「今夜は、早くお店を閉めた方が良さそうね」
ポツっと呟くように言ったのは、この店のママである華(はな)さんだ。
何でも、早くに旦那様を亡くされてこの店を開いたと聞いているが、50に届こうとしているのに10は若く見える。
数日前に株価が暴落、政治家や有名企業を相手にするこの会員制倶楽部も、世界的な不況によって事態は深刻化しつつあった。
そして、今日は運悪く夕刻からの雨。
「そうですね。雨も、だいぶ強くなってきたみたいだし」
さっき、帰るお客様を外まで見送って来た時に雨脚が一層強くなっていたから、それにこの時間ではもう来ないだろう。
しかし、そんな時だろうか、入口のドアが開いて数人の男性が既に出来上がっているのか、陽気な笑い声と共に店内に入って来た。
開店当初から勤めているというマネージャーの松原さんが、お客様を奥の席に案内がてら、私に目配せする。
「まだ、閉めなくて良かったわ。いい、お客様だもの」
「琴音(ことね)さん、お願いね」と華さんに頼まれて、私はお客様の前に立った。
「ようこそ、倶楽部 華へ。本日、お相手をさせて頂きます、琴音です。よろしくお願いします」
華さんが『いい、お客様』と言ったのは、今入って来たお客様が某精密機器メーカーの30代という若き常務だったから。
それほど大きな会社ではないが、たくさんの特許を取得して収益は常に安定している世界にその名を知られた超優良企業なのだ。
このお店を父親の代から贔屓(ひいき)にしてくれて、羽振りもいい。
こういうお客様はこの時代、非常に貴重な存在になりつつあったのかもしれない。
「琴音ちゃんは、今日も綺麗だね」
「ありがとうございます。そう言っていただけるのは、常務さんだけですよ」
社交辞令、いつもの挨拶で今はすっかり慣れてしまったが、初めてお店に出た時は舞い上がってしまったもの。
今日は自社の若き研究員達4人を連れての来店だと言っていた、その一人一人におしぼりを渡していくと、どこかで見たような顔が…。
―――えっ…まさか…。
やっくん?
そんなはず…とはいっても、彼がどこの会社に就職したかなんて知らないし。
琴音は、倶楽部 華で働いていることに何ら恥じることはないと自負している。
それというのも、この店のホステスは全員有名大学を卒業した才女揃いで客層も実力者ばかり、遊びというよりは密な情報交換の場として使われることがほとんどで、時には難しい会話に加わることもある。
海外のお客様を連れて来られる場合も少なくない、ホステスはその全てに対応できるような教養を身に付けていなければならない。
琴音も大学卒業後、1年間は人気の商社に勤めたものの物足りず退社。
ここで、お金を貯めて起業するという、きちんとした目標もあるのだから。
彼におしぼりを手渡したが、琴音と気付いていないのだろうか?態度は全く変わらない。
ホッとしたような、でも少し寂しいような…。
やっくんこと靖史(やすし)とは高校2年と3年でクラスが同じだったというだけで、別に元彼でも何でもない。
ただ、いつもグループの中で一緒に居たという、それでもあまり話した覚えがないのは、彼がいい男でとてもモテたというのもあったのだろうか。
ビシッと決めたスーツ姿は誰もが目を奪われる、そして近寄りがたい存在だったのだけは6年経った現在も変わっていないような気がする。
「そう言えば、琴音ちゃんも靖と同じM教育大付属だったよね」
「年齢も同じくらいだから、同級生だったりするのかな?」と常務に振られて焦って彼の方へ視線を向けてしまう。
―――しまった!!これじゃあ、バレバレじゃない…。
何とか平静を装ってはいたものの、常務さんにそんな話をしたことに後悔しても、もう遅い。
「えっと…そちらの方が、靖さんっておっしゃるんですか?同じ学校だったなんて、すれ違っていたら絶対覚えてますよ。あなたのように素敵な方なら」
精一杯の微笑でワザと惚けて覚えてないって顔をしてみたが、彼はにこりともせず、やはり無言のままで表情も変わらない。
――― 知ってるクセに。
源氏名だって、本名の琴音の方が可愛いからとママさんに言われたからそのままだし…。
「常務さん、いつものボトルでいいですか?それとも、他のものにしましょうか」
「取り敢えず、ボトルでいいよ」
「はい」と話題を変えて琴音は逃げるようにその場を立つと、奥の棚にキープしてあるボトルを用意する。
―――あぁ、何であんなところで振るかな。
それにしても、やっくんったらあの場で無言だったのは、私のことを気遣って?
彼のことを常務さんも靖と呼んでいいたのは、同じ苗字の人が他にもいるからだろう。
高校時代もそうだったから、彼のことを区別するためにみんなは靖史とか、靖とか呼んでいただけで、親しいとかそういうことは一切ないと念のため言っておくことにする。
その後は、常務さんの話が別の方へ逸れてくれたおかげでホッとしたが、できるだけ早く帰って欲しい…。
それだけを願うばかりだった。
◇
「雨の中、いらして下さってありがとうございました。また、お待ちしております」
「琴音ちゃんも、早くいい男見つけないとね」
「常務さん、誰か素敵な男性を紹介して下さいますか?」
「いいよ。琴音ちゃんのためなら」
願いも虚しく長い時間飲んでいたからか、すっかり雨も止んでいて常務さんはかなりご機嫌の様子。
呼んでいたタクシーに乗り込む足もフラついていたが、手を振って車が見えなくなるまで見送ると、ドっと疲れが出た。
―――早く帰って寝よう…。
琴音が、大きな溜め息と共に店に戻ろうとしたその時…。
「琴音って、本名なんだ」
「えっ」
たった今、タクシーに乗って見送ったはずなのにどうして…。
やっくんが…。
「俺のこと、忘れたのかよ」
「べっ、別にそういうわけじゃないけど…」
―――なんなの?わざわざ、確認するために戻って来たわけ?
そりゃあね、同級生がホステスやってるなんて、話の種になるでしょうよ。
これでも難関だって言われる国立大学に入った私が、こんなことをやっているんですもんね。
その理由をいちいちここで説明する気にはなれないけどっ。
「覚えてくれてたのか、良かった」
「良かったって何が?」
「いや、忘れられてたらショックだなって思って」
さっきはにこりともせずに無言だったクセに、今は随分と魅力的な微笑を琴音に向けている。
「私みたいのに覚えていられたら、やっくんも困るんじゃないの?」
「おっ、やっくんって呼ぶのお前だけだったよな。懐かし〜」
「は?そんなところで、懐かしんでないでよ」
―――確かに、彼のことをやっくんと呼ぶのは私だけだったかも?
何でそうなったのかは…何でだっけ?
今はそういう話ではなくって、覚えていたら困るんじゃないかってことよ。
平気なの?同級生がこんなんで。
「他のやつには呼ばせてないんだ。やっくんは、お前限定だから」
「そこんとこ、忘れないように」って、意味わかんないんですけどっ。
「だ・か・らっ、いいわけ?同級生が、ホステスやってても」
「起業するんだって?常務に聞いたよ。それにいつも、相談相手になってもらってるって。その辺の男より、ずっと頼りになるってさ」
「え?」
「すごいよな」
「やっくんだって、研究員やってるんでしょ?すごいわよ」
褒められるなんて思わなかった。
常務さんのおしゃべりも、たまにはいいことあったりするのかな。
「俺なんて、まだまだだし。なぁ、もう帰るんだろ?」
「まぁ」
「じゃあ、一緒に帰ろう。待ってるから」
「一緒に帰ろうって、高校生じゃないんだから。それとも、どこかに誘ってくれるの?」
―――こんな時間にどこに誘うってのよ。
どこも開いてないわよ。
一緒に帰るって言っても、家も知らないし…。
「お望みなら、どこへでも」
「はぁ?信じられない。いつから、そんなナンパ男になったのよ」
「たった今。高校の時は、誘う隙もなかったからな。それにこの店は会員制だから、俺みたいのは簡単に来れないし、今のうちに手を打っておかないと」
―――誘う隙もなかったって、そういうこと考えたりしてたわけ?
たった今なんて言ってるけど、知らなかっただけで昔からナンパ男だったんじゃ…。
「ほら、早く帰る支度して来いって」
「勝手に決めないで」
「いいから、いいから」と背中を押されて店内に戻り、着替えを済ませて出ると、やっくんは煙草を吸いながら待っていてくれた。
帰る時に男性が待っていてくれるのは初めて。
「お疲れ様」
言葉と共に出された左手。
そっと琴音は右手を重ねると、大きな温かい彼の手に包まれる。
「そこのファミレスで、始発までおしゃべりしよ?」
「ファミレス?」
「そう、学校帰りに良く行った」
笑って「いいよ」と答える彼と並んで歩く道は、来る時とは違って見える。
何かが始まろうとしている―――。
輝く闇の中のネオンが、二人を照らしていた。
お名前提供:琴音(Kotone)&靖史(Yasushi)… rin さま
※ このお話はフィクションです。実在の人物・団体とは、一切関係ありません。作品内容への批判・苦情・意見等は、ご遠慮下さい。
NEXT
BACK
INDEX
PERANENT ROOM
TOP
Copyright(c)2006-2013 Jun Asahina,All rights reserved.