかったから、だからこそ断ったのにどうしてわかってくれないの?
「その気持ちが嘘じゃないなら、僕は君を離すつもりなんてないから」
「えぇ?ちょっ待って…こんなところで…」
文章は麻衣の腕を引き寄せ、自分の胸に抱きしめた。
辺りは薄暗くなってきてはいるものの、学生も一般の通行人だっているというのに…突然の行動に麻衣もどうしていいかわからない。
「やっ、文章さん。や…めて…下さい」と小さく抵抗する麻衣を、文章はしっかり抱きしめて離さない。
そして…。
「愛してる、麻衣」
耳元で囁かれた言葉に麻衣は、瞬時にその動きを止めた。
生まれて初めて言われた『愛してる』という言葉に、なぜか胸の奥がキュンと切なくなって涙が出そうになる。
「愛してるんだ。僕が愛する女性は、麻衣だけだから」
彼の真っ直ぐな想いを受け止めたい…でも…。
「文章さん…」
「麻衣は何も言わずに『はい』って言ってくれればいいんだ。っていうか、拒否権はないな」
「え…」
―――文章さんって、こういう人だったの?
いつの間にか、呼び捨てられてるし…。
微笑む彼に自然と麻衣の表情も穏やかになる。
親同士が決めたお見合いなのに、こんなにも自分のことを想ってくれるなんて…。
「ごめんなさい」
「ん?そのごめんなさいは、まさか…」
いい感じに思われた二人だったが、またもや暗雲が…。
たった今、全てをぶつけた文章にはこれ以上麻衣を繋ぎとめておく手段が見つからない。
「あっ、あの…今までのことを謝りたかったんです」
「え?」
「文章さんの気持ちを受け止められなかったことを、ちゃんと謝っておきたかったんです」
―――もう、意地を張るのはよそう。
私も文章さんを愛しているから。
「改めてもう一度、私とお付き合いしていただけませんか?」
「えっ、それ…ほっ、ほんとに?」
信じられないのか、何度も何度も聞き返す文章の頬に麻衣はそっと羽根が触れるようなくちづけを一つ。
それだって麻衣にとっては初めてのことで、それに外で人目もある。
心臓だってバックンバックンいってるけど、でも、こうでもしないと彼はいつまでも信じてくれそうになかったから。
「どうしよう…嬉しくって、どうしていいかわからない。今夜は帰したくないけど、そんなことは立花さんは許してくれないだろうし…」
―――あの…文章さん?
さらっとすごいこと、おっしゃってません?!
今夜は帰したくないとかなんとか…。
彼は大人の男性なんだから、そういうことはまぁ…あるのかもしれないけど、私はその…。
「文章さん、あの…落ち着いて下さいね」
「ん?これが落ち着いていられないんだな」
「やっ、ちょっと、文章さん?」
なんて、麻衣の言葉など全く耳に入らない文章は彼女の腰にしっかり腕を回したまま、タクシーを捕まえると車はどこへともなく走り去った。
+++
―――あぁ、こんな時間になっちゃって…。
文章さんとまたお付き合いすることになって食事に行ったのは良かったんだけど、気が付けばこんな時間。
お父様に叱られちゃうわ。
家の前まで送ってくれた文章は麻衣の両親に挨拶すると言ったのだが、時間も時間だし次回に改めてと玄関先でそのまま帰って行った。
だから、今は一人で…。
あぁ〜もう、お父様がやすんでくれてるといいんだけどなぁ。
「麻衣、こんな遅くまでどこへ行ってたんだ?」
「たっ、ただいま、お父様。まだ、起きてたんですか?」
―――こういう日に限って、起きてるんだから。
いつもなら、自室に入ってる時間なのにぃ。
「お帰りなさい、麻衣ちゃん。お父様は、娘が心配で寝てられなかったのよ。こんな時間まで、文章さんと一緒で何してるんだってね」
「ただいま、お母様。って、どうしてそれを」
―――何でお母様は、私が文章さんと一緒だったって知ってるの?
ついさっき、またお付き合いすることになったばかりなのよ?
「文章さんから電話があったの。よろしくお願いしますって」
「え、文章さんが?いつ?だって、ずっと私と一緒にいたのに」
―――私がちょっと席を外した時かしら?って、そんなことはどうでもいいんだけど。
「そんなことよりも、麻衣ちゃんの気が変わらないうちに早く結納を済ませないとね。そうそう、そうなったら大変だわ。明日にでも、お着物を新調しないと」
「ちょっとっ、お母様。結納って…」
―――やっと振り出しに戻ったばかりなのに結納って…そんな気が早い。
お母様は、それを口実にお着物を買いたいだけなんでしょうけどっ。
「田多井にあんな電話を掛けた後なのに、文章さんはどうしても麻衣と一緒になりたいって言ってくれたんだ。だから、もう我侭は許さんからな。結婚は大学を卒業してからの話になるだろうが、お母さんの言うように結納の話は進めておく、いいね」
「え?ちょっと待って。私は、まだ」
―――うそ…何でこんな話になっちゃうわけ?
文章さんのことは好きだけど、話が飛び過ぎるわよ。
などという、麻衣の言葉など両親には到底届きそうになかった。
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