キッカケは雨。
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朝から降り続く雨は夜になっても一向に雨脚が衰えることはなく、更に激しさを増していた。
街の灯が夕闇に点り始める頃、交通機関が麻痺するのも時間の問題と察した人々は終業の鐘と共に一斉にオフィスを飛び出したのだろう、通りは傘を差して早足で歩く人達でごった返していた。
それは車を運転している者も同じ、道路はかなり混雑している上にワイパーが動くそばから滝のように雨が流れ、どんなに頑張ってもその役目をほとんど果たしていなかった。

「こんなひどい雨だってのにあの子どうしたんだ?傘も差さないで」

一人呟くように言う倉持のボヤけて見えにくい視界の先を歩く若い女性。
ダークグレーのスーツを着た男性の肩と裾が鉛色に変色しているのを見れば、確かに傘をさす意味はないかもしれないが、ささないよりはマシなはず。
かといって、見ず知らずの女性に声を掛けて自分の車に乗せるわけにも行かず、彼は彼女の横を通り過ぎたが、ドアミラーに映る女性にハっとして急ブレーキを踏んだ。
パワーウィンドウを一気に下げて叫ぶ。

「常盤(ときわ)君、どうしたんだ。こんな雨の中をずぶ濡れじゃないか」

言うや否や、倉持は急いで車から降りると有無も言わさず彼女を後部座席に押し込んだ。
会いたくない人間に会ってしまったという反応からか目を見開いたままの彼女の口から何か言葉が発せられたが、駐車禁止の場所に急停車したジャガーに対する抗議のクラクションと雨音に掻き消されてそれも聞き取れない。
ほんの一瞬、外に出ただけなのに倉持の着ていたブラックのスーツも濡れ、髪からはかなりの水が滴っていた。

「とにかく、それじゃ風邪をひく。服を乾かしてからだ」

チラっとバックミラーを覗き込むとアクセルを踏み込んだ。


彼がハンカチを貸してくれたが、今の自分には焼け石に水、あっという間に水を含んで重たくなった。
これから、どこに行くのだろうか?
『とにかく、服を乾かしてからだ』という言葉から、恐らくどちらかの家に向かっているに違いない。
しかし、彼は自分の家を知らないし、聞きもしないのだから答えは決まっている。
常盤 椎名(ときわ しいな)はウィンドウを流れ落ちる雨水をジっと見つめながら、高級車ならではの乗り心地の良さにそんなことはもうどうでもいいことのように思えてうとうとと静かに目を瞑った。

どれくらい走ったのか、暫くして巨大な高層マンションの地下駐車場にジャガーが滑り込む。

「おい、常盤君。大丈夫かい?」
「はい…」

いつの間に眠っていたのだろうか?
きょとんとした表情で寝ぼけ眼の椎名を倉持が抱き上げる。

「あのっ、自分で歩けますからっ」

まさか、抱き上げられるとは思ってもみなかった。
慌てて椎名は倉持の腕を掴んで立ち上がろうとしたが、思うように力が入らないどころか、まるで無重力状態の宇宙から帰還したロケットから降り立ったかのように体の力が抜けて、その場に崩れ落ちた。

「ほらっ、言わんこっちゃない」

あんなひどい滝のような雨にどれだけの間打たれていたのか倉持には想像もつかないが、眠っていた彼女の赤みを増した顔を見れば熱があるのは明らかだ。
全身ずぶ濡れの状態で彼に抱かれるのは不本意ではあったが、今は言葉に甘えて頼るほかなかった。

「ごめんなさい。ご迷惑をお掛けして。スーツ濡れてしまいましたね。あと車のシートも」
「そんなことは、気にしなくていいから」

水分を含んだ服は更に重さを伴っていたはずなのに彼女の体は驚くほど軽い。
ちゃんと食べているのだろうか?
幸い、エレベーターには誰も乗ってくることがなかったからノンストップで最上階の倉持の住む部屋に到着したが、さっきまでの勢いは消え、彼女はぐったりとして反応がない。
熱が上がってきているのかもしれない。
急いで玄関のドアを開けるとバスルームから数枚のタオルを取って、彼女をリビングのソファーに横たえた。
まず、服を脱がせて体を拭いて温めないと。
これは緊急事態なんだと倉持は自分に言い聞かせ、彼女の着ているものに手を掛けた。
真っ白でシルクのように艶やかな肌に思わず目が留まったが、本能の赴くままに見惚れている場合ではない。
レースの付いた淡いピンク色のブラジャーから窮屈そうに見える膨らみに心を奪われつつも、とにかく自分が今やらなければいけないことに全神経を集中させた。



「今夜一晩様子を見て、明日になっても熱が下がらなかったら病院に連れて来るように。暖かくして寝ていれば心配ないよ」
「忙しいのに悪かったな。ありがとう、助かったよ」

「往診はしてないが、親友の頼みじゃ断れないからな」幼馴染で開業医の時田 学(ときだ まなぶ)は「可愛い彼女になにやらかした?って話は、また今度ゆっくり聞かせてもらうさ」と倉持の肩をポンポンと2回叩くと勘違いな言葉を残して帰って行った。
俺が何をしたっていうんだ。
雨の中を傘もささずに歩いていた彼女を自分の車に乗せただけだぞ?お礼こそ言われても、よからぬ疑いを掛けられる筋合いはないはずなのに。
穏やかな表情で眠る彼女を見ながら心の中で悪態をついてみたが、とにかく大事に至らなくて良かった。
何があったのか聞きたいのは山々、その前に目が覚めたら元気が出るものを食べさせてあげたいと思ったが、あいにく倉持には料理なんぞこれっぽっちもできる腕は持っていない。
さて、困ったな。
自分一人ならデリバリーで済ませるところだが、弱っている彼女にそんなものは食べさせられない。
そんな時、リビングのソファーに無造作に脱ぎ捨てたままのスーツの上着に入れっぱなしだった携帯電話の鳴る音が聞こえる。
寝室をそっと出ると内ポケットをまさぐるようにして携帯を取り出した。
ディスプレイに表示された文字を見て、いつもならそのまま放置か即座に切っているところだが、今回だけは状況が違う。

『尚(なお)?』
「姉さん、ちょうど良かった」

「あのさ、熱出して寝てる人に何を食べさせてあげればいいんだ?」電話を掛けたのはどっち?と言いたくなるのを抑えて姉は弟の質問の答えを考えた。

『やっと電話に出たと思ったら唐突に。熱出して寝てるって誰が?』
「いや、ちょっと」

学じゃないが、この状況をいくらきちんと説明しても姉のことだから、またとんちんかんな解釈をして騒ぎ立てるに決まってる。

『じゃあ、病人は男か女か答えなさいよ』
「後者」
『ったく、まどろっこしい遠回しな言い方して。彼女ならはっきり、そう言いなさい』
「いや、彼女じゃないんだ」
『彼女じゃなきゃ、誰なのよ』
「その質問にも今、答えないとダメかな」
『まぁ、いいわ。これからそっちに行くから食事のことは任せて。話したいこともあるし、ゆっくり聞かせてもらうわね』

「話したいことって?」と聞き返す間もなく電話はブッツリと切れた。
なんだったんだ?
とはいっても、姉が来てくれれば非常に助かることは間違いない。
どうせ、顔を見せに一度家に帰って来いとかそんな話だろうが、この前みたいに突然、見合い相手を連れて来られるのも厄介だ。
取り敢えず、覚悟を決めて待つしかない。
倉持は寝室に戻り、眠っている彼女の顔をもう一度見つめると着替えるために部屋を出た。


お名前提供:常盤 椎名(Shiina Tokiwa)&倉持 尚(Nao Kuramochi)/時田 学(Manabu Tokida)……えきすぷれす さま

※ このお話はフィクションです。実在の人物・団体とは、一切関係ありません。作品内容への批判・苦情・意見等は、ご遠慮下さい。


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