キッカケは雨。
2



暫くすると、玄関のチャイムが鳴り響く。
姉にしては動きが早いなと思いつつ、何かよからぬことを考えていなければと祈るばかり。

ピンポーンポンポーン

はいはい、今出ますって。
どうして、姉弟だっていうのに姉さんはこんなにもせっかちなのか。

「早かったな」
「そりゃあ、急いで来たわよ。なんたって病人がいるんだから」

学が往診に来てくれたことを言わなかったからなのか、まぁ姉のことだから本気で心配して来てくれたのだろう。
手には途中で買い物してきたのか、食材の入ったビニール袋が2つ。

「で、どうなの?」
「あぁ、学に来てもらったから。今夜一晩様子を見て、明日になっても熱が下がらなかったら病院に連れて来るようにって。暖かくして寝ていれば心配ないらしい」
「そう。ならいいんだけど。で、誰なの?」

「ちょっと覗いてみてもいい?」という姉に隠していてもしょうがないし、自分の部屋のベッドで寝ていると言うと、静かにドアを開けた。
呼吸も落ち着いているし、この分だと大したことはないらしい。
しかし、寝顔だけ見ても、かなりの美人である。
尚は彼女ではないと言ってたが、では一体誰なのか?どうして、熱を出してここで寝ているのだろうか?
聞きたいことが山ほどある。

「顔色もそんなに悪くないし、大丈夫そうね」
「あぁ。雨の中を傘もささずに、ずぶ濡れになって歩いている姿を見た時は驚いたけどな」
「えっ、この雨の中を?」

姉が家を出て来た時も、まだ雨脚は衰えてはいなかった。
なのにこの滝のように降る雨の中を傘もささずに歩いていたというのだから、余程の事があったに違いない。
取り敢えず、彼女が目覚めてから食べられるようにと買って来た野菜などを冷蔵庫に入れる。
弟のマンションにはよく出入しているため、稀に彼女と間違えられて修羅場?なんてこともなくもない。
自分では良く似ていると思っているが、他人から見ると言われない限りわからないらしい。
姉の存在のせいで本気の彼女ができないのか、いや、こうしてちょくちょく覗きに来なければ益々、ダメ男になってしまう。
倉持家の長男として早くいい女性(ひと)を見つけて結婚し、跡取りを作らなければならないのだから。

どこに何があるか、尚よりよく知っているであろう姉はコーヒーメーカーをセットしながら、いよいよ確信に迫ることにする。

「彼女は尚にとってどういう相手なの?雨の中を傘もささずにずぶ濡れになって歩いている姿を見たからって、見も知らずの女性を家に連れて来たりしないでしょ?」

「いくらなんでも」と姉は食器棚からコペンハーゲンのブルーフルーテッドのカップを取り出す。
リビングに続いた対面式のキッチンから、コーヒーのいい香りが漂ってくる。

「うちの会社で秘書やってるよ」
「え?そうなの」
「っつうか、親父のな」
「は?親父のって。彼女、お父さんの秘書なの?」

「こりゃまた、えらい美女と毎日顔合わせてんのね。お母さんが知ったら大変じゃない」まさか、父親の秘書を連れて来たとはねぇ。
まっ、あれだけ美人なら、尚が手を出さないわけがないわね。
コーヒーメーカーが、ゴボゴボと音を立てている。

「だから、自分の秘書にしてるんだろ。あのエロ親父」

「一番いいのを自分のところに置いてさ。俺なんか、50過ぎたオバチャンだぞ?母さんが二人いるような気になる時もあるんだ」尚はかなり不満のようだが、父親なら尚更、年頃の若い女性を自分の息子の秘書になどさせないに決まってる。
だいたい、エロ親父の息子はどこの誰なわけ?

「ふううん。だけど、雨に濡れたまま歩いてたなんて、何があったのかしらね」

出来上がったコーヒーをカップに注ぐ。

「さぁな。個人的なことだから」
「目が覚めたら余計なことは聞かないで。でも何か言いたそうだったら無視しないで、ちゃんと聞いてあげるのよ?」

「お近付きになれる、いいチャンスなんだから」またもや、姉のお節介心が働き出したようだ。
何かあったとしても、彼女が俺なんかに話したりしないのに。

「姉さんが聞いてやってくれよ。女同士なら話しやすいかもしれないし」

いつも明るくて、誰からも好かれる彼女に何があったのか。
踏み込んではいけない領域だとわかっていても、尚はなぜか気になって仕方がなかった。



ギャアーッ!!

「ななっ、何?」
「どうしたんだっ?」

突然、奥の部屋から叫び声が聞こえ、二人は顔を見合わせると勢い良く立ち上がり、慌てて尚の部屋のドアを開けた。
そこには目を覚ましたばかりの彼女が、涙目を見開いて凝視していた。

「どうしたの、大丈夫?寝ぼけてるのかしら、びっくりしちゃったのね」

姉が子供に話すように優しく声を掛ける。
ぼやける思考、視線が動き、横に見知った顔を見つけて我に返った。

「わ、若社長」

「どうして?!若社長が…」その前に自分が素肌に薄いバスローブ一枚の姿、誰ともわからない人の部屋のベッドに寝ていたのはなぜなのか。
知りたいことは山ほどあるが、熱のせいか体がだるく頭もクラクラする。

「ほらっ、無理しちゃダメよ。私は尚の姉だから心配しないで、もう少し横になってた方がいいわよ」

「何か温かいものでも持ってくるから」言われてみれば若社長に似ていなくもないお姉さんは、やはりズバ抜けて綺麗だった。
椎名は顧問である彼の父親の秘書をしていたが、ここだけの話、あの親からこの姉弟が生まれたのは余程母親が美人だから?だとしか思えない。
まだ見たことがないので、憶測でしかないけれど。
布団の中に戻され仕方なく天井を見つめていたが、雨の中を歩いていた時に若社長の車に押し込まれたことを思い出した。

「ここは、若社長の部屋ですか?」
「あぁ、ずぶ濡れだったからな。服を乾かした方がいいと思って連れて来たんだが、熱で倒れたんだよ」

「悪いと思ったがそのままにしておくわけにもいかなくて、服は俺が脱がせた。安心して、見てないから」気を使っているのか、若社長は入口の壁に寄り掛かって椎名と一定の距離を置こうとしているようだ。
会社では挨拶を交わす程度、ほとんど口をきいたことはなかったが、長身でどんなに離れていても必ず彼を見付け目が行くほど魅力的な反面、少なくとも椎名にとっては最も危険な存在。

「すみません。ご迷惑をお掛けしてしまって」
「一応、医者には診てもらったから。今夜一晩様子を見て、明日になっても熱が下がらなかったら病院に連れて来るようにって。ゆっくりしていけばいいさ。どうせ、親父の世話なんて、たいしてないだろうし」
「そんなわけには」

泊まるなんて…。
彼が使っているベッドに寝ていること自体、落ち着かないというのに。
だから、一刻も早くここを出て行かないと。

「そうよ。無理は禁物。これ飲んで眠れば、嫌なことも全部忘れて元気になってるから」

姉が作って持ってきたのは蜂蜜レモン。
ゆっくり起き上がってガラスのカップを手に取ると、甘い香りに体の芯まで温まりそうだ。

「ありがとうございます」

あんな土砂降りの中、傘もささずにずぶ濡れになって歩いていたことを若社長は姉に話したのだろう。
嫌なことがあったと言えばそうなのかもしれないが、雨で全てが流れてしまったように今となっては遠い昔のこと、どうでもいいように思えるから不思議だ。

「美味しい」
「そう?良かった。うちはみんな、熱を出した時にこれを飲むとすぐ治っちゃうの」

お姉さんは綺麗なだけでなく、気さくな上に魔法使いのように何でも叶えてくれる力を持っていそう。
顧問はマンション住まいではなかったから、となると若社長はお姉さんと二人暮らしなのだろうか?

「ちょっとごめんね。電話みたい」

ソファーに置いていたバッグの中から、何やら不思議な着信音が聞こえる。
姉は急いで電話を取りに出て行った。
また、静かな沈黙が流れる。

「ごめんね。旦那、帰って来ちゃった。こういう日に限って早いのよ。腹減っただのなんだのって」

「尚には狼にならないよう、よーく言い聞かせておくから。いいわね」鋭い視線で睨みつけると「治るまで無理しないで寝てるのよ。お粥も温めれば食べられるようにしてあるから。じゃあね」と風のように去って行ってしまった。

「もうだいぶいいので、自分の家に帰ります」
「姉さんの言うように居たらいいさ。君は見掛けに寄らず、無茶するタイプのようだし」
「私がここに寝ていたら、若社長はどこに寝るんですか?」
「俺?君さえ良ければ隣に」
「帰ります」

お姉さんの言うこと、ちっとも聞いちゃいないじゃない。
椎名はベッドから出ようとしたが、肝心の洋服がどこにも見当たらないことに今更気付く。

「その格好で帰るのかい?」


※ このお話はフィクションです。実在の人物・団体とは、一切関係ありません。作品内容への批判・苦情・意見等は、ご遠慮下さい。


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