金曜日、時刻は17時30分 品川駅。
いつもの京浜東北線のホームではなく、一つお隣の階段を駆け下りるとたった今入ってきた山手線外回りの電車に滑り込み、恵比寿で乗り換え降り立ったのは六本木。
狭い路地を抜け、とある雑居ビルに入ると待っていたエレベーターに乗り込み6Fのボタンを押す。
ドアが開くと、そこには”倶楽部 華”の文字。
「失礼します」
そう言って、ゆっくり店のドアを開けると薄暗い店内、カウンターにいたのは黒服に蝶ネクタイの長身の男性。
彼の名は、松原 俊哉(まつばら しゅんや)、この倶楽部のマネージャーだ。
開店当初からずっと働いている、私が唯一、気兼ねなく話のできる男性。
「こんばんは」
「こんばんは、今日もよろしくお願いします」
その向こうには、店内のチェックをしていたこのクラブのママ、華さんがいた。
「華さん、こんばんは。今日も、よろしくお願いします」
私がそう挨拶をすると、「今日もよろしくね」という華さんの声。
華さんは私の叔母で、父の妹である。
旦那さんを早くに亡くし、この店を開いたと聞いていたが、子供がいなかったからか、私をまるで本当の娘のように可愛がってくれた。
私はそのまま、奥にある控え室に向かう。
「失礼します」
ドアの向こうでは、ホステス仲間の雪さんと舞さんが既に準備を終えていた。
「「百合さん、こんばんは」」
二人の声が、重なる。
「雪さん、舞さんこんばんは」
ここでは、名前を呼ぶ時はさん付けで呼ぶ。
雪さんは国内トップの国立大学3年生で、舞さんは有名私立大学を出た後、一度は銀行に勤めたが、海外に留学したいからと資金集めのためにここで働いている。
私は持ってきた服に着替え、メイクをし直し、別の人格へと変身した。
ここは、知る人ぞ知る会員制高級クラブ。
ホステスも有名大学の学生、または卒業した才女ばかりで、顧客リストには政治家、有名企業のトップと蒼々たる面々が並ぶ。
娯楽というよりは、お忍びで情報交換を行う場として使われることが多い。
だから、ホステスは必要以上に客に媚びたりお酒を勧めるようなこともしないし、服装や化粧も、極力抑えるようにしている。
この店で働くホステスは、定期的にマナーやお花、年始には着物で客の相手をするため着付けも習う。
才女揃いのため、客の中には息子の嫁探しをする人も数知れず、花嫁修業にと、ここで働く者も後を絶たなかった。
私の名前は、川原 美沙(かわはら みさ) 24歳。源氏名は、百合。
週2回ここでアルバイトをしているが、表向きは某有名商社のOL。
このことは、もちろん誰にも言っていない。
父親が娘可愛さのあまり、小学校から女子校に入れてしまったことで極度に男性を苦手とするようになってしまい、女性同士の間では自分をさらけ出せるのに男性の前では話すことすらできなくなってしまう。
だから、私の友達(もちろん女性)は、あまりのギャップに媚びていると勘違いしたくらいだった。
それを見かねた叔母がこの店で働くことを勧めてくれたというのに案の定、父は猛反対、しかし母も叔母に加担したことでさすがに二人には逆らえなかったようだ。
ここで働くようになって3年が経つが、そのおかげで今の会社にも入社することができたと叔母には感謝している。
それでもやっと普通に会話ができる程度、女性同士の時の半分も自分を出すことができない。
だから、恥ずかしいことに恋というものを24歳にもなって、まだしたことがないのである。
今日は週末ということもあって予約もかなり入っていたが、22時を過ぎてだいぶ落ち着いてきた頃、数人の若い男性客が来店した。
その中には常連である有名企業の御曹司、須郷 秀一(すごう しゅういち)の姿があり、彼が連れて来たのだと思った。
「百合さん、お願いします」
マネージャーの松原さんの声。
須郷は私が空いていれば、必ず指名してくれる。
私は急いで、お客様のところへ行く。
「ようこそいらっしゃいました、こちらへどうぞ」
お客様をコーナーの席に案内する。
人数は4名。
須郷の指定で、彼がキープしてあるボトルを用意した。
「本日、お相手をさせて頂きます、百合です。よろしくお願いします」
そう挨拶すると、須郷が他の3人を紹介してくれた。
なんでも、全員学生時代の同級生だそうだ。
今日、気の合う仲間で集まって飲んだ後だと言っていたが、1人ずつ紹介し、3人目を紹介した時に私は耳を疑った。
なんとあろうことか、私の勤める会社の専務だと言うではないか。
その人の名は、山岸 耕太(やまぎし こうた)。
須郷が20代後半という年齢は聞いていたので、彼もそうなのだろう。
確か、社長の名前も山岸だったはずだから息子なのか。
こういうことがあり得ることを覚悟はしていたが、いざとなるとやはりどこか身構えてしまう。
しかし、ただの一社員と専務である。
秘書でもない限り、まず会社で顔を合わせることもないだろう。
さっきの不安も、普段あまり訪れることない自分と同じ年頃の男性達の会話ですっかり忘れていたことなど気付くはずもなかった。
百合が少しの間席を外したのを確認して、須郷が山岸に話し掛けた。
「百合さん、ほんと綺麗だよな」
そう言う須郷に、山岸も同じ意見だった。
「だけど、ガードが固いんだよな」
「意外だな、お前でも相手にされないなんて」
仮にも隣にいる須郷は有名企業の御曹司で、ルックスも男の目からでさえ見惚れるほどだ。
その男を相手にしない女など、今まで聞いたことがない。
山岸は今まであまり女性に興味がなかったが、須郷を相手にしない百合という女性をもっと知りたいと思った。
それから度々、山岸はこの店に訪れた。
そして、必ず百合を指名した。
彼女に対して特別な感情はなかったが、なぜか目で追ってしまう。
自分でもおかしいと思うが、その行動は止められなかった。
山岸もあまり話をするのが得意な方ではなかったが、百合はそれ以上に聞かれたこと意外話さない。
店からそう言われているのかと思えば、特にそんなこともないらしい。
「百合さん、山岸さんに気に入られてるみたいだね」
新しいボトルを入れた時、マネージャーの松原さんに言われた言葉が引っかかる。
今までもこういうことは何回かあった。
そこはまだ私が男の人を100%受け入れられる状況にないため、華さんが間に入ってやんわりと遠ざけてくれていたのだが、それ以上に同じ会社ということもあるし、今回も華さんに言ってそうしてもらわなければいけないかもしれない。
しかし、彼が話しかけてきたことに私は最小限の返事を返すだけで、別段会話が弾むとかそういうわけでもないのだが…。
+++
彼が店に来店するようになって1ヶ月ほどが過ぎたある日、美沙は部長に呼ばれた。
「川原さん、悪いけど専務のところへ行ってこの書類の内容を確認後、ここへ印をもらってきて欲しいんだけど」
そう言って、手渡された書類。
「あの、専務と言うのは」
美沙は一瞬、誰のことを言われているのか分からなかった。
というのも、役員室になど今まで一度も足を踏み入れたことがなかったからだ。
「あぁ、君は知らなかったかな。山岸さんだよ。社長の息子さんだ」
―――え?まさか…。
呆然と立ち尽くしてしていると「今からすぐに行くと連絡してあるから、大至急お願いするよ」と言われて仕方なく専務室へ向かう。
役員のいるフロアなんて行ったことがないが、エレベータを降りると独特の雰囲気が漂う。
受付けで山岸専務には、すぐに行く旨を伝えてあることを告げるとすんなり専務室に通された。
外見ではまず同一人物だとは判別できないだろうけど、声を出してしまうと分かってしまうかもしれない。
しかしここへきてどうこうできるわけでもないし、覚悟を決めるしかない。
「失礼します」
「どうぞ」
彼は顔を下に向けたまま。
横柄な態度は偉い人だから仕方がないが、今は愛想よく挨拶されるよりずっといい。
「総務部の者ですが、こちらの書類を確認後、印を頂けますでしょうか。先程、部長の方から連絡を入れていると思いますが」
私の言葉を聞いて、彼はちらっとこちらを見る。
一瞬、緊張が走る。
店に来ている時の雰囲気とは違う、鋭い視線。
心の動揺を悟られないよう書類を渡すと、すぐに内容を確認し始めた。
そして、何事もなく印を押す。
私は書類を受け取り「失礼しました」と言って部屋を後にしたが、自分の席に戻った時はものすごい疲労感でいっぱいだった。
To be continued...
お名前提供:川原 美沙(Misa kawahara)… rin さま
お名前提供:山岸 耕太(Kouta Ymagishi)/須郷 秀一(Syuuichi Sugou)ひとみぃ☆ rin さま
※ このお話はフィクションです。実在の人物・団体とは、一切関係ありません。作品内容への批判・苦情・意見等は、ご遠慮下さい。
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