「あちらの方からです」
そう言って、この店で一番人気のイケメンバーテンダーが葉月の前に置いたグラスはシャーリー・テンプル。
炭酸飲料とシロップで、甘口に仕上げられたノンアルコールカクテルだ。
―――こんなことするなんて、今時ナンパ?
という言葉が頭に浮かび、バーテンダーに言われた方へ顔を向けようとしたのと同時に葉月の隣の席にある男性が座った。
年齢は30歳くらい、バッチリ決めたスーツ姿が只者でないことを感じさせる。
薄暗い店内にいてもかなりのいい男だというのはわかるから、こういうことをするのは慣れているのだろうか?
しかし、葉月もこの店には良く来るが、今まで見掛けない顔。
「そんな飲み方は、良くないな」
「大きなお世話、ナンパ男にそんなこと言われたくないわね」
今日の葉月は、いつもと違う。
確かにこの男性の言う通り、お酒は楽しみながら味わって飲むもの。
お酒が好きな葉月だってそれはわかっていても、乱暴に飲みたい時もある。
「ナンパ男か…」
男性はクスッと笑いながら、席を移動する際にバーテンダーが持って来たウィスキーのグラスに口を付けた。
その姿が妙に様になっていて、まるで俳優のよう。
葉月も、つい見惚れてしまう。
「俺のことはどう思ってくれても構わないが、酒はその辺で止めた方がいい。何があったか知らないが、体に悪い」
「心配してくれてるの?優しいのね」
―――そんな、甘い言葉には乗らないんだから。
シャーリー・テンプルには口を付けず、飲みかけていたマティーニを一気に飲み干すと同じ物を頼む。
「おかわり」
「もう、やめろって」
男性は葉月の持っていたグラスを取り上げると、バーテンダーに小さく顔を横に振り、これ以上お酒を出さないように合図する。
「何するのよっ」
「飲むなら、俺が頼んだものにしろ。どうせ、そこまで飲んでるんだ。何を飲んだって同じだろ」
あたしは仕方なく、男性の言う通りにシャーリー・テンプルを口に含む。
炭酸が口に広がって、あ〜なんだかすっきりして気持ちいい。
「美味しい」
「そうか」
それからは会話もなく、ただお互いグラスを傾けるだけの時間が続いたが、あんなにイラついていた心が不思議と落ち着いていくのはなぜだろう…。
飲めば嫌なことも忘れられると思ったが、そうではないことを彼が教えてくれたのかもしれない。
「ありがとう」
「ん?どうしたんだ。いきなり」
突然の礼の言葉に、男性は不思議そうな顔をして葉月を見る。
さっきまでの強い口調は、どこへ行ったのか…。
連動するように穏やかな葉月の表情に目が釘付けになった。
「何となく、お礼を言いたかっただけ。あなたに止められなかったら、ひどい飲み方をしていたと思うから」
「そうだな。若い女性の酔っ払いは、手に負えない」
「その言い方、前にも痛い目に遭ったって感じだけど」
この容姿だもの、たくさんの彼女とお付き合いしてきたに違いない。
その間には、色々なこともあったのだろう。
「君の想像に任せるよ」
「葉月」
「え?」
「あたしの名前、葉月っていうの」
「はづき?」
「そう。葉っぱにお月さまで、葉月。あなたは?」
「俺は、青」
「せい?」
「青って書いて、せいって読むんだ」
「いい名前ね」
「青、今夜はありがとう。じゃあ、また」と葉月は立ち上がり、財布から札を出しカウンターの上に置くと店を出る。
その後姿を見送りながら、青はポツリと呟くように言う。
「葉月…」
彼女が最後に言った『―――また』という言葉を思い出し、そうなればいいと思う自分に苦笑する。
今まで、そんなことを思ったことはなかったのに…。
青はグラスを空けると、バーテンダーにもう1杯同じ物を頼んだ。
+++
―――青…かぁ。
無意識に葉月は、昨日バーで出会った彼の名を囁いていた。
いい男だったわよねぇ。
あ〜ぁ、あんな冷たい素振りなんてしないで、彼にナンパされておくんだったわ。
などと、今更こんなことを言ってどうするの。
こんな、あたしみたいな仕事に生きる女なんて誰も相手にしない。
逃がした魚は大きかった…。
「社長、経営会議の時間です」
「・・・・・・・」
「社長?」
「えっ、何?」
秘書の杏子が、葉月の顔を覗き込むようにして見ている。
―――うわぁっ、マズイ。
あたし、変な顔してなかったかしら?
「会議の時間よ。どうしたのよ?ボーっとして。はは〜ん、さてはいい男でも見つけたわね」
「えっ、そっそんなこと…あるわけないじゃない。杏子じゃ、あるまいし」
こんなどもった言い方をすれば、自ら認めているようなもの。
こういうところが経営者として、まだまだ未熟なところだと葉月は思う。
「いいわよ、隠さなくたって。でも、珍しいわね。葉月がそんなふうになるなんて」
秘書の杏子とは高校からの親友で、2年前まで彼女は別の会社に勤めていたのだが、葉月が会社を興したのを機に無理矢理ヘッドハンティングしたのだった。
有能で頼りになる彼女を葉月は誰よりも信頼していたが、長い付き合いからかちょっとした変化も見逃さない。
「別にそんなんじゃないけど…」
「まぁ、後でゆっくり聞かせてもらうから。それより、早く行かないと」
「うん、わかってる」
葉月は必要な書類を揃えて、杏子と共に会議室へと向かった。
※ このお話はフィクションです。実在の人物・団体とは、一切関係ありません。作品内容への批判・苦情・意見等は、ご遠慮下さい。
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