このまま店を続けるのは、そろそろ潮時かも…。
周知の通り、勤めながらのアルバイトは会社規則で禁止されている。
これが知れれば、会社を辞めなければならないだろう。
今の自分にとってホステスという仕事も、会社での仕事も両方を天秤に掛けることは不可能だが、どちらかを取るならば、それが後者になることは間違いない。
「どうしたの?元気ないね」
「何か悩み事?」と山岸に問われて、慌てて今までの考えを胸の奥底へ押しやって笑顔を返す美沙。
彼は週2回、彼女が店に出ている時だけ来店して必ず指名する。
「えっ、すみません。お客様に余計な心配をお掛けして」
「いいんだよ。百合さんは、あまり本心を見せないからね。酔わせて違う君を引き出そうと努力してるんだけど、上手くかわされてしまう」
「そんなこと」
―――酔わせてなんて、専務はそんなことを思ってたわけ?
美沙は元来、お酒が強い方ではないから、お客様のペースに合わせるのが大変なのだ。
酔ってしまったら自身を見失ってしまいそうで、それが怖かったから。
「この店で働くホステスは、みんな何か夢を持ってるみたいだけど、百合さんはどうなの?」
「私ですか?」
舞さんは海外留学、雪さんはまだ大学生だけど、将来は外交官になりたいと話していたが、それぞれ、山岸の言うように夢を叶えるためにこの店で頑張っている。
美沙の場合はどうなのか聞かれると、そんな大それた夢を持つどころか、男性と会話すらできなかった自分を何とかしたかったからなどと言ったら、笑われるかもしれない。
いや、彼だって軽蔑するに決まってる。
「聞きたいな、百合さんの夢」
「聞いたら、ガッカリしますよ。それより、専務さんの夢を聞かせて下さい」
「また、上手くはぐらかされた」
あまり、深く聞いてこないで欲しい。
素敵な男性と素敵な恋がしたい―――なんて…。
「僕の夢は、というか、これは願いだな。社員とその家族が、いつまでも幸せでいられること。そのためには、もっともっと頑張らなきゃって思うよ。ここで遊んでる場合じゃないんだけど、専務だって一人の男だから、綺麗な女性(ひと)と過ごす時間があってもいいと思うんだ」
「これは、こじつけかな?」と笑う山岸からは、思いと熱意が伝わってくる。
この人がいれば、会社の将来もきっと安泰だろう。
だけど、綺麗な女性(ひと)っていうのは…。
彼には、決まった女性はいないのだろうか?
「専務さんの会社に勤める方々は、お幸せですね。でも、お店に来て下さるのは嬉しいんですけど、ご自身も早く素敵な女性(ひと}を見つけられた方が」
「本当にそう思う?」
「えぇ」
美沙は、新しいグラスにウイスキーの水割りを作り直す。
素敵な彼女ができれば、彼はもうここへは来なくなるだろう。
それは少し寂しいことだったが、これ以上関わらない方がずっといい。
「実は、そういう女性がいるにはいるんだけど」
「えぇっ、そうなんですか?」
想像以上にショックな自分に驚いた、そして自分の声にも。
素敵で専務で、そんな彼に女性がいない方がどう考えてみても、おかしかったのに。
「それが、なかなか手強いんだよ。どうしたら、僕を見てくれると思う?」
「専務さんに振り向かない女性(ひと)が、いらっしゃるんですか?」
質問を質問で返して、ちっとも答えになってないが、彼を見ない女性なんて、余程の面食いなのだろうか。
「いるんだよ。僕の友達の須郷ってやつが頑張っても、ちっともなびかないしさ」
―――須郷さんって、あの?
へえ、彼は多少軽いけど、素敵だし、御曹司だし、その彼にもなびかない女性ってことは、かなりの自信家ってこと?
「そうなんですか?」
「そうなんだ。だから、僕も彼以上にこうして足しげくこの店に通い、指名してるのにだよ?」
「どう思う?」と真顔で聞かれても困る。
この店に来るようになって、山岸は美沙以外のホステスを指名したことは一度もない。
ということは、必然的に…その…。
―――えぇぇっ!!もしかして、もしかしなくても、それって私なの?!
叫びたいのをグっと堪えて、平静を装う美沙。
まさか、本気だったとは…。
「一時の気の迷いっていうのではないですか?ほらっ、専務さんも随分とお疲れのようですし」
「僕は至って元気だし、自分の意志に対して迷いはないよ」
―――はっきり言い切るところが彼らしい、と誉めてる場合じゃなくってっ。
その前にどう、かわせばいいのっ。
それでなくても、彼は美沙と話をする時に真っ直ぐ目を見詰めてくるのだ。
世の女性なら、その時点でコロっといってしまうに違いない。
だから、余計始末に困る。
だいたい、自分の会社の社員がここでバイトしていたと知ったら…それこそっ!!
「大企業の専務さんの相手が、クラブのホステスでは…」
「君はただのホステスじゃない。教養があって、美人で。何も悲観することなんてないよ」
「でも…」
「僕がそんなことを気にするようなちっぽけな男だと思っているなら、残念だな」不意に山岸に手を握られて、思わず体がビクっと震えた。
今までだって酔いに任せてそういうことをしてくるお客様もいたが、彼のそれは全く別物だった。
全身に電気が走るような。
もし、この先、それ以上のことになったなら、自分はどうなってしまうのだろうか。
「あぁ、これからはこの店だけでなく、いつでも君に会えるんだね。なんて、素晴らしいんだ」
男性と付き合った経験すらない美沙が、ましてや同じ会社に勤めながら、夜にはクラブのホステスという立場で彼と付き合い始めたら…。
この手を今すぐ、振り解かなければ―――。
頭の中でそう思いながら、それでも彼の言った素晴らしい何かをほんの少しだけ垣間見たい。
そういう自分がいるのも確かだった。
+++
「あら、川原さん。風邪?大丈夫?」
「いえ、花粉症なんです。昨日から、くしゃみと鼻水がひどくいって」とメガネと大きなマスクで顔を覆う美沙は、言ってる側から ”はっくしょぉん!!”
と大きなくしゃみ。
そんな彼女に先輩の女子社員が「これからの季節は、辛いわね」と優しく声を掛けたが、いつ何時、専務のところに行かされるかかわからない。
実際、本当に美沙は花粉症だったことが、こんな時に幸いするとは。
取り敢えず、花粉症の期間だけでもマスクで顔を覆っていれば、山岸を誤魔化すことは可能だろう。
「川原さん、この書類を専務の所へ持って行ってくれないか。大至急」
「えっ。はっ、はい」
―――ほらっ、おいでなすった!!
まるで、申し合わせたかのように専務室へ行く用事。
美沙は急いで席を立ち、役員のいるフロアに足を踏み入れたのはこれで2度目だったが、やっぱりこの空気には馴染めない。
前回同様、受付の女性に書類のことを告げ、専務室のドアをノックする。
いつもの声に「失礼します」と美沙はなるべく、俯き加減に視線を合わせないようにして中に入った。
「総務部の者ですが、書類をお持ちしました」
「ご苦労さん、ありがとう」
美沙は書類を山岸に手渡し、「それでは、失礼します」と言って踵を返す。
―――ふぅ…すんなり済んで良かった。
「大丈夫?風邪?」
「いっいえ。か、花粉症ですぅ」
いきなり声を掛けられて思わず飛び上がったのと同時に声も裏返ったが、逆にそれが良かったのかもしれない。
もしも、声でバレたりしたら大変だから。
「そうか、辛いね。僕にはわからないんだけど」
「いえ、わからない方がいいと思いますよ」
もう一度、「失礼します」と言って部屋を出ると、ドっとかと疲れが美沙を襲う。
―――あぁ、疲れるわ。
大きく溜め息を吐くと、トボトボと自分の席に戻って行った。
※ このお話はフィクションです。実在の人物・団体とは、一切関係ありません。作品内容への批判・苦情・意見等は、ご遠慮下さい。
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