ビビっときたとか。
一目惚れとか。
一瞬で恋におちたとか。


あたしは絶対に信じない。

だって、そんなに簡単に人を好きになったり、ましてや結婚なんてあり得ないもの。
顔がいいからって性格がいいとは限らないし、一流企業に勤めているからって将来有望とも限らないでしょ?
付き合ってみなければわからない部分は、たくさんあるはず。
25年間ずっとそう思ってきたはずなのに…。



雨に降られて。



ただいまの時刻、17時20分を回ったところ。
定時まであと10分。今夜は待ちに待ったお給料日だし、大学時代の友達とパーっと美味しいものを食べに行く約束だ。
こんなささやかな贅沢を楽しみにしている美胡(みう)の耳に、嫌〜な会話が聞こえてくる。

『今日中に持って来いって?』
『はい。来週でいいって言っていたんですけど、急に必要になったみたいで』
『もう定時か、仕方ないけど浅見さんに届けてもらうしかないな。俺から頼んでみるよ』

美胡(みう)がチラっと声の主の方に視線を向けると、課長とその下の美胡(みう)の直属の上司でもある主任が書類を見つめながらそんな会話を交わしていた。
どうやら話を聞いていると顧客先でその書類が急に必要になったから、今から届けて欲しいということらしい。
場所はここから電車を乗り継いで30分くらいの所にあって、美胡(みう)が真っ直ぐ家に帰るのであれば通り道である。
しかし、今夜は出掛ける約束だから全くの逆方向。
―――はっきり言って、チョー面倒。
用事があるって断っても平気かな、平気よね?
だってもうすぐ定時だし、時間外の話だもの。

そんなことを考えていると、すぐに課長が美胡(みう)のところへやって来た。
課長は40代前半の温厚だけど仕事がデキる人だし、尊敬もしているから美胡(みう)だって予定がなければ快く引き受けているところだが…。

「浅見さん、申し訳ないんだけど。至急、この書類を四つ葉商事まで届けてくれないか。必要になったらしくて」
「あのっ、すみませんが私、今日は―――」

即答で断ろうとしていたところに運悪く『課長、電話です』と主任の呼ぶ声が…。
間が悪いというのは、こういうことを言うのだろうか。

「悪いけど頼むよ。受付で営業部の土屋さんと言ってくれれば、わかるように連絡しておくから」

「今度、奢るからさ」と申し訳なさそうに言いながら行ってしまった課長の背中に向かって、『約束ですからねっ』と心の中で投げかけた。
―――仕方ないか…。
美胡(みう)は大きく溜め息を吐きながら携帯を手に取ると、友達に遅れる旨のメールを打つ。
同時に定時の鐘が鳴り響き、急いでパソコンをシャットダウンして机の上を片付けると早々に退社した。

急に運気が下降し始めたのだろうか…。

―――うそっ、雨!?
駅に降り立った途端、大粒の雨が乾いていたアスファルトにみるみる染みを作っていく。
天気予報で雨なんて、一言も言っていなかったじゃない!!
傘を持っていなかった美胡(みう)は、景色を見ながら途方に暮れるしかない。
通り雨ならまだしも、いつ止むかすらわからないものを待っているわけにもいかず、大事な書類の入ったバッグを胸にしっかりと抱え広げたハンカチを頭に載せて走り出した。
顧客先は徒歩で10分弱というところだが、これが雨のせいか意外に遠いものに感じられ、その間無情にも滴が全身を濡らしていく。
かなり久し振りに走ったものだから、ビルの前に着いた時にはゼーゼーハーハー、膝に手を当てて荒い呼吸を整えるのに少し時間が掛った。

「浅見と申しますが、営業部の土屋さんを―――」

拭こうにも生憎ハンカチは一枚しか持っていなくて、髪は濡れたまま。
辛うじてコートを羽織っていたことで助かったが、受付の女性も口には出さずとも思っていることは表情でよ〜く伝わってくる。
課長が連絡してくれていたからすぐに電話で土屋さんを呼び出してくれ、「ただいま来ますので、そちらでお掛けになってお待ち下さい」と受付の女性に言われたものの、この格好ではとても椅子には座れない。
柱の隅の方に隠れるようにして立ちながらガラス越しに外を確認してみたが、相変わらず雨脚は一向に弱まる気配はなかった。
―――また、この中を駅まで行かなきゃならないわけ?
考えただけでも憂鬱になってくる。
せっかく、おしゃれしてきたのになぁ。
食事に行くからと、買ったばかりのおニューの服を着て来たというのにこの有様とは…。
どこかに余ってる傘とかないかしら?とか思っていると、開いたエレベーターから降り出た若い男性が、受付の女性に聞いて美胡(みう)の側までやって来て挨拶する。

「こんな時間にご足労をお掛けして、申し訳ありませんでした」

「土屋と申します」と名刺を差し出した男性は、年齢は美胡(みう)より少し上という感じの背が高くてモデルかと思うくらい素敵な人。
彼の名前は、土屋 稜(つちや りょう)。

ビビっときたとか。
一目惚れとか。
一瞬で恋におちたとか。


あたしは絶対に信じない。

今までずっと、そう思っていたはずなのに―――。
何なの?この感覚は…。

「いっ、いえ。私は事務員ですので、名刺は持っていないんです」

どれくらい見惚れていたのか、我に返った美胡(みう)は慌ててバッグから書類を取り出して彼に手渡す。
雨は結構降っていたが、大事な書類は濡れていなくて良かった。

「週が明けてから準備する予定でしたが、急に早まりましてね。おかげで僕の土日はなくなりましたよ」

「これがないと、どうしようもなくて」と苦笑しながら、中身の書類を確認する手にもつい目がいってしまう。
―――男の人の手って、こんなに綺麗だったかしら?
さり気なく左手の薬指をチェックしてしまうところ辺り、美胡(みう)も相当ヤラれているのかもしれない。
できれば、こんな雨の日に出会いたくなかったな。

「それでは、私はこれで」

友達との約束もあるし、見惚れている場合でもないから「失礼します」と立ち去ろうとした美胡(みう)を「ちょっと待って下さい」と彼が止める。

「あの、浅見さんは傘をお持ちではないんですか?」
「えぇ、雨が降るとは天気予報でも言っていませんでしたから。すみません、こんな姿で」
「今夜一杯降るということですし、僕のでよければ貸しますよ。それこそ男物で、申し訳ないんですけど」
「いえ、そんなことをしたら土屋さんが困るのでは」

この際、男物でも何でも傘を貸してもらえるのはヒッジョーにありがたいけれど、今夜一杯降るというのであれば彼だって傘は必要のはず。
予備があるなら話は別だけど、それに…。

「僕は置き傘をしていますから、大丈夫です」
「えっ、でも…」
「実は、密かに期待してるんですよ」
「へ?」

思わず素っ頓狂な声を上げてしまったが…。
―――期待って…何?!

「もう一度、あなたに会えるってね」

そう言って、微笑む彼。

傘を借りてしまえば、返しに来なければならない。
それを期待してしまったのは美胡(みう)だって同じこと…まさか、彼もまたそう思っていたとは…。


ビビっときたとか。
一目惚れとか。
一瞬で恋におちたとか。

現実にはあり得ないようなことが、実際に起こるということ。

それが、恋というもの。



「うっそーっ!! 一ヶ月でプロポーズってアリ!?」

友達が驚くのも無理はない、自分だって未だに信じられないが、しっかり美胡(みう)の左手の薬指には婚約指輪が光っているのだから。
式は3ヶ月後に挙げる予定だが、実は入籍を先に済ませて、土屋 美胡(つちや みう)に名前も変わっている。
あの雨の日に衝撃的に出会った彼と、あっという間に恋に落ちてゴールイン。


※ このお話はフィクションです。実在の人物・団体とは、一切関係ありません。作品内容への批判・苦情・意見等は、ご遠慮下さい。


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